桃太郎伝説

★はじめに

最近は岡山県岡山市から倉敷市にかけては住民にストレスが溜まっているのか「岡山・倉敷小5女児誘拐事件(容疑者、49歳、男性)」とか「倉敷市職員、女児盗撮試み逮捕(容疑者、45歳、男性)」とかお話にならないような事件が報道されている。高学歴で40代というと分別盛りと思うのだが、この有様だ。特に、前者の女児誘拐事件の容疑者は大阪大学卒業で大学院へ進学した人らしい。テレビで見た写真では高校卒業アルバムの写真はいかにも秀才らしく、今は並の中年男性と言ったところか。後者の容疑者は倉敷市農林水産課の職員という。日本国を背負って立つ人たちなのだからもう少ししっかりして欲しいというのが誰もがいだく感情だろう。
話は飛ぶが、岡山県と言えば「桃太郎伝説」が有名である。岡山市や総社市の旧吉備国と大和国の戦いがモチーフになっていると考える向きが多いのかも知れない。他に香川県高松市や愛知県犬山市に桃太郎神社があって桃太郎伝説が伝わっているらしいが、民間伝説で吉備国の桃太郎のようないわば官選説話ではないらしい。無論、官選説話と言っても「浦島太郎伝説」のように「日本書紀」や「風土記」「万葉集」に載っているようなものではない。
そもそも、「桃太郎伝説」の成立時期もはっきりしない。おおよそ室町時代後期から戦国期の間と言うが、現今の学術的見解では「桃太郎伝説」はお伽草子即ち室町時代の文芸作品とはみなされていないようである。そこで、「桃太郎は豊臣秀吉である」という説もあるくらいだ。庶民に伝わるようになったのはせいぜい版本が草双紙(江戸時代中頃、元禄・享保の頃)の赤本による「桃太郎」「桃太郎昔話」などにより広まったとされるのを端緒とするか。いずれにせよ室町時代後期といい、戦国時代といい、そんなに古い話ではない。ましてや、大衆に普及したのが江戸時代中期と言われればますます身近に感じることだ。

★「桃太郎伝説」はどういうことが原因で書かれたのだろう

「桃太郎伝説」はまずもっておじいさん、おばあさんが「むかし、むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがありました。まいにち、おじいさんは山へしば刈(か)りに、おばあさんは川へ洗濯(せんたく)に行きました。ある日、おばあさんが、川のそばで、せっせと洗濯(せんたく)をしていますと、川上(かわかみ)から、大きな桃(もも)が一つ、「ドンブラコッコ、スッコッコ。ドンブラコッコ、スッコッコ。」と流(なが)れて来(き)ました」と孫や近所の子供に語り聞かせたと言うのはなかったと思う。おそらく庶民は最初からこの物語を活字で読んでいたと思われるからである。内容も統制が強くなってからおかしくなったようで、「巖谷小波により1894年(明治27年)に『日本昔話』としてまとめられたものがその後の語り伝えに大きく影響した」とあり、「1887年(明治20年)に国定教科書に採用される際にほぼ現在の形のものを掲載して以降、これが定着した」となっている。それ以前のものは、
「桃太郎の姿が、日の丸の鉢巻に陣羽織、幟を立てた姿になり、犬や鳥、猿が「家来」になったのも明治時代からである。それまでは戦装束などしておらず、動物達も道連れであって、上下関係などはない。明治の国家体制に伴い、周辺国を従えた勇ましい日本国の象徴にされたのである」(「Wikipedia」より)と。こんなのを読むと伝説、伝承などはその時々の為政者の都合で一日にして百八十度転換することがよく解る。何も日本だけのことではなく歴史や伝統のある国はみんな同じ過程を経てきているのだろう。
そこで「桃太郎伝説」だが、室町時代のお伽草子の範疇には入らず、戦国時代の戦記物を大衆ないし子供向けに書き改めたものであろうか。そもそも、お伽噺(おとぎばなし)の原意は戦国時代・江戸時代においては、大人に聞かせる話で、一線を退いた者が将軍・大名の側近(御伽衆という)となり政治や軍事の相談役、武辺話や諸国の動静、世間話の相手を勤めて主君の無聊を慰めた雑談話を総称したらしい。「彼らの講釈話が庶民に広がり、江戸時代以降の講談や落語の源流となったとも言われる」とある。「桃太郎」のおとぎ話もかかる状況下で作出されたものであろうか。いくら江戸時代とは言え本屋さんも売れて儲からなくてはだめである。大名への御伽衆の話を直接印刷して販売しても庶民には何のことやら分からないことが多々あったのではないか。そこで、元の話に潤色を加え、庶民向けに脚色して草双紙の赤本による「桃太郎」「桃太郎昔話」が成立したのではないか。無論、武家の言葉なんかは不採用である。

★豊臣秀吉と御伽衆

御伽衆をたくさん抱えていた大名で著名なのは豊臣秀吉で、関白・太政大臣の頃には数百人がいたらしい。一例として、足利義昭(元将軍)、織田信雄、織田信包、織田有楽斎(元主筋)、六角義賢、六角義治、山名氏政、山名豊国(元守護)などがいる。秀吉の晩年は政権も安定していたので御伽衆との話の内容もくだらない四方山話に終始していたのではないか。御伽衆の進化したものに「太鼓持ち」というのがあり、語源もそのものズバリ、豊臣秀吉の御伽衆を務めたと言われる曽呂利新左衛門が開祖と言われ、秀吉の機嫌が悪そうな時は、「太閤、いかがで、太閤、いかがで」と、太閤を持ち上げて機嫌取りをしていたため、機嫌取りが上手な人を「太閤持ち」から「太鼓持ち」となった、と言う説があるくらいだ。御伽衆とか太鼓持ちとかあまり芳しくない人々を周りに置いていた豊臣秀吉とはどのような人だったのだろうか。日本で豊臣秀吉の人となりを書いた書物はほとんどが秀吉の御伽衆や太鼓持ちを勤めた人で当てにはならない。そこで、「信長の時代はよかった」のルイス・フロイスが信長と比較した豊臣秀吉像を書いているので、割り引いて考える必要があるが、中公文庫「フロイス日本史」から抜粋してみる。

「彼は優秀な騎士であり、戦闘に熟練していたが気品に欠けていた」

水呑百姓の息子と大名の息子を比較すること自体に無理がある。秀吉は俗に言う柄が悪かった。

「彼は身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には六本の指があった。眼が飛び出ており、シナ人のように鬚が少なかった。男児にも女児にも恵まれず、抜け目なき策略家であった。彼は自らの権力、領地、財産が順調に増して行くにつれ、それとは比べものにならぬほど多くの悪癖と意地悪さを加えて行った。家臣のみならず外部の者に対しても極度に傲慢で嫌われ者でもあり、彼に対して憎悪の念を抱かぬ者とてはいないほどであった」

並の人間なら冨や地位を得るに従い人格も円満になっていくものだが、人品骨柄が卑しかった秀吉は一向に性格改善が図られなかったのであろう。別のところでは、家臣たちに地位や領地などを惜しげもなく与えていたとあるのだが、どういうことなのだろう。

「関白は極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺しており、二百名以上の女を宮殿の奥深くに囲っていたが、さらに都と堺の市民と役人たちの未婚の娘及び未亡人をすべて連行して来るように命じた」

どうしてこんなに大勢の女性を抱えていたのか理解に苦しむが、桑田忠親博士がどこかで権力を得たら後は「ゼニと女」と言っておられたが、それを地で行ったものか。つらつら考えるに、これは趣味と実益を兼ねたものだったのではないか。趣味(側室)と実益(人質)と言うことになるのだろうか。秀吉は親族も少なく、他の大大名の子女を養子、養女にして親族を増やす算段だったか。

★まとめ

「桃太郎伝説」と言ってもそんなに古いものではないらしい。原話ができたのは室町時代か安土桃山時代のようだ。可能性としては安土桃山時代の方が高いと思う。前述したように「彼ら(御伽衆)の講釈話が庶民に広がり、江戸時代以降の講談や落語の源流となった」とあるように、たくさんの御伽衆を抱えていた秀吉側近の御伽衆や太鼓持ちが秀吉の死後再就職先で広めた話の一つが「桃太郎」の話ではなかったかと思う。
その原話も、「明治時代初期までは桃を食べて若返ったお爺さんとお婆さんの間に桃太郎が生まれたという回春型の話の方が主流であった」とあるように、何か精力を付ける話が変化して今日の「桃太郎」になったのではないか。即ち、桃を始め、猿、雉、犬にしても、はたまた、黍団子にしても当時にあっては「精」を付ける食べ物ではなかったか。現代でも猿の脳みそや犬の頭部は中国や韓国では精を付けるために食べるという。また、雉肉も仏教が伝来し肉食禁止になっても雉肉だけは食べていたと言う話もあり(大鏡)、これなども精を付けるために食べていたのであろう。黍団子も白米よりは栄養価が高いことは間違いない。これらのことを考え合わせると、「桃太郎伝説」とは豊臣秀吉の御伽衆が秀吉に回春法を説いた話が子供向けに改作されて今のようになったのではないか。諸々のご高邁な説があるが、おそらく、原話は身近な年寄りのくだらない話であり、本来なら子供に聞かせるような話ではなかったと思うが、江戸時代の本屋の努力により子供向けに直されたものと思われる。

 

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