縄文時代の日本と中国

★はじめに

中国の文献で最初に倭・倭人が出てくるのは、王充(おうじゅう 27年 – 97年)の「論衡(ろんこう)」で、それによると「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)(成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず)とある。成王(姫誦)は西周第二代王とされ、その在位期間は前1021年? – 前1002年?かとも言われている。これを機械的に計算すると今からおよそ3000年前になる。3000年前の我が国と言えば縄文時代晩期から弥生時代前期にあたり、あるいは、殷の滅亡の影響が長江にまで及び長江下流域の人が九州北部へ到来し、日本に水田稲作を伝えたものか。このほかに、中国の古記録で倭・倭人が載っているものとして「山海経」(著者は禹の治水を助けた伯益に仮託される)の「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」(山海經 第十二 海内北經)(蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す)とある。燕(えん、紀元前1100年頃 – 紀元前222年)は周・春秋戦国時代に存在した国でこの説によっても中国が日本を認識したのはおよそ3000年前かと思われる。換言すれば、3000年前に中国より水田稲作の技術が伝えられてから日本は本格的に中国の先進技術を取り入れるようになったのではないか。それでは、それ以前はどうだったのかと言えば、中国の遺跡にも、はたまた、日本の遺跡にも相手国の遺物は発見されていないようである。しかし、日本の縄文時代は中国でも日本と似たり寄ったりの文化程度で遺跡から掘り出されるものは石器、土器、玉器、骨角器などは双方同じであるが、大きく違うのは中国は早くから農業が発達し、北部では粟、南部では米が主食になっていたようで、狩猟、採取、漁撈は早期には比重が高かったらしいが、徐々に副業化したようである。豚、犬、鶏は家畜・家禽として飼われていた。日本にも縄文農業があったと言われているが、生活の主たる支えになる農業、牧畜業とまでは行かなかったのではないか。即ち、日本は狩猟、採取、漁撈の比率が80で、農業の比率は20、中国は逆で農業が80、狩猟、採取、漁撈は20程度であったのではないか。おそらく中国は今から6000年前には完全に農業国家になっていたと思う。従って、6000年前ほどからは中華思想よろしく我が国は中国へせっせと通ってその先進技術を取得していたようである。中国と言ってもその国土は広大で、中国文明と言っても黄河文明、長江文明、遼河文明に大別されるようである。但し、諸説がある。そのうち我が国に大きなインパクトを与えた文明は縄文草創期、早期、前期に影響を与えた「遼河文明」と弥生時代の契機となった「長江文明」があろうかと思う。
遼河文明の特徴としては、
1.大規模な竪穴式住居
2.墳墓や祭壇などの神殿施設
3.風水の原型の出土
4.龍を刻んだ翡翠などの玉製品
5.遼寧式銅剣(琵琶形銅剣)の出土
6.櫛目文土器の出土
などが上げられているが、日本の「三内丸山遺跡」と比較すると、竪穴式住居や神殿施設は同じではあるが、風水、龍、銅剣、櫛目文土器などは当時の日本にはないものである。但し、櫛目文土器については「縄文時代前期に日本列島の九州から南西諸島まで広まった曽畑式土器も、朝鮮の櫛目文土器の影響を強く受けたと考えられている」とあり、櫛目文土器は朝鮮半島が発祥の地か。他に櫛目文土器はヨーロッパ北東部(ロシア・フィンランド)にもある。フィン系語族の人たちはモンゴロイドと思われがちであるが、多くはコーカソイドの由。従って、中国、朝鮮の櫛目文土器とヨーロッパ北東部の櫛目文土器は関係がない。たまたま偶然に同じ手法が開発されたと言うことであろうか。日本に入ってきたのも当時は後進地域だった九州・南西諸島で日本全体に大きな影響を与えたものではない。
そこで、当時の日・中の共通項とも言うべき「竪穴式住居」について検討してみる。

★日本と中国の数詞

竪穴式住居を建てると言っても最終的には数字があって均衡のとれた建物でないとすぐに潰れてしまう。中国では最初から日本的に言う大規模団地が造られているので早くから「数」の概念が発達していたと思われる。ここでは主に日本の数詞について検討してみる。

古代の日本の数詞

A説 倍数関係の構成法を有するという。

fito(1) mi(3) yo(4) itu(5)
futa(2) mu(6) ya(8) towo(10)

B説 一と二の組み合わせによる数表現。

fi(1) mi(3) (y)i(5) na(7) ko(9)
fu(2) yo(4)  mu(6) ya(8) to(10)
おそらく、元々はyo(4)とmu(6)はyo<yu>(6)とmu(4)だったのではないか。na(7)とya(8)、ko(9)とto(10)は母音がそろって1から6までとは異質で、後世、十進法が導入された際、追加されたものではないか。

ところで、数名称として二語しか知らなかった民族は多いらしく、数字は1と2(対を意味する言葉を用いる)しかなく、3は2と1と言い、4は2と2と表現するそうだ。4より上の数字は「たくさん」という。中国語の「三」も不明文献らしいが、上の横棒二本と下の横棒一本とを離して書く例があるそうな。あるいは、中国の原初には数字は1と2しかなかったのかも知れない。それに比べて、日本は曲がりなりにも6までの数字はあったようだ。その起源については、日本もご多分に漏れず、1と2しかなく、1は潮の引くことを表し、2は潮の増えること(満<みつる>こと)を言ったという説もあるやに記憶しているが、潮の干満の時間差は長く、にわかに信じがたいような気がする。但し、諸説がある。また、上述のA説は元の数字を2倍にするという高度な計算技術を用いており、何事にも単純な原初の発想としては採りがたい。そこで、私見を述べさせてもらえば、
日本の数詞の起源は「人間」にあったのではないか。上述のように数字の「2」は「対」を意味する言葉で表すとなれば、人間の体は「対」で構成されているものが多い。「眼」「耳」「鼻の穴」「腕」「足」「手足の指」「肘、膝」などであるが、あるいは大地によって立つ「足」を持って基数を表したか。fi(1)、fu(2)を持って一単位(一人・夫)<この場合、fiは彦(ひこ)のfiか。fiの対の語はfuか>とし、mi(3)、yo<muか>(4)を一単位(一人・妻)<この場合、miは女(め)の転か。miの対の語はmuか>とし、(y)i(5)、mu<yuか>(6)を一単位(一人・子供)<この場合、愛子(いとこ)とか妹(いも)の(y)iか。(y)iの対の語はyuか>とする三人一家族を意味していたのではないか。1を意味するfitoは「人」のことか。おそらく、当時は幼児死亡率が高く、標準的な家庭で親子三人が一般的だったのではないか。現在の少子化社会と何ら変わらないようだ。核家族化も思いの外早かったと言うことか。しかし、我が国を見るなら1から6の数字でかなり善戦している方だ。例えば、三内丸山遺跡の「6本柱で長方形の大型高床建物」は著名で、この建物で言えば、35cm単位の「縄文尺」ばかりが有名だが、「6」の数字にももう少し注目してほしいものだ。まず、そのものズバリ6本柱である。また、縄文尺は35cm単位の12進法と言うが12の半分は6である。即ち、35cm×6=210cmが基本の長さで210cm×210cmの正方形を組み合わせて大型建物を建てようとしたのか。

偶数と奇数

中国は国土が広いので偶数文化圏と奇数文化圏があるようだ。例えば、鳥越憲三郎博士「古代中国と倭族」(中公新書)によると後李遺跡に関し「原始的な三つ石を置く地炉の竪穴式住居であったことは注目してよい」とあった。一般に、日本ではカマドや炉は壁に寄せて造るにせよ部屋の真ん中に造るにせよ四角形であり、三角形の炉などと言われれば奇異に感じる。また、「鼎の軽重を問う」の鼎も三本足であり、「規(き)」(規の下に鬲と書く)も三本足で、いずれも黄河文明の遺産とも言うべきものであり、どうして「3」という数字に安定を求めたのかは分からない。奇数は一般に不安定要素ではあるまいか。上述したように日本では2の倍数が用いられており、同じ「6」でも日本は2の3倍であり、中国は3の2倍で、その意味するところは倍数を作る場合の基数において異なるようである。従って、十進法に統一されるまでの日本と中国の数字は根本的に違っていたのかも知れない。また、現今では日本は奇数文化圏、中国は偶数文化圏と言われるが、三星堆遺跡(長江文明)で出土した「太陽輪」の支柱が5本というのも不思議だ、と言う人がおり、結局、中国は先史時代は奇数文化圏で日本が偶数文化圏ではなかったか。日本の五節句にせよ、奇数は陽の数などというのは中国から入って来た思想(陰陽思想)であり、とても日本古来のものとは考えられない。
よって、「数(すう)の文化」は、日本と中国はその発祥において異なると考えられる。

竪穴式住居

竪穴式住居は世界中どこにでもあるもので取り立てて言うほどのものではない、と言う人が多いかとも思うが、竪穴式住居は寒冷地仕様で我が国では中部以東に偏在しているという。西日本では九州の一部に一時期あるに過ぎない。しかし、西日本にも旧石器時代以来間断なく遺跡が発見されているので住居は平地式住居ではなかったかと考えられている。平地式住居は発見が難しいようだ。一応、日本の竪穴式住居は関東地方を主に中国のは黄河流域を主に検討する。中国の史料は鳥越憲三郎著「古代中国と倭族」(中公新書)を参照させていただいた。

日本(主に関東地方)

縄文時代
草創期 平面形態は円形・不整円形。
・前田耕地(まえだこうち)遺跡(東京都あきる野市)
第一号跡 平地式住居
第二号跡 竪穴式住居(4.2×3.1mの不整円形。約10cm掘り込まれ、中央に炉がある。柱穴は未確認)
・相谷熊原(あいだにくまはら)遺跡(滋賀県東近江市)
径約6.0~8.0mの不整円形(約8.5坪~15坪)。地面から床面までは約0.6~1.0m。
建物床面には多数の小穴を確認しているが、柱並び等は明確ではない。
屋内外共に明確な炉跡等の痕跡は確認できず。
早期前 平面形態は、円形・不整円形・方形・隅丸方形など不定。
径は3~4m。掘り込み10~20cm。
炉や浅い掘り込みを持つものもある。
柱穴は多数検出されたものと検出されない住居もある。
・多摩ニュータウン№293遺跡(東京都八王子市)
不整円形か。長径約4.7m、短径約3.9m。
中央のくぼんだところが炉跡と言う。
早期末 平面形態は円形・楕円形で、地床炉を有し、壁柱穴がある。
不規則な主柱穴・小柱穴。
前期  平面形態は定形化し、円形・方形・隅丸方形・隅丸長方形など
径は4~5mで、主柱穴は2~6本が一般的。他に数本の小柱穴がある。
壁側に周溝が存し、多くは地床炉で稀に土器囲いがある。
・椚田(くぬぎだ)第Ⅴ遺跡(東京都八王子市)第Ⅰ~Ⅴの大規模遺跡群の一。
6m×4mの長方形。床に6つの柱穴と壁際に小さな柱穴が廻っていた。
北側の床面に炉跡。
中期  平面形態が「方」から「円」に変わる。
径は平均5~6mの円形・楕円形で、柱穴は4~8本が規則的に配される。
地床炉・埋甕炉・石囲土器囲炉が設けられ、周溝を持つ。
出入口部に埋甕が伏された住居跡もある。
・竜安寺川西(りゅうあんじかわにし)遺跡(山梨県笛吹市)
1号住居跡
縄文時代中期中葉という。
直径5.6 mほどの円形。竪穴の深さは遺構確認面から約20㎝。
壁はやや斜めに立ち上がる。柱は4~5本。中央に石囲炉。
中期末 中期末から後期にかけて敷石住居・柄鏡形住居が見られる。
・宮内井戸作(みやうちいどさく)遺跡II-2地区19号住居跡(千葉県佐倉市)
縄文時代後期・晩期
居住部には壁柱穴が多数巡る
炉跡は居住部中央より張出部に寄る
居住部と張出部の連結部にハ字状ピットを有する
張出部に土坑を構築
後期  平面形態は円形・楕円形・方形。径は平均5~6m。
炉は石囲・埋甕・地床炉で、主柱穴は4~8本。周溝を持ち、張出部を持つものもある。
・平尾遺跡6号住居跡(東京都稲城市)
縄文時代後期前半
方形5m×5m
柱穴3
東側の壁の中央に溝とスロープがあり、石組みの炉の周辺に入り込める
幅70cmの出入口部が分かった珍しい例
・伊礼原(いれいばる)遺跡(沖縄県中頭郡北谷町)
隅丸方形2m×2m(3m×3m説もある)。床に敷石が施されている。集石遺構がある。
後期後半「方形」も多く見られ、地床炉のみとなり、壁柱が巡り、柱穴が多数となる。
晩期  後期後半から見られた「方」系統が主流となり、主柱穴、壁柱穴が巡り、
出入口と思われる張出部が設けられたものもある。
・大森勝山(おおもりかつやま)遺跡(青森県弘前市)
径約13mの円形。内部には径1.4mの石組炉と4本の主柱穴がある。

中国(主として黄河文明・遼河文明)

新石器時代早期(黄河・約7500年前)
磁山(じさん)遺跡
1.円形・楕円形の竪穴式住居
2.直径2.9m、深さ1.1m(円形)、直径3m、短径2m、深さ1.2m(楕円形)
3.東北部に階段式門道(出入口)
4.室内には4本(円形)8本(楕円形)の柱穴があり、地炉が設けられている。

仰韶(ぎょうしょう)文化(黄河・6000~6500年前開始)
半坡(はんは)遺跡
1.大型竪穴式方形住居跡(集会) 深さ約50cm、長方形、面積165㎡
2.小型竪穴式方形住居跡(民家) 深さ40~80cm、隅丸方形又は長方形、4m×5m、面積20㎡
壁は苆(すさ)入の粘土を25~35cmの厚さで塗りそれを火で焙って固め、強風と湿気を防ぐ
入口は南に向き、長さ1.5~2mの坂又は階段式の門道(入口)がつく
室内は中央に地炉が一つ、1~4本の木柱
3.小型平地式住居跡(民家) 円形又は楕円形、直径5~6m、面積は20㎡~28㎡
壁は苆(すさ)入の粘土を塗り、入口は南に向き門道(入口)がつく
室内は中央に地炉が一つ、4~6本の木柱が対称的に立つ
民家の面積は狭小で、家族構成としてはわずか二~四人の起居であったと推測。

興隆窪(こうりゅうわ)文化(遼河・7400~8200年前開始)
興隆窪遺跡
1.隅丸長方形又は方形の竪穴式住居
2.面積は50~80㎡、最大のものは約140㎡
3.集落の中央部に集会や儀式用とみられる二棟の大型竪穴式建物跡
4.屋内の中央からやや東側に地炉があり、円形で壁面と底に泥が塗られている
5.柱穴は炉と壁の間にあって二本の柱が一対となる
6.門道(入口)は設けられていない

以上を総括すれば、

1.日本、中国ともに初期の建物の面積は狭く、中国の興隆窪遺跡の50㎡~80㎡は突出している。日本の縄文草創期の相谷熊原遺跡(滋賀県東近江市)の約8.5坪~15坪と言うのも、草創期にしては大型の建物である。従って、一般的には一家の「家族構成としてはわずか二~四人の起居」と言うことのようである。当時の日本の集落は二軒から三軒というのが標準的であったようで、五軒などというのは大集落の部類に入ったようである。また、生業としては狩猟、採取、漁撈が主なもので、狩猟、採取が主な生業の内陸系は資源の枯渇とともに移動しなければならなくなったようである。それに引き替え、狩猟、採取、漁撈を主な生業とした海、川の沿岸系は食料の安定化により同じ場所に居続けたようである。中国の場合はこれに早くから農業、牧畜業、蚕糸業などが加わり、人間の移動と言うことは考えられなかったようである。
2.竪穴式建物と高床式建物の混在も一部で双方にあったのではないかと思われる。用途としては竪穴式建物は主に住居に、高床式建物は神殿とか倉庫に使われていたようである。高床式の一部の建物はその後神殿の主催者即ち国王とか神官の住まいになったようである。倉庫の中身はと言えば中国では穀物(米、粟など)で、日本では鮭などの大型魚類を加工したものか。貴重な食品はみんなで分け合ったいたのであろう。これも双方共通していることだが、竪穴式建物しかないところでは大型の建物があり、集会、儀式、共同作業、冬季の集合住宅などとしてに使われていたようである。なかには、大型建物の中には炉が二つ(複数)あり、片方の炉は優秀な者たちの炉で、もう一方は凡庸な者たちの炉と説く先生もいるらしいが、考えすぎではないのか。但し、当時は現在の青森県から丸木舟で日本海沿岸を南下する人たちはある意味エリートであり、エリートは優秀な人が多いだろうから穿ち過ぎとは言えないかも知れない。優秀な者を残そうというのではなく、単にできのいい人とわるい人では話がかみ合わなかったと言うことであろう。

★まとめ

以上、日中の先史時代における数字と建物の違いを見てきたが、発想の違いはあっても外形は大きく違ったものではなかったと思う。石器、土器、玉器、骨角器などにおいても、中国は素材の種類が多いためか用途の異なる石器、骨角器等が多い。しかし、狩猟、採取、漁撈から農業に生業の比重が移るにつれ石器、土器、玉器、骨角器などは農業用に特化するようである。土器は日中双方に縄文土器があったようであるが、文様の付け方(中国の「叩き締めという技法」と日本の「ころがし技法」)が異なるそうで、日本と中国の土器の始原は違う、と言う見解がある。また、中国は彩陶が早期に発生し日本とは異なる。これを見れば、日本と中国の文化の発生は「似て非なるもの」で、日本の文化の始原は北方(シベリアなど)由来のものではないのか。

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