古墳と神社

★はじめに

古墳には大小様々ありその管理の態様はいろいろあると思うが、大仙古墳(伝仁徳天皇陵)のような大古墳でも普段の管理は一人の墓守が行うようなことを言う見解がある。それによると、古墳の周濠の整備が終わると墓守が着任し、古墳の近くに住み、大仙古墳へ人が立ち入らないように監視した。また、まわりを清掃したり、大雨などで自分の手にあまるような損壊があれば上司に報告した、と言う。現代ではいろいろな監視機器もあるのでそれでもいいだろうが、古墳時代にあって800m×800m(640,000㎡、およそ20万坪)の敷地を一人で監視できたものかはなはだ疑問である。古墳を本格的に管理しようと思えば、現代的感覚では除草を年何回かは行わなければならず、葺石の葺き替え、壊れた埴輪の挿げ替え等かなりの労働作業を伴うものだ。古墳の管理をはじめっから放棄しているのならともかく、古墳のメインテナンスにはかなりの人数が割かれていたのではないかと思われる。古墳がだんだん百舌鳥古墳群とか古市古墳群とか言って密集して築造されたのも普段のメインテナンス費用を節約するためだったのではないか。それでも金がかかるので大化の改新で薄葬令を発し、前方後円墳等のバカでかい、換言すれば維持費のかかる墳墓は廃止と相成ったのではないか。
今でも「大きな本社ビルを建てるとその会社の衰退は始まる」などと言われるが、当時にあっても「大きなご先祖様の墳墓を造るとその家の衰退が始まる」とばかりに、古墳時代の極盛期をピークに大型古墳はだんだん敬遠され始めたと思う。そんなのにしがみついていたのは蘇我氏とか藤原氏のような新興豪族だけではなかったのか。

★古墳時代の古墳の管理

これはやはり 1.古墳の出現期 2.古墳の極盛期 3.古墳の衰退期に分けて考えた方がいいと思う。

1.古墳の出現期の管理
これは古墳が出現した頃は当然ながら古墳の数も少なく、あちらにポツンこちらにポツンとしかなく、維持管理も現代流に言う高コスト体質になっていたのではないかと思われる。古墳築造者は原則として築造した古墳の周りに留め置かれ、既存の古墳のメインテナンスのほか、新規築造もそこから出張して行っていたのではないかと思われる。現代流に言うと単身赴任の形態かと思われる。現代のように単身赴任手当などという便利なものがあればいいが、当時の為政者は厚かましくも「食費は自弁」などと言って労働者に迷惑をかけたのではないか。古墳築造に携わったものは一方では田畑を耕し、他方では遠地へ出向いて古墳築造を行ったのではないか、と思われる。

2.古墳の極盛期の管理
この時期は古墳の超大型化と共に特定の地域に集中して築造する方法がとられた。即ち、メインテナンスにしても一グループが何基もの古墳を取り扱い、新規築造にしても遠くへの出張はなくなったのである。当時としても高コスト体質からの脱却は至上命題だったのだろう。おそらく、古墳建造も当初の公共事業的性格から個人の権力志向になっていったものと思われる。要は「あいつの墓がこれほどの大きさだから、俺のはそれ以上」とか言う発想が墳墓を大きくしていったのではないか。一部の地方豪族を除いては古墳に眠る人たちはみんな親戚縁者かと思うが、そのような人たちでさえさような不埒な考えを持っているとは驚きだ。

3.古墳の衰退期の管理
古墳が造られなくなったので築造の熟練工がいなくなった。当然のことながら、古墳が壊れたりしてもメインテナンスをする人がいなくなり、墓守も素人の墓守が一人とか二人になってしまったのではないか。草はボウボウ、木々も生えっぱなし、外見は現今の古墳の様子と似ているのではないか。人によっては庶民の田畑にされたのは言うに及ばず墓地にもなったという。いわば、巨大モニュメントも庶民には関係がなかったのだ。官僚も誰も彼もが古墳築造が自分たちの生活の糧とならなくなったらさっさと引き上げてしまった。現在、古墳築造に関わったと思われる土師、津守、出雲、尾張、六人部、石作、伊与部、伊福部などの苗字を名乗っている人はどのくらいいるのだろうか。

★最後まで残った管理者

土師(土師神社(道明寺天満宮)・古市古墳群)、津守(住吉大社・百舌鳥古墳群)、出雲(出雲大社・荒島古墳群、西谷墳墓群)、尾張(熱田神宮・断夫山古墳)、六人部(向日神社・元稲荷古墳)、石作(石作神社・灰方古墳群)、伊与部、伊福部(宇倍神社・双履石)などは神主家・神社に見える名だ。
これらの古墳築造者の括弧書き部分は管理した神社や古墳名で、管理した古墳群が大きい、古市古墳群、百舌鳥古墳群、荒島古墳群の神社の多くは今は大社となっており、往時の古墳管理事務所も大きかったことを忍ばせる。

土師氏は、後世、菅原、唐橋、秋篠、大江などに改姓し学者の路を歩んだ。家業を古墳築造業から学者に衣替えし、現在の道明寺天満宮社家も土師氏とは関係があるのかないのか。一応、土師氏の出身は記紀によると野見宿禰は出雲国の人となっているので山陰の方かと思う。但し、野見宿禰に関しては因幡国の出身というのも有力だ。いずれにせよ古墳造営の総領とでも言うべき家柄だ。但し、古墳群が大規模な割には残された神社の規模はパッとしたものではない。

津守氏は、明治5年に「明治4年(1871)5月14日、太政官布告『官国幣社指定、神職社家の解職再補任の布告』」によって解職されるまで連綿と続いた住吉大社の社家で、古墳の衰退期までは百舌鳥古墳群の管理業務を行ってきたと思う。

出雲氏は、現在は千家(せんげ)氏と称するが天皇家と同様二千年の長きにわたり出雲国造、出雲大社社家として存続している。日本書紀斉明五年是歳条に「狐、於友(意宇)郡の役丁の執れる葛の末を囓ひ断ちて去ぬ」とか「狗、死人の手臂を言屋社に囓ひ置けり」などとあるが、ついには困窮して墳墓も造れなくなったと言うことか。

尾張氏は、「平安時代後期に尾張員職の外孫で藤原南家の藤原季範にその職(大宮司職)が譲られた。以降は子孫の藤原氏・千秋氏が大宮司、尾張氏は権宮司を務める」とあり、早くから公職から離れたようだ。熱田神宮は摂社、末社がたくさんあるが、古墳築造を連想させるような神社はないようである。しかし、尾張国は石作郷(山田郡、中島郡)、石作神社(山田郡、丹羽郡、中島郡、葉栗郡)また海部郡伊福(五百城のことか)郷がある。めったやたらと古墳築造に関係が多い国であるようだ。おそらく、尾張氏は地元尾張の古墳築造ばかりでなく大和盆地の古墳も造営していたものか。

六人部氏は、現在でも向日神社の社家である。向日神社は「同じ向日山に鎮座する「向神社」(上ノ社)「火雷神社」(下ノ社)を合祀したもので、火雷神社は中世に至ると衰微し、建治元年(1275年)には向神社が併祭することとなり、向日神社と社名を改めた」と言う。神社のウェブサイトにも「向日神社の創建も元稲荷古墳と何らかのかかわりがあると考えられ、向日神社の氏子圏は向日市だけでなく、長岡京市や西京区の一部を含んでいます」とある。有り体に言うと、六人部氏は、元稲荷古墳築造にかかわり、そのメインテナンスの指揮をとり、管理事務所を神社に格上げし、その神主になったと言うことなのだろう。

石作氏は、本貫地を愚見で京都府にした。(山城国乙訓郡石作郷石作神社)式内社の石作神社は6社(山城国1、近江国1、尾張国4)あり、そのうち4社が尾張国にあると言うことで尾張国が本貫とする見解が根強い。しかし、石作氏が活躍したのは畿内であり、尾張は遠すぎると思う。尾張に石作氏がいたなら分家か部民ではないか。古墳築造衰退と共に衰微した。他の諸氏が華麗なる転身を図ったのに石作氏だけが時代の流れに取り残されたらしい。

伊与部氏は、本貫地が不明なら(現在は新潟県に集住しているようだ)、氏人が文献に出てくるのもまばらだ。「連姓の伊与部氏は、尾張氏の一族で、天火明命の流れを汲む少神積命の後裔とする」とあるが疑問。おそらく、イヨ(伊与)はイハ(岩)、イシ(石)と関係する語であり、石材工事業者だったと思うが、文献的な根拠は何もない。地名では岡山県総社市下原に伊与部山(伊与部山弥生墳丘墓)があるくらいか。前方後円墳が吉備国の古墳に範をとったというならもう少し吉備国出身者が古墳造りに活躍しても良さそうなものだが、そういう気配はまったくない。あるいは、伊与部氏は吉備国から来たのかも知れない。

伊福部氏は、因幡国の伊福部氏と美濃国の伊福部氏が著名のようだが、おそらく古墳造営にかかわったのは因幡国の伊福部氏であろう。因幡国一宮の宇倍神社の社家は明治時代になって解任されるまで伊福部氏であり、同神社の本殿裏にある双履石は古墳の一部、と言うのが多数説かと思う。伊福部神社は但馬国(兵庫県豊岡市)にもあり、あるいは但馬国が伊福部氏発祥の地かも知れない。豊岡市にはほかに石部(いそべ)神社もある。イフクとは私見では「イハキ(岩城)」→「イホキ(五百城)」→「イフキ(伊福)」と変化した石材による築城業者(石工)だったのではないか。但し、美濃国の伊福部に関しては尾張氏と同族で産鉄業者と言う見解が定着しつつあるようである。また、景行天皇が美濃国に行幸した際、泳宮(くくりのみや、岐阜県可児市久々利)で八坂入媛命との間に五百城入彦皇子、五百城入姫皇女などが誕生したという。

★まとめ

1.関連した各氏とも自分の祖先神を祀るのではなく別の神を祀っている。道明寺天満宮は祭神を「菅原道真、天穂日命、覚寿尼」などとしているがこれは土師氏の伝承が途中で途切れてしまったからではないか。言うなれば、これらの古墳築造の名家は祖神ではなく古墳に眠る貴人の祖神や貴人自身を祀ったのである。

2.この場合の神社の起源は、古墳管理事務所と言うことになるかと思う。古墳造営が衰微すると当然のことながらメインテナンスにも金が回ってこない。関係者は新規事業開拓と言うことで官社になれば国から祭祀料がでると言うことで管理事務所の神社への格上げを嘆願したのではないか。ほとんどは成功しただろうが神戸市の本住吉神社のように成功しなかったところもあるようだ。神主さんがいくら「こちら(本住吉神社)は本家、あちら(住吉大社)は分家」と言っても誰も耳を貸してくれない。

3.ほかに都、大和国、河内国でも同業者がまとまって記されていることを抜粋する。

右京  神別 天孫 出雲臣   臣  天穂日命十二世孫鵜濡渟命之後也
右京  神別 天神 伊与部       高媚牟須比命三世孫天辞代主命之後也
右京  神別 天孫 土師宿祢 宿祢 天穂日命十二世孫可美乾飯根命之後也
右京  神別 天孫 尾張連   連  火明命五世孫武礪目命之後也
右京  神別 天孫 伊与部       同上
右京  神別 天孫 六人部       同上

大和国 神別 天孫 土師宿祢   宿祢 天穂日命十二世孫可美乾飯根命之後也
大和国 神別 天孫 贄土師連    連  同神十六世孫意富曽婆連之後也
大和国 神別 天孫 尾張連     連  天火明命子天香山命之後也
大和国 神別 天孫 伊福部宿祢  宿祢 同上
大和国 神別 天孫 伊福部連    連  伊福部宿祢同祖

河内国 神別 天孫 身人部連   連  火明命之後也
河内国 神別 天孫 尾張連     連  火明命十四世孫小豊命之後也
河内国 神別 天孫 五百木部連  連  火明命之後也
河内国 神別 天孫 出雲臣     臣  天穂日命十二世孫宇賀都久野命之後也

4.以上より、古墳造営に関する限りは、
・同業者は各国で近所にまとまって住んでいたと思われる。
・「新撰姓氏録」が編纂された頃にこの人たちは何をしていたかは不明。
文献では神職、学者、地方官などが多い。
・各国に同じ氏の人がいるので元伴造や部民が技術継承していたのであろう。
・古墳管理者の多数は神官に転職したのであろう。

 

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