大和朝廷草創期の功労者

★はじめに

「記紀」によれば、大和朝廷(大和朝廷という言葉は、一般的には、崇神天皇以降をいうようであるが、ここでは便宜上、神武天皇以降とする)の草創期には二人の天皇がいたそうで、言わずと知れたお一方は神武天皇であり、もう一方の方は崇神天皇である。特に、神武天皇はご丁寧にも大和朝廷創建に功労のあった人を論功行賞している。「日本書紀 卷第三 神武天皇二年春二月甲辰朔乙巳 天皇定功行賞」とあり、それを箇条書きにすると以下の通りである。

1.賜道臣命宅地 居于築坂邑 以寵異之
2.亦使大來目居于畝傍山以西川邊之地 今號來目邑 此其縁也
3.以珍彦爲倭國造 【珍彦 此云于努比故(うづひこ)】
4.又、給弟猾猛田邑 因爲猛田縣主 是菟田主水部遠祖也
5.弟磯城名黑速 爲磯城縣主
6.復以劒根者 爲葛城國造
7.又頭八咫烏 亦入賞例 其苗裔 即葛野主殿縣主部是也

道臣命、大來目、珍彦、弟猾、弟磯城、劒根、頭八咫烏とあるが饒速日命はこの論功行賞には連なっていない。当時は人が住むところは「邑むら)」と言ったらしく、また、「宅地(いへどころ)」は整備されている土地かと思われ価値も高かったようである。宅地を与えられているのは「道臣命」と「大來目」だけで、「珍彦」以下は國造とか縣主と言う地位を与えられ、あとはお前たちで開墾せよ、と言うことらしい。地域的には劒根(葛城國造、御所市)、弟猾(猛田縣主、宇陀市)、弟磯城(磯城縣主、磯城郡)、珍彦(倭國造、天理市)、頭八咫烏(葛野主殿縣主、木津川市)となっており、奈良盆地を南から東山麓を北上し木津川市で河川を利用して京都府乙訓郡あたりでそのまま水路で瀬戸内海に出たか、あるいは陸路に換えて日本海側にでたか、はっきりはしないが木津川市や乙訓郡は交通の要衝であったのであろう。また、神武天皇の支配地域と思われるところに奈良盆地西部は含まれていないのであるいは登美(鳥見、登見などとも)の地には伝説どおり別の豪族(長髄彦、饒速日命)が支配していたのかも知れない。その豪族はどうなったのかと言えば、記紀では長髄彦は抵抗して滅ぼされ、饒速日命は神武天皇に帰順して物部氏として繁栄したものと描かれている。一応、物部氏の本貫は河内国と言われ、これも大伴氏の道臣命の話と同じく後世の物部氏の付会か。しかし、「記紀」に関しては多くの学者先生は史実の真相を伝えたものではないと主張する。即ち、いくら記紀を分析しても正解は出てこないし、意味がないと言うことである。以下、一例ではあるが少しばかり長文を引用させていただく。著者は岡田英弘という東京外国語大学教授で「倭国 ー 東アジア世界の中で」(中公新書)から引用する。それによると、

「しかしいかに『日本書紀』の記述が豊富で多彩だからといって、、それだけでは史実の真相を伝えたことにはならない。面白いということは、本当だということではない。このことをわれわれに思い知らせてくれるのが、先ほど引用した『隋書』の記述である。そこで大事なことは、日本列島にまだ統一国家が出現していないことだけではない。七世紀の初頭の邪靡堆(やまと)に都していた倭王が、阿毎多利思比孤(あめたりしひこ)・阿輩雞彌(おほきみ)という名の男王であった、という事実が重大である。
『日本書紀』によると、この時代は推古天皇の治世で、れっきとした女帝であり、聖徳太子が摂政の地位にあったことになっている。しかし隋の使者の報告では、邪靡堆の都で面会したのは確かに男王である。この女帝と男王の矛盾は、いくら重視しても重視しすぎることはない。『日本書紀』の伝える、五九二~六二八年という推古天皇の在位年代が誤りなのか、あるいは推古天皇という女帝が実在しなかったのか、答えはこの二つのうちを出ないが、どちらにしても、『日本書紀』の記述が史実を伝えたものでないことは明白である」と。

隋の係官の質問に対し、倭の使者は王は男王で妻(雞彌)もおり、皇太子(利歌彌多弗利)もいるといった。煬帝が倭に派遣した裴世清も倭王に面会したという。聞き書きはともかく裴世清が面談した倭王は男王だっただろう。しかし、日本では一般にこの男王を聖徳太子と解しているようである。従って、裴世清が面談した男王は聖徳太子であり、妻も蘇我馬子の娘といわれる刀自古郎女で、皇太子は山背大兄王ではなかったか。もっとも、この時代は少し問題があり、「百済本記」に「日本天皇及太子皇子倶崩薨」とあり、「日本書紀」にも、「蘇我臣専擅国政。多行無礼。天無二日。国無二王。何由任意悉役封民」(皇極天皇元年是歳条)とあったりして、蘇我という氏素性の分からぬ田舎者に中央政界はかき回されていたようだ。あるいは、裴世清が面会したのは国の二王のうちの一人蘇我馬子あたりか。但し、「新唐書卷二百二十 列傳第一百四十五 東夷 日本」には「次海達。次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。次崇峻。崇峻死、欽明之孫女雄古立」とあり、用明天皇を阿毎(目)多利思比孤といっている。用明政権は短命で、天足彦などとはいっていないので真偽のほどは詳らかでない。少しの文章の行き違いが記紀の信頼を大きく損ねていることは間違いない。記紀のいうことの全部が全部正とはいわないまでもおおむねは史実に近いものではないか。

★草創期の功労者はその後どうなったか

1.道臣命
その子孫は後世の大伴氏・伴氏という。真偽のほどは定かではない。もしそうなら、平安時代前期の伴大納言善男まで延々と続いたということになるが、栄枯盛衰の激しかった古代にあってそんなに長命な家系を保てたものか。権勢を誇った蘇我氏もわずか四代で終わった。大伴氏の家系には久米氏の家系も加わっているのではないか。

2.大來目
後世の久米氏の始祖かとも思われるが、「新撰姓氏録」では久米直の先祖は高御魂命と神魂命の二系統があることになっている。私見の勝手な推測では神武東征の最後の件は神武天皇と大來目が奈良盆地東部を平定した話であり、道臣命の話は後世有力氏族となった大伴氏が追加した話ではないのか。大伴氏は大阪湾沿岸、紀国の一部、阿波国の一部に勢力を持った氏族でとても奈良盆地奥深くまで深耕した一族とは思われない。おそらく、大來目一族は彼一代で衰退した。即ち、彼の子・孫などはできが悪く大來目の功績を背負うことができなかったのであろう。大伴氏が大和に入ったときにあったのは久米氏の伝承系図だけで大伴氏が借用したのもそれだけではなかったか。

3.珍彦
椎根津彦(しいねつひこ、「日本書紀」)、槁根津彦(さおねつひこ、「古事記」)とも言う。倭(やまと)の国の国造は国造制が廃止されるまで、珍彦の子孫が継承したようである。細々とではあるが長命を保った家系である。

4.弟猾
「日本書紀」に「是菟田主水部(うだもひとりべ)遠祖也」とある。主水部とは飲料水や氷を管理する人で宇陀は冷涼の地なので後世氷室が造られたか。しかし、中世以降、中央の主水司長官は清原氏の世襲となったようなので弟猾の子孫のその後の子細は不明である。

5.弟磯城
磯城縣主は欠史八代の天皇の第二代綏靖天皇(「古事記」では皇后を河俣毘売とし、師木県主波延(安寧天皇皇后、阿久斗比売の父)の妹とする。「日本書紀」は五十鈴依媛命(事代主命の娘)とする)、第三代安寧天皇(「古事記」では皇后を河俣毘売の兄である師木県主波延の娘 阿久斗比売とする)、第四代懿徳天皇(「古事記」での皇后は、師木県主の祖である賦登麻和訶比売(飯日比売))、第五代孝昭天皇(「日本書紀」第1の一書での皇后は、磯城県主葉江の娘である渟名城津媛)、第六代孝安天皇(「日本書紀」第1の一書での皇后は磯城県主葉江の娘である長媛)、第七代孝霊天皇(「日本書紀」本文における皇后で、磯城県主大目の娘)、以上、第二代から第七代までの天皇の皇后に磯城県主の娘がからんでいる。特に、磯城県主「葉江」の関係者が多い。ハエは弟磯城名黑速(くろはや)のハヤに音が似ていると言うことで葉江と黒速は同一人物か親子という人もいる。この天皇氏と磯城県主の結びつきをどう解するとよいのか。後世、天皇家と結びついた姻族は好き勝手なことを行っている氏族が多いところを見ると磯城県主氏は遠慮がちで到底事実とは考えがたい。欠史八代の実在性をいうのだったら第八代孝元天皇以降が実在したという方がいいのではないか。

6.劒根(つるぎね)
葛城國造。氏は葛城氏。姓(かばね)は直。天武天皇12年(683年)に連に、14年に忌寸。有名な葛城襲津彦は武内宿禰の子孫で系統を異にするが、葛城襲津彦の母は葛城荒田彦(古墳時代の国造)の娘の葛比売という。その後の子孫は詳らかではない。

7.頭八咫烏
其苗裔 即葛野主殿縣主部是也。頭八咫烏(やたがらす)の本性は「新撰姓氏録」によれば賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)であるという。現在、下鴨神社の祭神。下鴨神社のサイトには「当神社御祭神、賀茂建角身命を奉斎していた一系流「葛野主殿県主部」との氏族の名がみえる。この氏族は、賀茂建角身命の先の代、天神玉命を祖神とする鴨氏と同じ氏族であったことで知られている」と。言っていることは不明だが、今の神主家と葛野主殿縣主部氏とは同族だが格が違うとでも言いたいのか。しかし、鴨氏が私的に天神玉命の直系の子孫と称しているのと「日本書紀」のお墨付きがある葛野主殿縣主部氏とではどちらに信頼があるのか。葛野主殿縣主部氏は現在ではお家断絶したものか。

以上を総括すると、倭国の中央政界に後世まで残ったのは道臣命の子孫とされる大伴氏・伴氏だけである。

★皇后の出身氏族

「記紀」で事績のはっきりしている神武天皇とか崇神天皇とかの皇后の実家は多かれ少なかれ天皇の国政に参与し実績を上げている。一応、記紀に実績が書かれている天皇についてその皇后の出身氏族を見てみる。

1.神武天皇

神武天皇は記紀では神武東征とか大和平定とかあるが、事実とは思われない。神武天皇の皇后は「日本書紀」では「媛蹈鞴五十鈴媛命」(ヒメタタライスズヒメ)と記し、「古事記」では「比売多多良伊須気余理比売」(ヒメタタライスケヨリヒメ)と記す。父は「日本書紀」では事代主神と言い、「古事記」では三輪大物主神(大国主の和魂という)とある。双方の名にタタラとあるのは、たたら吹きを指したり、その時に用いられる道具を言うとするのが標準的な見解で、皇后の出身氏族が、製鉄と関係がある出雲地域であったか。あるいは、吉備の可能性もある。しかし、父親が事代主神とか三輪大物主神と言っているので出雲が出身地であろう。従って、出雲を征服した最初の天皇は記紀には記載はないが神武天皇の可能性が大である。即ち、大国主の国譲りの話では記紀に異同はあるが、一応、「日本書紀」のいいとこ取りをして、最終的な大和国(高天原)の交渉使は經津主神(ふつぬし)と武甕槌神(たけみかづち)の二神が行ったとする。この両神は、経津主神は本来は物部氏の祭神で、建御雷神は中臣氏の祭神であるという見解もあるがここでは関知しない。結論を言えば、経津主神と建御雷神の組み合わせは神武天皇と大來目の組み合わせで二人は出雲まで出向き(大和国から出雲国までの行路は既に神武天皇以前に確立していた)丹波・但馬や筑紫の勢力とともに出雲を大和の傘下に収め、事代主命以下の要人を大和国へ移したのではないか。事代主命等は当時の医術とか呪術とか建築とかの先端技術を大和へ伝えたのではないか。

2.崇神天皇

第二代天皇から第九代天皇までは欠史八代の天皇で本人の事績もままならないのに皇后の実家の貢献までは手が回らないといったところだ。事績のはっきりしている第十代崇神天皇を見てみると、天皇の皇后は「日本書紀」では御間城姫(みまきひめ)、「古事記」では御真津比売(みまつひめ)とある。皇后の父は大彦命で崇神天皇の伯父に当たる。天皇と皇后は従兄妹の関係である。しかし、「記紀」が大彦命を大和国の人とする見解には賛成できない。大彦命は「日本書紀」では四道将軍の一人として北陸地方を平定したらしい。「古事記」では北陸平定後に同じく四道将軍の一人で東海地方を平定した子の建沼河別命と合流した場所が相津、即ち、現在の福島県会津地方であると言う。これを見ると、大彦命父子は北陸や関東・東北の地域事情に明るかったようである。また、一般に、埼玉県行田市の稲荷山古墳から発掘された金錯銘鉄剣に見える乎獲居臣(をわけのおみ)の上祖、意冨比垝(おほびこ)と同一人である可能性も指摘されている。こう見ると大彦命は関東、ことに、武蔵国や毛野国の支配者で東日本の覇者ではなかったか。それを、崇神天皇が東国へ遠征し大和国の傘下に取り込んで、御間城姫を妻として、かつ、大彦命一族も大和へ移した、というのが真実に近いのではないか。いずれにせよ、大彦命一族は大和国の版図拡大に貢献したことは間違いないと思う。

3.垂仁天皇

第十一代垂仁天皇は、まず、狭穂姫命(彦坐王の女)という皇族の皇后がいたが、実兄の野心のため焼死した。その後、四道将軍の一人の丹波道主王の娘たちを後宮に入れ、日葉酢媛を皇后とした。これも何とも言えないが、丹波国へ遠征したのは垂仁天皇で丹波国の大和国への併呑並びに日葉酢媛命を皇后としたものではないか。おそらく、当時の丹波はかなり広い地域で言われている丹後、但馬、丹波のほか山城や摂津の一部なども丹波道主王の支配地域ではなかったか。「日本書紀」にある「丹波(道主王)の五人の娘を後宮に入れて、日葉酢媛命を皇后にし、竹野媛のみは形姿醜きにより本国に返した。彼女は返されたことを羞じて、葛野で自ら輿より堕ちて亡くなられた。故に、そこを名付けて堕国という」(日本書紀、垂仁15年2月、8月)とあるが、竹野媛は堕国(乙訓)で自殺したのではなく、そこにあった父の別宅へ帰ったと言うことであろう。ところで、日葉酢媛命は本当に丹波の出身だったのであろうか。私見では日葉酢媛命の話と竹野媛の話は別物で日葉酢媛命は吉備からやって来たのではないかと思っている。記紀の垂仁天皇の段には野見宿禰の殉死に代える埴輪起源譚や古墳築造の分業化などがあるが、これらは吉備国から導入されたものではないのか。

以上、景行天皇以下を加えても冗長になるばかりなので、ここで打ち切る。言わんとすることは、古代にあっても天皇の権勢維持には皇后の実家の助力が大きく寄与したことは間違いないと思う。もっとも、それぞれの皇后の実家は天皇にも比肩するほどの実力のある一族であったことも間違いない。神武天皇は大国主一族(勢力版図・山陰から北陸)、崇神天皇は大彦命一族(勢力版図・関東一円)、垂仁天皇は吉備氏一族(勢力版図・山陽)だ。いずれの一族も日本の天皇になってもおかしくないような名族ばかりである。

★まとめ

大和朝廷草創期の功労者で神武天皇が論功行賞を行った人々の苗裔は大和朝廷では中小豪族として活躍したようである。天皇の后でも垂仁天皇までは大国の豪族の息女だが、景行天皇以下の后は大伴、物部、吉備氏分家、息長、葛城、大宅など中小豪族の息女が多くなってくる。また、皇族女子を皇后にする例も目だつ。従って、神武天皇を始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)といったのも崇神天皇を御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)といったのも、当時はスーパー大国であった出雲国や毛野・武蔵国を併呑したからであろう。出雲国併呑が第一の創業なら毛野・武蔵国併呑が第二の創業だったのだろう。一応、四道将軍が派遣された国が当時の天皇家に匹敵する大国だったと思われる。派遣先は北陸(北陸道)、東海(東海道)、西道(山陽道)、丹波(山陰道)とされているが、有力国は時代とともに変わるものであろう。出雲、毛野・武蔵、吉備、丹波が大和朝廷草創期の強国であったのであろう。
天皇家の臣下は草創期は質が高い氏族が多かったが、だんだん時代が下ってくると臣下の質も下がりご苦労が多かったことと思う。しかし、天皇家の直接支配が古墳時代から平安時代まで1000年間も続いたと言うことは驚愕に値する。

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