六人部氏とは何をしていたの

★はじめに

六人部(むとべ・むとりべ)氏というのは古代には畿内(山城国、大和国、河内国、和泉国、摂津国)を始め、伊勢国、紀伊国、美濃国、越前国、丹波国、美作国、讃岐国、出雲国など、畿内を中心としてその周辺地域にいたようである。前身は身人部とも書き職業部からの姓氏と考えられているが、六人部の語意と共に何を職務としていたかが不明とされる。

・語義の諸説
1.六人部の部としての性格や職掌は不明(多数説)。
2.身人部ともあれば、天皇の御長を量り奉る節折の料の篠を進むる部。
身度(みとり)部の義。
節折(よおり)とは、毎年6月と12月の晦日(みそか)に宮中で行われる行事。
天皇・皇后・皇太子の身長を竹の枝で測り、祓(はらえ)を行うもの、とある。
3.三富部は、身人部にて、六人部と同義である。
即ち、六人部とは水部・水取部・主水部(母止理部)さらには水戸部・三戸部・三富部
と同義で水取(もひとり)部のことを言う、とする。
4.地形・地名に由来するならばムタ(湿地)などが考えられる。

1.説については、正直ではあるが、答えになっていないのではないか。
2.説については、「未だ容易に首肯し難し」(太田亮博士の見解)
3.説については、難癖を付ける訳ではないが、「三、水、御」(甲類)と「身、箕、実」(乙類)は
発音が違い意味も違うと言うのが多数説。但し、私見はそういう考えには疑問がある。
また、水部・水取部・主水部(母止理部)の語があるのに、六人部との違いは何か。
水戸部・三戸部・三富部は地形によるものではないのか。そんな部民はいたのか。
4.説については、唯一「和名抄」に「丹波国天田郡六部郷」の地名があるので次に検討する。

・「丹波国天田郡六部郷」
「和名抄」に記載の丹波国天田郡には、六部(むとべ)郷、土師(はじ)郷、宗部(そがべ)郷、雀部(さざきべ)郷、・・・とあり、古代丹波国天田郡は現代流に言うと人材派遣の宝庫かとも見まごうばかりだ。「和名抄」のできた頃と思われる承平年間(931年 – 938年)にこれらの部民制度の痕跡があったとは考えづらいが、これらの六部(むとべ)とか土師(はじ)とか宗部(そがべ)とか雀部(さざきべ)とかの部の民は古墳築造に関係したのではないか。宗部(そがべ)も一見蘇我氏の部民と思われがちであるが、蘇我馬子の墓と言われる巨大石室の「石舞台古墳」があり、意外と蘇我氏は古墳築造に関わっていたのかも知れない。また、付近の様子は「土師、前田、土(つち)周辺には古墳が多く、前田の宝蔵山(ほうぞうやま)古墳からは郡内では珍しい精巧な甕棺が出土」とある。なお、「六部」の遺称地は昭和30年4月1日に福知山市に合併されるまで、上六人部村、中六人部村、下六人部村として存続した。

★「新撰姓氏録」からみた「六人部」氏

「新撰姓氏録」には以下のごとく記載されている。六人部氏の様子を明らかにするため前後関係の氏も抜粋した。

右京 神別 天孫 尾張連  連   火明命五世孫武礪目命之後也
右京 神別 天孫 伊与部       同上
右京 神別 天孫 六人部       同上

山城国 神別 天孫 土師宿祢 宿祢   天穂日命十四世孫野見宿祢之後也
山城国 神別 天孫 出雲臣   臣    同神子天日名鳥命之後也
山城国 神別 天孫 出雲臣   臣    同天穂日命之後也
山城国 神別 天孫 尾張連   連    火明命子天香山命之後也
山城国 神別 天孫 六人部連 連   火明命之後也
山城国 神別 天孫 伊福部         同上
山城国 神別 天孫 石作         同上
山城国 神別 天孫 水主直   直   同上
山城国 神別 天孫 三富部       同上

摂津国 神別 天孫 津守宿祢 宿祢     尾張宿祢同祖火明命八世孫大御日足尼之後也
摂津国 神別 天孫 六人部連 連       同神五世孫建刀米命之後也
摂津国 神別 天孫 石作連  連       同神六世孫武椀根命之後也
摂津国 神別 天孫 蝮部             同神十一世孫蝮王部犬手之後也
摂津国 神別 天孫 刑部首  首       同神十七世孫屋主宿祢之後也
摂津国 神別 天孫 津守            火明命之後也

和泉国 諸蕃 百済 百済公   公      出自百済国酒王也
和泉国 諸蕃 百済 六人部連 連      百済公同祖酒王之後也
和泉国 諸蕃 百済 錦部連   連      三善宿祢同祖
和泉国 諸蕃 百済 信太首   首       百済国人百千之後也
和泉国 諸蕃 百済 取石造   造       出自百済国人阿麻意弥也

以上を概括してみてみると、六人部氏の周りには土木石材工事を職掌とする氏族が多く、当時の最大の公共事業と言えば古墳築造になろうかと思われるので、何らかの古墳築造業務に関わっていたと思われる。

★まとめ

当時の古墳築造で大きな比重を占める職務と言えば、土木工事と石材工事があったと思う。土木工事を主導した氏族として土師宿祢、尾張連、出雲臣、津守宿祢などがあり、石材工事を主導した氏族として石作連、伊福部、伊与部などがあったのではないか。それでは、「新撰姓氏録」にしつこく出てくる六人部氏は何をしたのかと言えば、考えられる有力なものとして1.古墳の設計者(今日的言葉で言うと一級建築士)2.測量者(今日的言葉で言うと測量士)3.運送業者などがある。
1.の設計者については、当時は紙や筆記具がない時代だから、おそらく、土木工事業者が小型模型を作成し、それに基づいて拡大し、本式の古墳を築造したのではないか。模型の作製は土木工事業者が行ったか。
2.の測量者については、縄文時代の東日本では35cmを1単位とし、12進法の縄文尺があったと言われ、当時の公共事業はそれに基づいて建築された、と言われている。しかし、人口が少なかった西日本でそういう技術が発展したかは分からないというのが事実だと思う。身人部と書くので「人体尺」かとも思われるが、また、六人部とも書くので六人一組で何らかの測量を行ったかとも思われる。六人部連には「六人部連 連 百済公同祖酒王之後也」とあるので古墳時代には朝鮮半島より新しい測量技術が導入されたかとも思われる。酒王とは仁徳紀に出てくる酒君かとも言われるが不明である。もし酒王と酒君が同一人とするならば古墳時代に朝鮮半島から古墳築造のためにやって来た人々がいたのではないか。実際の測量には中国の晋尺と縄(現代的に言うと巻き尺)を使っていたのではないかと言うことである。
3.の運送業者については、巨大な古墳を築造するのに大量の土砂、石材、周濠の用水を運ばなければならず、それには特別な技術を要したのではないか。一応、古墳の解説書などではそれらの運ばれた搬路などが書かれていることが多いが、実際の運び方の具体例は少ない。重量のあるものは修羅とテコや水路を開削して筏で運んだものか。土砂を運ぶときは土木工事業者が行い、岩石を運ぶのは石材業者が行ったのか。

以上を勘案するなら、「六人部」氏とは古墳時代における測量業者であったのではないか。それも、縄文時代この方の日本式測量技術を継承したものではなく、朝鮮半島より取り入れた中国式尺貫法による測量技術だったと思う。西日本は弥生人、中国系なのでそれもやむを得なかったと思われる。なお、古墳築造の衰退と共に「六人部」氏を名乗る人は少なくなり、現在は京都の向日神社の神主家とか西日本に僅かにあるのみと言う。かって、多かったという美濃国の六人部氏はどこへ行ってしまったのだろう。

 

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