万世一系

★はじめに

「大日本帝国憲法第1条」は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と高らかにうたいあげているが、ここで問題にするのは立憲君主制のことなどではなく「万世一系」のことである。こういうことは「大日本帝国憲法」制定当初から問題視されていたであろうし、ただ新憲法が発効されるまではそういうことを口に出していったり、論文で発表したりしたら、刑罰を持って処分されたのであまり議論の俎上に載せる人はいなかったと言うことなのであろう。今では「古事記」や「日本書紀」に書いてあることは全部「正」とするのは天皇家とか一部の神道関係者などではないかと思うが、「記紀」にしてもその執筆者(原著作者)が全部「正」と思っていたかははなはだ疑問ではある。例えば、元大阪市立大学教授だった直木孝次郎先生は、

「・・・『記紀』は、大和政権と天皇家にそうした盛衰興亡の歴史のあったことをまったく記していない。なぜであろうか。いうまでもなく、天皇による日本支配の正当性を説明するために書かれたものが、『記紀』だからである。大和政権が過去になんども没落したことや、『記紀』編纂時の天皇の先祖が前の王朝をほろぼして皇位をうばいとったことを書いたのでは、この『記紀』編纂の目的に合わなくなる。そのためには、天皇の地位は神代より万世一系、切れめなく順当に相続され、日本国家はその支配のもとに平和に発展したのでなければならない。この条件に合わない言い伝えは切りすてられたり、条件に合うように作りかえられたりして、『記紀』ができあがったのである」(同氏著「日本神話と古代国家」より)

極論すれば、直木説は、天皇がA天皇→B天皇→C天皇→D天皇と継承したとするとD天皇はC天皇を滅ぼし、C天皇はB天皇を滅ぼし、B天皇はA天皇を滅ぼしてその地位についたと言うことである。こんな状態だったら、万世一系どころか、統治の一体性ないし一貫性も保たれなかっただろう。言うなれば、天皇制らしきものが芽生えた頃の我が国とは物事の黒白を付けるには暴力ばかり振るい、腕力で決着を付ける能なし国家と揶揄されてもまったくおかしくない。草創期の天皇の地位は父子継承や兄弟継承のような血縁による継承ではなく、力による簒奪が本旨だったのか。言われてみれば、「魏志倭人伝」にもやたら争いの話が多く(典型は邪馬台国と狗奴国の紛争)、「記紀」にも三輪王朝(崇神王朝)の人名には「イリ」の文字が入っている人が多く「イリ王朝」とも言われているくらいだ。この「イリ即ち入」は意味不明ではあるが私見では現代流に言うと「他家」から入って来た養子女で養親とは何の血縁的繋がりもない「赤の他人」の関係ではなかったか。例を挙げると、
御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと、崇神天皇)と活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと、垂仁天皇)は血縁関係はなく他人だったのだろう。そのほか名の通った「入彦」「入姫」を見てみると、豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)と豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)は崇神天皇の皇子女とされるがおそらく崇神天皇とは別系統の人ではないのか。五十瓊敷入彦命(いにしきいりびこのみこと)は垂仁天皇の皇子とされて、景行天皇と皇位を争ったようなことが書かれているが、岐阜県岐阜市にある「伊奈波神社」の主祭神とされ、各地で農業振興を図ったとも書かれているので皇族とは別の人か。五百城入彦皇子(いおきいりびこのみこ)は景行天皇の皇子とされるが応神天皇がこの系統に拘泥しているようだ。何か前王朝と姻戚関係でも持って正当性を補強したかったのであろうか。

★中国史書に見える日本(倭)古代の紛争

「魏志倭人伝」

*其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。
その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年。

*其(正始)八年(247)、太守王※(「斤+頁」)到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯烏越等詣郡、説相攻撃状。
正始八年、太守王※官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑彌弓呼と素より和せず、倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。

*卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。
卑彌呼以て死す。大いに冢を作る。徑百餘歩、徇葬する者、奴婢百餘人。更に男王を立てしも、國中服せず。更に相誅殺し、當時千餘人を殺す。

「後漢書東夷伝」

*桓・靈閒、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主。
桓・霊の間(146年 – 189年)、倭国大いに乱れ、更相攻伐し歴年主なし。

「邪馬台国と狗奴国の紛争」以外は跡目相続の紛争と思われなくもない。長期政権と混乱が繰り返し続いているようだ。即ち、男王の統治七、八十年 → 倭國大亂 → 卑弥呼女王の統治五、六十年 → 国中相誅殺 → 壹与女王の出現、となっている。今でもそうだが、長期政権が続くと政治の腐敗、行政の停滞、公務員の怠惰、失政、不正の隠蔽、人事のマンネリ化などいいことは何もない。当時もそれやこれやで独裁者が亡くなると不満が爆発し大乱が起こったものか。日本の「記紀」ではそんな長寿の天皇ないし大王はいないので何とも言えないのが実情だ。「魏志倭人伝」に言う「其人壽考、或百年、或八九十年」が卑弥呼女王やその前の男王を基準にして言っているのなら日本(倭)の実体を表しているとは言えないと思う。男性の独裁者が亡くなればその反動で女性の独裁者が立ち、女性の独裁者が亡くなればその反動で男性の独裁者が立つ、と言うのが古代王位の推移だったのかも知れない。当然のことながら、途中で女性が立つと言うことは、いわゆる、一般的に言う「万世一系」とは言えない。卑弥呼女王や壹与女王が王統に属する人(例えば、神武天皇の子や孫など)で、最終的に男子王族へ繋いだものか。直木説では、これ(卑弥呼 → 壹与、と繋ぐ)でも具合が悪いので、当時の「記紀」原著作者は「卑弥呼→壹与」のラインを別に追いやり、崇神→垂仁としたものか。

★当時の王位継承ないし相続形態はどうなっていたのか

日本で国というものができてそれぞれの王が統治しだしたのは「漢書」地理志に(楽浪海中有倭人分為百余国以歳時来献見云)とあり、おそらく、弥生中期の後半(紀元前1世紀頃)あるいは西暦紀元前後には九州北部地方に100余国があり、そのほかに出雲国を中心とする山陰地方にもそれくらいの国があり、吉備国を中心とする山陽地方にもそれくらいの国があり、畿内にもあるいはそれ以上の国があったのかも知れない。
次いで、「後漢書」東夷伝では(建武中元二年<西暦57年>倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫倭国之極南界也光武賜以印綬。安帝永初元年<107年>倭國王帥升等獻生口百六十人願請見)とあり、具体的に、奴国の名があり、倭國王帥升の名も見え、当時の九州北部では奴国が他の何十カ国かを抑えて地域を主導していたのであろう。
さらに、三国志「魏書」東夷伝倭人条では(倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國。漢時有朝見者、今使譯所通三十國・・・景初二年(238年)六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻)とあって、旧100カ国が30カ国に統合された様子が分かる。しかも、旧100カ国が九州北部に限定されていたのに対し、30カ国は東は関東あたりから西は九州までに広がっている。そこで、これらの中国の史書で日本(倭)の王位継承の様子を見てみると、卑弥呼女王には「乃共立一女子為王」とあり、壹与女王には「復立卑彌呼宗女壹與年十三為王」とあって、女性の場合は共立されて王位に就くことが多いようだ。男王の就位については何も書かれていない。おそらく、雄略天皇のように有力王位継承者を実力で払いのけその地位についたものであろう。

日本の皇位継承は一般論として仁徳天皇を境として仁徳天皇までは直系(親子間)相続で、仁徳天皇の皇子からは傍系(兄弟間)相続が多くなっている。原因には諸説あるが力による簒奪が多かったとしたなら直系相続は疑問だ。日本の古い相続形態が分からなかったので単に中国の相続法である直系主義でなぞったものか。傍系相続は日本的に直されて「大兄制」となったという。即ち、兄弟相承の観念と天皇の長子は生得的に天皇になるという長子相続の観念が統合されて、天皇の後は大兄が継ぎ、その後は大兄の弟が継いでその世代が終わると大兄の長子に帰るというのである。その後、天智天皇の時代に中国の相続法に倣い「嫡系主義」となったようである。

具体的に「記紀」ではどうなのであろうか。
・「日本書紀」崇神天皇48年1月 崇神天皇は豊城命(豊城入彦命)と活目尊(垂仁天皇)を呼び、皇太子を決めるのに夢占い(朕以夢占之)で行うと言い出し、活目尊を皇太子に決めた。(則天皇相夢 謂二子曰 兄則一片向東 當治東國 弟是悉臨四方 宜繼朕位)4月立活目尊爲皇太子、と。何やら無責任なあなた任せの決定方法ではあるが、それでも親が後継者を指名している。
・「日本書紀」垂仁天皇30年1月 上記崇神天皇の話と似ているが、垂仁天皇は五十瓊敷命と大足彦尊に「汝等願いのものを言え」と宣い、兄は弓矢を弟は皇位を欲しいと言った。兄の五十瓊敷命には弓矢を賜い、弟の大足彦尊には「汝必繼朕位」と曰わった。これも、一応、親が後継者を指名している。
(卅年春正月己未朔甲子 天皇詔五十瓊敷命 大足彦尊曰 汝等各言情願之物也 兄王諮 欲得弓矢 弟王諮 欲得皇位 於是 天皇詔之曰 各宜隨情 則弓矢賜五十瓊敷命 仍詔大足彦尊曰 汝必繼朕位)
・「日本書紀」景行天皇51年1月 時に皇子稚足彦尊と武内宿禰は宴会には出席せず、不時の事故に備えて警備に当たっていたので天皇はそれを賞賛した。8月稚足彦尊を立てて皇太子と為す。是の日、武内宿禰に命(みことのり)して棟梁之臣と為す。二人の忠勤に対する論功行賞か。崇神、垂仁とは違い景行が一方的に後継者を決めている。
・「日本書紀」応神天皇40年1月 応神天皇は内々に菟道稚郎子を後継者と決めているのに長兄次兄の大山守命及び大鷦鷯尊を呼んで長子と末子とどちらが可愛いかと尋ねたところ大山守命は長子が理にかなっていると言った。大鷦鷯尊は天皇の意をくみ末子が可愛いと言った。天皇は後日菟道稚郎子を皇太子に立て、大鷦鷯尊をその補佐役とし、大山守命は、即日、山川林野の管掌者として追いやられてしまった。
・「日本書紀」仁徳天皇31年1月 大兄去來穂別尊を立てて、皇太子と為す。ようやく王権が安定し、大兄制に移行したのであろうか。

「日本書紀」応神天皇条で末子相続の制が垣間見られないわけではないが、古代日本では直系(親子間)相続で皇位を繋いできた、と言うことのようである。長子相続は農耕民族に多く、末子相続は遊牧民族に多いと言うのが通説であるが、日本の相続方式が弥生時代に入ってから確立されたとするなら直系(親子間)相続ないし長子相続を中国から継受したと言うべきであろう。弥生時代は米作りばかりでなくその周辺の制度も一緒に継受したと考えるのが合理的であるからである。また、日本では老衰した王(王の健康状態と自然の産出力とは比例すると言う)を殺すと言う「王殺し」というのも聞いたことはなく、日本に相続の制が入ってきた頃にはかなり洗練されていたのであろう。
飜って、日本の縄文時代を見てみると、村落共同体を単位とする社会であり、相続と言っても相続財産も地位も村落共同体のものであり、せいぜい現代で言う「形見分け」程度のものが共同体の人に配られたのではないか。このみんなに配ると言う発想が「傍系(兄弟間)相続」(兄弟全員に皇位についてもらう)の概念を生み出したのではないか。従って、履中天皇以下の傍系(兄弟間)相続はある意味縄文回帰ないし縄文時代の残滓か。

★万世一系と王朝交替は相反するものか

「記紀」批判はいつの世にもあったかとは思うが、特に、江戸時代の町人学者にはその傾向が著しいようである。「神武より千年ほどの間は神代の名残にて、史にいかに載せたりとも、みなこしらへごとなり」(山片蟠桃・両替商番頭)とか「天神七代地神五代等の説は、仏教の七仏五時如来説に似せて私に作り出した妄戯であって言うに足らぬ法である」(安藤昌益・町医者)などがあった。しかし、明治時代に入ると「天皇家は万世一系ではない」とか「王朝交替説」などを唱えようものなら、非国民扱いされ、場合によっては犯罪となり、有罪判決を受けた学者もいた。要するに、「記紀」に書いていることに異を唱えると言うことは勇気の要ることであったのである。
「万世一系」とは一昔前の言葉で言えば「国体」とか「制度的保障」という言葉で表されるもので、日本国統治の淵源は天皇にあるかも知れないが、現行憲法では象徴天皇制を採用しており天皇の統治権は認めていない。しかし、世襲制を取っており昭和天皇以降の世襲制というのか、はたまた、天照大神の子孫であれば誰でもいいというのであろうか。これが伊藤博文の言う皇胤、男系、一系に限定すべきかははなはだ疑問ではある。皇胤と言っても無制限に遡ってもいいものか、男系はさておいても、一系というのは分家筋は天皇になれないのか。天皇家の系図を見ても王朝交替説の天皇以外にも、上皇や外戚その他の権臣の意向に左右されたり、時の政治情勢などを背景としたり、必ずしも長子一系で繋いでいたわけでないことが分かる。南北朝時代はその典型だ。
万世一系とは天皇制の制度的保障であり、王朝交替とは天皇の継承の問題か。しかし、「大日本帝国」という国号も長い我が国の歴史にあってはわずか明治、大正、昭和二十年までの短期間であった。伊藤博文とすれば大日本帝国とはその前身の「倭」「日本」を含み、未来永劫存続すると考えたのであろうが、神武天皇以前はどうなっているのか、とか、皇室の歴史が断絶の歴史と考えるなら、万世一系などと言う意味不明の言葉は要らなかったのではないか。

★天皇は女性天皇を除いて神武天皇の子孫だったか

1.初代神武天皇から第十二代景行天皇まで

この時代の日本(倭)国には父子継承とか兄弟継承の概念はなく、即ち、初代神武天皇から第十二代景行天皇まではすべて血縁関係はなく、適任者とか能力のある人が前任者を継いだものと思われる。おそらく、前任者の指名の必要もなかっただろう。あるいは、卑弥呼女王や台与女王のように共立されるのが関の山だったのではないか。政権が安定していなかったので人事も安定していなかったと思われる。「記紀」が父子相続で繋げているのは奈良時代の中国における相続法が影響しているのではないか。また、いわゆる、三輪王朝だが私見で恐縮と思うが「魏志倭人伝」に言う卑弥呼女王や台与女王の時代で、卑弥呼女王は倭姫命であり、台与女王は豊鍬入姫命のことであろう。崇神天皇と垂仁天皇であるが、「魏志倭人伝」と「記紀」を結合すれば、官有伊支馬(活目入彦五十狭茅尊) 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支(御間城入彦五十瓊殖天皇) 次曰奴佳鞮となるのではないか。崇神天皇や垂仁天皇は卑弥呼女王や台与女王の重臣ではあったが天皇(国王)ではなく、これも「帝紀」や「旧辞」の編纂に携わった人の作為であろう。多くの先生方が言っていることだが、「記紀」には多くの意図的な改変が多い。おそらく、当時の日本(倭)は山村(内陸部)では女性継承、漁村(沿岸部)では男性継承が一般的ではなかったかと思う。大和国は山村(内陸部)に属し卑弥呼女王とか台与女王とかの女性で家系を繋いだかと思われる。即ち、男性継承の事実がないのに男性で繋ぐ「記紀」は無意味である。

2.第十三代成務天皇から第十四代仲哀天皇まで

この二代の天皇は架空の人物であるとするのが多数説かと思う。即ち、実在していなかった。

3.第十五代応神天皇から第二十五代武烈天皇まで

第十五代応神天皇と第十六代仁徳天皇は系図上親子になっているが、二人とも実際は景行天皇の皇子ではなかったか。応神・仁徳両天皇が兄弟なら皇統は兄である応神天皇の子孫に継承されるはずであるが、おそらく応神天皇には後継者がなく、結局、「帝紀」の編者は二人を親子と言うことにして応神天皇の血脈も皇統に入ることにしたのではないか。応神・仁徳両天皇が兄弟なら兄弟相承はこの時代から始まったか。おそらく、朝鮮半島遠征の影響かと思う。
第十七代履中天皇と第十八代反正天皇のグループと第十九代允恭天皇との関係も問題だ。「宋書」には讃と珍は兄弟である、済は興と武の父である、とあるが、讃及び珍と済との関係は不明である。讃及び珍と済との関係は無関係(血縁関係がない)という説もある。一応、「日本書紀」の系図と「宋書・夷蛮伝など」の記録から「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇と解する説が有力である。特に、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇と比定するのには異論はない。
ここでも第十九代允恭天皇は、その前の「讃」→第十七代履中天皇、「珍」→第十八代反正天皇と繋がらないようである。允恭天皇系は第二十二代清寧天皇で断絶した。
第二十二代清寧天皇の後を継いだ第二十三代顕宗天皇と第二十四代仁賢天皇についても、億計・弘計二王の発見物語は典型的な貴種流離譚で史実とは認められない、と言うのが多数説かとも思う。仁賢天皇が雄略天皇の皇女と結婚しているのも無関係の関係だったもの同士が一体化する場合によく用いられる。仁徳天皇系は第二十五代武烈天皇で断絶した。

4.第二十六代継体天皇から第二十九代欽明天皇まで

第二十六代継体天皇は、越前から「応神天皇五世の孫」と言う触れ込みで迎えられ、群臣の要請により即位した。継体天皇は天皇になる前は越前、近江に支持基盤があったらしく、近江生まれの越前育ちとなっている。即位後、なかなか奈良盆地に入れなかった説(「記紀」の説)もあるが、近時は異論もある。しかし、継体天皇に関しては「日本書紀」に悩ましい「百済本記」の引用がある。即ち、「又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」を引用して、天皇及び太子(安閑天皇)と皇子(宣化天皇)が同時に亡くなったとし、政変で継体以下が殺害された可能性(辛亥の変説)を示唆している。「日本書紀」の原著作者も欽明天皇及び蘇我氏に対しては不審をいだいていたのだろう。そもそも、蘇我氏とは出自を武内宿禰とし、河内国あるいは大和国を出身地とする。しかし、私見では蘇我氏は継体天皇に同行して越前国からやって来た豪族で、蘇我満智の満智は「街」「間地」の意味で「間地」はA区画地とB区画地の間の通路のようなものを言い、蘇我満智とは現代流に言うと区画整理委員即ち土木建築業者だったのではないか。「越前における継体天皇伝説は非常に多いが、その大部分は治水に結びついたものである」(福井県「福井県史」)とあり、蘇我氏とは継体天皇の大規模干拓による農耕地や住宅地の開拓の実務者リーダーだったのではないか。とは言え、中央に実績のない蘇我氏に大伴金村などがそれなりの仕事を与えたかは多分に疑問である。中央で一旗を揚げようと思っていた蘇我稲目は大いに不満だったのだろうが、宣化天皇元年(536年)、突如、大臣となった。中央政界や宮廷実務に何の経験もないものが、いきなり大臣に就任とは一般的には考えづらい。下世話に言う賄賂とかその種のものがあったのであろうか。そもそも、継体、安閑、宣化の三天皇は地方政界レベルの人で、中央では役に立たなかったのではないか。招聘した大伴金村はじめ物部麁鹿火などもどうしようものかと思案していたのではないか。そこに蘇我稲目と欽明天皇との継体天皇一族殺害事件(現代的に言うとクーデター)が起こったのではないか。継体天皇が欽明天皇の実の親だったら欽明天皇は何も親を殺すことはなく、この二人も実の親子ではなかったのではないか。三天皇が亡くなって得をするのは蘇我稲目と欽明天皇である。 欽明・稲目コンビは都合の悪いそれまでの重臣大伴金村を追放し、稲目の息子馬子は物部氏を滅ぼし、崇峻天皇を暗殺した。峻烈なる皇位簒奪である。
「王朝交替説」には以下の説が有力であるようだ。
・水野祐(早稲田大学教授)が唱えた三王朝交替説。崇神王朝、仁徳王朝、継体王朝の三王朝が存在し、現天皇は継体王朝の末裔とされている。
・岡田英弘(東京外国語大学教授)の王朝交代説。河内王朝(仁徳天皇以降)、播磨王朝(顕宗天皇・仁賢天皇の兄弟と、顕宗天皇の子武烈天皇の三代)、越前王朝、舒明天皇以降の「日本建国の王朝」。舒明天皇とそれ以前の皇統の間でも「王朝の交代」があった可能性を指摘している。
・鳥越憲三郎(大阪教育大学教授)の説。物部王朝、葛城王朝(神武天皇及びいわゆる欠史八代の天皇)、大和王朝(崇神王朝、仁徳王朝、継体王朝)。
などがあるようで、水野祐説が標準的なものになっている。その修正版として、近年では、ある特定の血統が大王(天皇)位を独占的に継承する「王朝」が確立するのは継体・欽明朝以降のことで、それ以前は数代の大王が血縁関係にあっても「王朝」と呼べる形態になっていなかったとする見解が主流になっている、とある。

★まとめ

忠臣・井上毅(いのうえ こわし)が、国名に大の字を冠するのは自ら尊大にするきらいがあり、内外に発表する憲法に大の字を書くべきでないとして反対したにもかかわらず、伊藤博文が「世界の列強何するものぞ」の心境からか憲法草案の「日本帝国」に「大」の字を加筆したと言う当の大日本帝国憲法も、はたまた、明治の初め頃より呼称されていたという「大日本帝国」も今時の敗戦ですっかりなくなってしまった。「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とは何だったのかという感慨だが、天皇制は維持された。万世一系の天皇と世襲天皇との違いは何なのかと言うことだが、事実上、世襲天皇とは昭和天皇からの世襲を意味するのだろう。大日本帝国憲法73条の憲法改正手続を経て日本国憲法ができたと言っても、大日本帝国憲法は全否定されたと言ってもいいと思う。即ち、「万世一系ノ天皇」は否定され「世襲天皇」が誕生したのである。世襲天皇は自由度も高いようだから昭和天皇の子孫だったら誰でもいい、と言うことになりそうだ。但し、嫡出子しか子とは認めないようなので、いわゆる庶子には厳しいのかも。民間では相続の話ではあるが同じ親の子なら嫡子・庶子に関係なく相続分は同じという画期的判決が出た。「万世一系」などという意味がよく解らない言葉がなくなっただけでも「よし」とすべきなのだろうか。

 

 

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