物部氏を考える

★はじめに

インターネットのサイトや書店で書籍を見ていると古代豪族「物部氏」に関するものが意外と多い。しかし、その内容は珍説、奇説(総称してトンデモ説と言うらしい)の類いのものがほとんどだ。どうしてこんな説が出てくるのだろうと首をかしげるものばかりだが、一例として、1.物部氏の発祥の地は秋田県で、饒速日命が降臨した山は鳥海山(鳥見山)(唐松神社(天日宮)古文書) 2.物部氏の故地は遠賀川流域である(鳥越憲三郎説)などというのはいい方で、3.物部氏は扶余人(紀元前3世紀頃、中国遼寧省から朝鮮半島の北部に扶余(フヨ)・高句麗・獩貊(ワイハク)・沃沮(ヨクソ)など扶余族を宗族とする同族系国家連合があったと言う)あるいは百済人 4.徐福が率いてきたユダヤ人集団 5.物部氏は中国において越族(日本では越智氏など)だった 6.物部一族とよべるような氏族はいなかったなど、失礼ながらチンプンカンプンなことばかりを言っている御説が多い。一応、「記紀」特に「日本書紀」によって見てみると、

1.日本書紀 卷第三 神武天皇
即位前紀 戊午年十二月(十有二月癸巳朔丙申)
「天皇素聞饒速日命 是自天降者 而今果立忠效 則褒而寵之 比物部氏之遠祖也」
天皇、素より饒速日命は、是(これ)天(あめ)自(より)降(くだ)れりという者(こと)を聞(きこ)しめせり。而して今果して忠效(ただしきまこと)を立つ。則ち褒めて而して之を寵みたまう。比、物部氏の遠祖なり。

「先代旧事本紀」巻第五では、「天祖以天璽瑞寶十種、授饒速日尊、則此尊稟天神御祖詔、乘天磐船而天降坐於河内國河上哮峰、則牽坐於大倭國鳥見白庭山、天降之儀、明天神紀、所謂乘天磐船而翔行於大虚空、巡睨是鄉而天降、謂虚空見日本國是歟」、とある。

2.日本書紀 卷第三 神武天皇
三十一年夏四月 饒速日命 乘天磐船 而翔行太虚也 睨是郷而降之 故因目之 曰虚空見日本國矣

3.日本書紀 卷第五 御間城入彦五十瓊殖天皇 崇神天皇
御間城入彦五十瓊殖天皇 稚日本根子彦大日日天皇第二子也 母曰伊香色謎命 物部氏遠祖大綜麻杵之女也

4.日本書紀 卷第六 活目入彦五十狹茅天皇 垂仁天皇
廿五年春二月丁巳朔甲子 詔阿倍臣遠祖武渟川別 和珥臣遠祖彦國 中臣連遠祖大鹿嶋 物部連遠祖十千根 大伴連遠祖武日 五大夫曰 我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇 惟叡作聖 欽明聰達 深執謙損 志懷沖退 綢繆機衡 禮祭神祇 剋己勤躬 日愼一日 是以人民富足 天下太平也 今當朕世 祭祀神祇 豈得有怠乎

廿六年秋八月戊寅朔庚辰 天皇勅物部十千根大連曰 遣使者於出雲國 雖検校其國之神寶 無分明申言者 汝親行于出雲 宜検校定 則十千根大連校定神寶 而分明奏言之 仍令掌神寶也

卅九年冬十月 春日臣族 名市河令治 因以命市河令治 是今物部首之始祖也

八十七年春二月丁亥朔辛卯 授物部十千根大連而令治 故物部連等 至于今治石上神寶 是其縁也

5.日本書紀 卷第七 大足彦忍代別天皇 景行天皇/稚足彦天皇 成務天皇
大足彦忍代別天皇 景行天皇
十二年九月甲子朔戊辰 先遣多臣祖武諸木・國前臣祖菟名手・物部君祖夏花 令察其状 爰有女人 曰神夏磯媛

十二年冬十月 是時禱神 則志我神 直入物部神 直入中臣神三神矣

★「日本書紀」の物部氏

上記、1.では物部氏遠祖饒速日命の天降りが、2.では国見が述べられているが、「日本書紀」に出てくるのは天皇以外はこれだけとのことで物部氏とは特異な氏族と思われているようだ。「天降り」は他所からやって来たことを意味する表現であり、「国見」は高所に登り遠くを望んで農耕の場を求めることで、いずれも庶民用語が王権儀礼用語に変化したようだ。言ってみれば、物部氏もそれを真似た天皇家も元々は後世に言う畿内の人ではなかったのか。また、高所に上って諸々のことを判断する職業は各種あり、農業だけとは限らない。例として、高台に上って魚の群を発見するとか。
「先代旧事本紀」では「河内國河上哮峰」が問題だ。通説的にはを現在の大阪府交野市私市とするもののようである。饒速日命を祀ると言う磐船神社があり、肩野物部氏(物部氏傍系)の氏神と言う。また、天野川を下ると河口近くには禁野車塚古墳(大阪府枚方市宮之阪)があり、「禁野車塚古墳は、天野川に臨む段丘に位置しており、被葬者は淀川と天野川の合流地点を掌握し、かつ箸墓古墳の被葬者とも関係の深い人物であると考えられています」(枚方市)とある。
河内国で大和政権と関係が深い大物は物部氏以外に考えられない。物部氏は大和政権初期には拠点が現在の大阪府枚方市界隈にあり、後ほど現在の大阪府東大阪市界隈に移したか。人物の年代比定は難しいがあるいは「禁野車塚古墳」は饒速日命の墳墓か。但し、「先代旧事本紀」では「速飄命以命將上於天上處其神屍骸」「葬斂於登美白庭邑、以此為墓者也」とあり、饒速日命の墓は遺体は天上に葬られ、遺品を現在の奈良県「登美白庭邑」(生駒市総合公園北側山中の檜の窪山か)にあるようになっている。おそらく、「先代旧事本紀」の言う天上とは現在の大阪府枚方市宮之阪を言うのであろう。墓が彼方此方にあっておかしいとは思うが、「登美白庭邑」の遺品墓とも言うべき方は後世の付会か。もう一説に「河上哮峰」を現在の生駒山に比定する見解がある。おそらく、この場合の物部氏の拠点は現在の東大阪市にあったのであろう。私見で恐縮だが、箸墓古墳の被葬者が日葉酢媛命とするならば禁野車塚古墳の被葬者は吉備国の川部氏一族ではなかったか。日葉酢媛命は備中国賀夜郡日羽郷(現・総社市日羽)の人で高梁川流域の川漁師川部氏の息女と吉備国の王との令嬢だったのではないか。日葉酢媛命としては母の実家の川漁師を淀川に招き、吉備国と畿内の融合を図ろうとしたのだが、枚方市の言う「箸墓古墳の被葬者とも関係の深い人物」との間柄だけで王墓級の墳墓を造らせるのは周りとの軋轢になったのではないか。川部氏は日葉酢媛命の崩御後は物部氏に併呑されたか。禁野車塚古墳は神戸市の西求女塚古墳や向日市の元稲荷古墳の被葬者のように誰もが認めるなにがしかの勲功により得たものではないようだ。
3.4.に関しては、いわゆる「三輪王朝」と物部氏は関係が深いようだ。崇神天皇の生母は物部氏と言い、物部十千根大連は垂仁天皇に重用されているようだ。これも私見で恐縮だが、崇神天皇・垂仁天皇は吉備国の出身で、物部氏も吉備国から来たものか。「現代における苗字としては、岡山県に物部姓がみられる。特に高梁市に多い」とある。
5.では「物部君祖夏花」とあるが、これは後世の高良大社の鏡山大祝家が物部氏を称したことと関係があるか。また、垂仁天皇の段にある「物部首之始祖也」も後世の石上氏のことではないのか。

★物部氏と物部

「記紀」には物部連と物部という部民が出てくる。一応、まず、物部氏があってその部民ができたのか、はたまた、物部という部民があってその管理者即ち「伴造」として物部氏が発生したのか見解の分かれるところだ。一応、文献的に部民制が確認されるのは5世紀末から6世紀初めと言うことなので「物部」が発生する前に「物部連」は存在していたのではないか。即ち、物部は物部連の部民として発足したと思われる。
物部の職掌は多義に渡っていたようであるが古代にあっては軍事や刑罰執行などを主業務にしていたようである。大化の改新後は部民制はなくなったが、物部は囚獄司に40人、衛門府に30人、東西市司に各20人が置かれた。この場合の物部は一般良民という。
全国に物部郷が17カ所ある。なぜか畿内にはない。具体的には、
尾張国 愛智郡 物部郷
駿河国 益頭郡 物部郷
下総国 千葉郡 物部郷
近江国 栗本郡 物部郷「物部 毛乃倍」
美濃国 多芸郡 物部郷
美濃国 安八郡 物部郷
美濃国 本巣郡 物部郷
下野国 芳賀郡 物部郷
越後国 頸城郡 物部郷
丹波国 何鹿郡 物部郷
丹後国 与謝郡 物部郷
備前国 磐梨郡 物部郷(物理郷の誤りという説あり)
淡路国 津名郡 物部郷「毛乃倍」
土佐国 香美郡 物部郷
筑後国 生葉郡 物部郷
肥前国 三根郡 物部郷
壱岐島 石田郡 物部郷
これら全部が物部即ち部民に由来するものかは疑問である。「物部」の読みも「和名抄」では「毛乃倍(ものべ)」と訓じているものがわずかにある。よって、ここでは「物部」の語義を考えてみる。
「物部」の読みについては「ものべ、もののべ、もののふ、もちべ、ぶつべ」などがあるようだが、一般的な「ものべ、もののべ」を扱うことにする。古代豪族物部氏が有名で物部と書いて「もののべ」と読む人が多いかと思うが、現代の地名・人名にしても「ものべ」も結構多い。おそらく、元は「ものべ」で後世「○○之××」(○○は姓もしくは地名。××は名)の発想より「もの・の・べ」となったのではないか。しからば、この「もの」とは何を意味するかである。
「和名抄」(十巻本)(934 年頃)でも〈日本紀私記云〉として、〈陸田種子〉を〈波多介豆毛乃〉(はたつもの)、〈水田種子〉を〈太奈都毛乃〉(たなつもの)と呼んでいるところを見ると、「もの」とは元来「種子」のことを言ったものか。陸に生える植物と水中に生える植物を総称して「もの」と言ったものか。それでは「種(たね)」はどうなるのかと言うことだが、地名では「田根」「多禰」「種」などは多く山間部にあり、地名用語としては「谷」「棚(段丘)」の意味になるという。田代などと同じく「耕作可能地」(江戸時代的に言うと開墾してもあまり年貢は期待できず、大飢饉の時など以外は積極的な開発は行わない)を言ったものか。以上を総合するなら、物部とは川の河岸段丘や海岸の海岸段丘を言ったものか。物部氏とは、元来、川あるいは海の漁師で軍事・刑罰を担当するようになったのは後世のことか。物を武器と解する説(有力説)は根拠がないと言う反論もある。また、物とは精霊・霊魂などを意味する物(魂)との説もある。しかし、古代にあっていきなりさような抽象的な意味を持つ姓即ち苗字があるかははなはだ疑問だ。おそらく、地形説によった方がいいのではないか。

★まとめ

物部氏をまとめてみると以下のごとくになる。

1.物部氏に天降り伝説と国見伝説があるという。天降りと言えば聞こえはいいが、平たく言えば物部氏は大和国ではよそ者なのである。しからば、どこからやって来たのかと言えば、おそらくお隣の河内国からであろう。饒速日命は「先代旧事本紀」によれば「天磐船に乗り、河内國河上哮峰に天降ってきた」となっているが、天磐船は「海もしくは川からやって来た祝い船」の意で、呪力で豊漁を勝ち取る船の意味なのだろう。河内國河上哮峰は比定地に二ヶ所あり、交野市私市説と生駒山説がある。いずれの山からでもよいが適地を探したと言うことであろう。なお、「岡山県に物部姓がみられる。特に高梁市に多い」とあり、物部氏が吉備国からやって来たとも思えるが、吉備国から河内国にやって来て地盤を築くにはそれなりの時間がかかると思われる。可能性は低かったのではないか。それに、大和国と敵対していた国の人がそうやすやすと大和政権の重臣にはなれないと思う。

2.「禁野車塚古墳」の被葬者は誰なのかと言うことであるが、河内国の有力者は物部氏しかいないので、「禁野車塚古墳」の被葬者は物部氏の一族の人かと思われる。邪馬台国時代のことなので、あるいは、物部氏も草創期と言うことで饒速日命の墳墓と言うことも十分考えられる。返す返すも残念なのは、禁野車塚古墳界隈に「物部」の地名がないことである。物部氏は元々現在の枚方市界隈を勢力圏にしていたと思われるが、同僚の大伴氏が現在の神戸市から大阪市に拠点を移したことを機に枚方市から東大阪市に拠点を移したのではないか。

3.各種解説書に書いてある「物部氏は特異な氏族である」というのも吉備国(狗奴国)の人物が大和国(邪馬台国)にやって来て重臣になったことを言うのかとも思うが、物部十千根があちこちに出張(出雲などに行っている)して関わりが出来たのではないか。

4.いずれにしても大伴氏や物部氏が歴史の舞台に台頭してくるのは景行天皇のスポンサーとなってからではなかったか。景行天皇はおそらく資金力に難があったので大伴、物部両氏の財力に期待したものと思う。

広告
カテゴリー: 歴史 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中