従者郷

★はじめに

越前国丹生郡と越前国敦賀郡にそれぞれ従者郷と言う郷がある。従者をはじめは漫然と天皇をはじめとする中央貴族が外出する際に牛車や馬のそばについて同道する者のことかな、と連想していた。「従者」は律令、特に、令に定義があるものではなく、一種の舎人に包含される部民かと思われるが、多分に個々の本主に隷属する部民かと思われる。養老令軍防令では地方官の従者である「事力(じりき)」は「一年一替」とあるが、中央皇族・貴族の従者である帳内・資人は不明である。一応、事力は上等戸に属する正丁から選ばれ、帳内・資人は下級官人とあり勤務評定により昇進し、今で言う国家公務員で任期はなかったか。従者郷とあるので生活の本拠は従者郷ではなかったかと思われる。そこで、ここでは「従者」の意味と「従者郷」の内容を検討してみることにする。

★従者

「従者」の訓に「和名抄」(高山寺本)は、「之度无倍」(しとむべ)を付している。「べ」は「部民」の「部」であろうから、「従者」の本来の読みは「しとむ」あるいは「しとん」かと思われる。「しとむ」は辞書によれば「しとむ おおうこと。特に、水にすっかり浸かること、<水しとむ>という」とある。そこで、「しとむ」の意味合いとして、
1.しとべ (シリトリベ(後取部)の約。シトリベとも)主人の後に従って仕える者。ともびと。従者。
2.しどり(後取) 神社の祭儀中、種々の雑務に当たる役のこと。御錀(みかき)後取、軾(ひざつき)後取など。祭員中、下位の者が当たる。
3.しどり(倭文布) しずり。倭文はシツオリ、つまり機織りのこと。
4,しとみ(蔀) 格子を取り付けた板戸を言うようであるが、「しとむ」と同根と見え「おおうこと」を強く示唆する。
以上をみると、
1.「しとべ」は現今の秘書のことかと思われる。
2.「しどり」は現在で言うとアシスタントのような人を言うのか。
3.「しどり」(倭文布)は機織り職人を言うようで、倭文氏は倭文神社を建てて祖神を祀るというので倭文神社のない従者郷には関係ないと思われる。
4.「しとむ」おおうこと、とあるように何か機密保持と関係がある語かなとも思われる。

「従者」で著名なのは伴大納言善男で、「宇治拾遺物語」によると、

「これも今は昔伴大納言善男は佐渡国の郡司が従者なり」(宇治拾遺物語巻第一 四 伴大納言の事)

と言っている。何を根拠(単に「古事談」を引用したまでか)かは不明だが(一般には伴国道の五男とされる)、無事、伴国道の養子になって位階をもらい宮仕えができたとしても後世で言う読み、書き、そろばんができなくては話にならないし、成人である善男(従者の時に既に妻がいた)にはたとえ平安京での勤務経験があるとしても言葉の障壁もあったかと思う。さすれば、佐渡国の郡司が従者とは一般に考えられている力役(護衛・駆使)だけではなく、それなりの学もあった人物と言うことになる。なお、「日本書紀」皇極天皇三年冬十一月条に「健人を名づけて東方賓從者(あづまのしとべ)と曰う」とある。健人は舎人の内の兵衛のことか「ちからひと」と訓じているものもある。やはり従者には力仕事が期待されたのか。東方とあるのは舎人の多数は東国の国造の子弟が多かったからその名残という。とは言え、当時の宮廷が失礼ながらそんなどこの馬の骨とも分からぬような人物を受け入れたかははなはだ疑問だ。仁明天皇が目をかけたと言うのも善男が伴氏の子息だったからではないのか。単なる養子をそこまで引き立てることはないと思う。
従者は「大宝律令」「養老律令」の当時の法律用語ではなく、その場合は位階と官職に応じて賜る従者があり「養老令(大宝令)」では「帳内(ちょうない)四品以上の親王」「資人(しじん)位分資人は王臣の五位以上、職分資人は大納言(後に中納言)以上」「事力(じりき)国衙と太宰府の官人」と言い、それぞれ本主に与えられた。本主の警護、威儀、雑務に使役されていたと思われる。事力は若干異なり大宰府や国衙の官人に支給された職分田(職田・公廨田)を耕し、護衛、その他の雑用などに駆使された。
以上を総括してみると、
1.帳内・資人と事力は出自が違う。即ち、帳内・資人は位階のある人の子弟であり、事力は上等戸に属する正丁から選ばれた。
2.帳内・資人と事力は雇用期間が違う。即ち、帳内・資人は雇用期間がないのに、事力は一年一替である。
3.帳内・資人と事力は仕事内容が違う。大きく違うのは事力が農作業を行うのに、帳内・資人は行わない。
4.帳内・資人と事力は経済的負担も違う。即ち、事力の負担は重く、帳内・資人は現代流に言うとサラリーマンである。軽減策として、事力を庸(庸布1丈2尺あるいは庸米5斗)免除で役する制をやめ雑徭(農繁期30日)で役した国もあった。
5.帳内・資人と事力は人数も違う。即ち、帳内・資人は大人数であるが、事力は少数である。事力には後ほど副丁を属さしめた。
6.帳内・資人は全国から雇用されたが、事力は地元の正丁から選抜された。
これらを考え合わせると、従者と言っても中央貴族の従者である帳内・資人と地方官の従者である事力にははっきりとした違いがあると思う。帳内・資人は小間使いと言っても都会のサラリーマンであり、事力は農民の延長と言ってもいいのではないか。従って、「佐渡国の郡司が従者」と言われた伴大納言善男はどう見ても事力とは思われない。「宇治拾遺物語」という物語なのだから何を言っても問題はないと言う考えから書き綴ったものか。

★従者郷

「従者郷」の読みだが「和名抄」高山寺本敦賀郡の「従者郷」の項の訓に「之度无倍下同」とあり「シトムベ」または「シトム」と読んだらしい。従者のことを大和言葉で「シトム」というのだろうか。漢字で「後取」の文字を当て「シリトリ」と読み「シトリ」となり「シトム」となったというもののようだが、そもそも「シトリ」と「シトム」は同一と見なしてよいのか、やや疑問ではなかろうか。また、難癖を付けるわけではないが、「和名抄」高山寺本の「従者郷」の項の訓についている「之度无倍下同」は正なのかどうか。一説によると、「日本書紀」皇極天皇三年(六四四)十一月条に、貴人の従者である「賓従者」に「シトムヘ」の古訓がみえると言う。要するに、和名抄の「従者郷」は誤字、当て字はないのか。読みも標準語の読みで地元の実際の発音はどうなのか。漢字の見てくれはよくても真実が分からなければ何もならない。そこで二、三検討してみると、

1.「従者郷」の発音については文献を拾ってみると

・元亨元年(1321) 侍都部(しつべ、か)郷 仏念等譲状(慈眼寺文書)
・康正二年(1456) 従都(じつ<べ>、か)郷 造内裏段銭並国役引付
・寛正五年(1464) 従都部(じつべ、か)郷 大塩八幡宮縁起
・文明六年(1474) 従都部(じつべ、か)郷 朝倉孝景執達状
・天平神護二年(766) 質覇(しつべ、か)郷 越前国司解(伊勢国朝明郡の「訓覇」郷を「久流(留)倍」と読んでいる)

以上を考察すると「従者郷」は奈良時代から地元では一貫して「しつべ」あるいは「じつべ」と読まれてきたのではないか。「しつべ」「じつべ」は「しづべ」(静戸)のことで(但し、「しずり」<倭文>と読む説あり)「和名抄」には陸奥国信夫郡静戸郷(福島県霊山の裾あたり)、陸奥国伊具郡静戸郷(宮城県丸森町あたり)がある。
飜って、「従者郷」の比定地を見てみると、
『福井県史』通史編1 原始・古代に「敦賀郡の鹿蒜郷、敦賀・丹生両郡の従者郷に典型的にみられるように、山間部の郷の存在も特徴として指摘できる。そのうち従者郷は武生市南部の日野山西麓から、今庄町の日野川上流域一帯にわたる非常に広い範囲に比定されており、両郡の郡界をはさんで立地していたことが注目される」とある。
「しづべ」の語源がシヅ(垂)ベ(辺)と言われ「傾斜地のあたり」を言う、とあることを考えると、「従者郷」は山間部にある傾斜地を語源とした地形地名を言うのではないか。

2.「従者」の発音について

「従者」は、時間と共に「じゆうざ」→「じゆじや」→「ずざ」と発音されてきたらしい。「ずざ」は清音にすると「すさ」で西日本には多い「須佐」地名になる。本来は「すさ」と清音にすべきところを地元では濁音が優勢で「ずざ」となったか。即ち、従者とは須佐のことか。

3.「従者」は「辰砂」か

「従者郷」は山間部の郷と言うことで、山間部に期待するものとしては、1.鉱物資源 2.木材 3.木地師が作る木工芸品 4.米以外の雑穀(ソバなど) 5.椎茸などの栽培品、などがあろうかと思うが、いつの時代にも欲ボケ亡者はいるもので、ましてや郡名に「丹生郡」などとあれば辰砂があるのではないかと色めき立つのは当然だ。「魏志倭人伝」にも「其山 丹有」とあり早くから日本では辰砂の採掘を行っていたようだ。無論、辰砂という言葉は後世に入って来た言葉であろうが、弥生時代のハイカラ族(辰砂の採掘業者)には既知の言葉だったかも知れない。なお、従者郷の鉱物資源としては南条郡南越前町今庄 鍋倉北谷に江戸時代の金山の廃坑があるという。即ち、「辰砂」が「従者」に転訛したか。

★結 論

以上より鑑みるに、「従者郷」は「シトムベ」と読むにも難があり、ましてや、職業部である従者部などというのは「まぼろしの部民」でそんな部民なんていなかったのではないか。例によって、「従者部」というのは実体不明というのが多数説かとも思うが、もし従者郷に従者部と言う部民が住んでいたとしても、普段は何を生業としていたのだろうか。そもそも「従者」という言葉も当時の法律用語ではなく単に感覚的に捉えてあれやこれや言っても意味をなさないと思う。地形を言うのに従者という言葉(漢字)はまったく適当ではなかった。議論が別の道に逸れてしまった。従者郷の従者とは貴人の{ともびと}とはまったく関係がなく、「シトムベ」の読みを付けたのも失当であった。但し、「従者郷」は「従都部」の都の<おおざと>を省略したもので、かつ、地名を二字にするため<部>を割愛したものかも知れない。「和名抄」の読みの「シトムベ」も従(し)都(と)ン部(べ)か。ともあれ、正しい読みは「従都部」(シツベ)ではなかったか。「和名抄」の読みは京の都の貴族が読んだらこうなったというものではないか。

 

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