大伴氏と津守氏

★はじめに

大伴氏と津守氏は元は同じ国衆だったと見え、その関係を検討してみる。

大伴氏は古代中央有力豪族だったのでその本貫とも言うべき地が、
1.「日本書紀」神武天皇二年春二月甲辰朔乙巳、天皇定功行賞 賜道臣命宅地 居于築坂邑(橿原市鳥屋町付近か)
2.「日本書紀」雄略天皇九年(465か)三月、(天皇が)大伴卿與紀卿等 同國近隣之人 由來尚矣 於是 大連奉勅 使土師連小鳥 作冢墓於田身輪邑(大阪府泉南郡岬町淡輪か)
3.「日本書紀」欽明天皇元年(540か)九月、大伴大連金村 居住吉宅(大阪市住吉区帝塚山か) 稱疾不朝
4.「大伴の御津の浜」(大阪府大阪市中央区難波か)(「万葉集」1-63・68)や「大伴の高師の浜」(大阪府高石市か)(同1-66)
などが古典に散見し、後世の大和国、摂津国、河内国、和泉国など大阪湾沿岸と大和に拠点があったらしい。
一方、津守氏と言えば、
「日本書紀」神功皇后摂政前紀に、於是 從軍神表筒男 中筒男 底筒男 三神誨皇后曰 我荒魂 令祭於穴門山田邑也 時穴門直之祖踐立 津守連之祖田裳見宿禰 啓于皇后曰 神欲居之地 必宜奉定 則以踐立 爲祭荒魂之神主 仍祠立於穴門山田邑、とあり、津守連之祖田裳見宿禰は神功皇后の新羅討伐に従軍していたのか。その根拠地としては、
1.「住吉大社神代記」に、大神重宣。吾欲住居地。渟名椋長岡玉出峡(「日本書紀」では大津渟名倉長峡)。時皇后勅。誰人知此地。今令問賜地。手槎足尼(「日本書紀」では田裳見宿禰)居住地也、とあって、渟名椋長岡玉出峡に住まいがあったように書かれているが、この渟名椋長岡玉出峡(大津渟名倉長峡)には二説あって今の「本住吉神社」の地なのか「住吉大社」の地なのかはっきりしない。多数説は、「住吉大社」説のようである。無論、「住吉大社神代記」は住吉大社の人が作成したものであろうから、「住吉大社」説であろうかと思われる。
2.「新撰姓氏録」によると津守氏は火明命を同祖とするが、大きく分けて摂津国の津守宿禰(大御日足尼之後也)と和泉国の津守連(天香山命之後也)がいたようである。大伴氏と同様に摂津国と和泉国に勢力があったか。ただ、少し気になるのは、
摂津国津守宿禰は、
「摂津国 神別 天孫 津守宿祢」
「摂津国 神別 天孫 六人部(むとべ)連」
「摂津国 神別 天孫 石作連」とあり、
和泉国津守連は、
「和泉国 神別 天孫 石作連」
「和泉国 神別 天孫 津守連」とあり、
いずれも津守氏と石作氏がセットで出てきていることである。
石作氏は石工のことであり、津守氏は言われているような「港の管理者」ではなく、「土盛(つちもり)」の「ち」が欠落したものではないか。即ち、津守氏は土工のことを言ったものか。端的に言うと、津守氏と石作氏は古墳築造の現場監督(伴造)とも言うべき人たちで、摂津国津守宿禰は摂津国の古墳(例、西求女塚古墳等)築造に関わり、和泉国津守連は和泉国の古墳(例、百舌鳥古墳群)築造に関わったのではないか。

以上を概括すれば、両氏が同じ国衆だったと言っても、地域をまとめた豪族だった大伴氏は中央大豪族になり、津守氏は在地中小豪族の道を進んだのであろう。津守氏が「記紀」に出てくるようになったのも、「記紀」制作時に遣唐使の神主として活躍していた津守氏が住吉津から新羅国までの寄港地に住吉神社を建て、神威発揚をはかったからではないのか。後世、津守氏一族に外交使節として海外に派遣された人が多いのは遣唐使の神主としての海外渡航経験がものを言ったのではないか。

★大伴と津守の地名

1.大伴の地名
淳和天皇の即位後は天皇の諱「大伴」を避けて公式の地名には「大伴」という地名はなくなったようである。「大伴の御津の浜」や「大伴の高師の浜」は「万葉集」に出てきても公式の地名ではない。そこで、住吉神社のある摂津国で大伴や住吉に関係のある地名を見てみると、奈良時代には摂津国八部郡や莵原郡は雄伴国(莵原郡と八部郡をあわせたもの)とか雄伴郡宇治郷(八部郡)と言われていたようである。大伴と雄伴はどのような関係にあるのかと言えば、一説では地名の先頭につく「大」とか「雄」はいわゆる接頭語(単なる美称か)で特別な意味を持たない、と言う。大伴、雄伴は「伴」に字義があり、トモとはトビの転で崖を言うと説く。また、字義を認めるとしても、大と小(を、雄)を意味するが地名で大・小が対で出てくる例は少ないという。この説によると「大伴」も「雄伴」も同じ語と言うことである。現在の神戸市と大阪市に大伴ないし雄伴の地名があったと言うことである。なお、摂津国西成郡雄惟郷と書かれた写本があり、「雄惟」は「雄伴」の誤写とする見解がある。文献的に雄伴郡が出てくるものとしては、
・法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(天平19年(747)2月11日)に「摂津国雄伴郡」
・「摂津国風土記」逸文(釈日本紀)に「雄伴郡、夢野あり」「雄伴郡、波比具利岡」
・「住吉大社神代記」に「兎原郡元名雄伴国」
などがある。
なお、摂津国に大伴や雄伴という地名の痕跡はあるが「新撰姓氏録」には大伴氏は見当たらない。「栄枯盛衰世の習い」とはこのことを言うか。

2.津守の地名
津守の地名は大伴に比べ全国に散在している。「和名抄」によると、
肥後国詫麻郡津守郷
豊後国大分郡津守郷
越前国敦賀郡津守郷
摂津国西成郡津守郷
摂津国兎原郡津守郷
遠江国敷智郡津毛利神社(祭神住吉三神・綿津見三神)
肥後国詫麻郡津守郷は現在では内陸の地であるが、ほかの津守郷は現在でも海に面しているか海に近いところにある。いずれの地にも有力な津守(港の管理者)がいたから津守郷となったものであろうか。地名が摂津国の二ヶ所を除いて関係のないところにあるので、各々の津守郷に「津守」姓の人がたくさんいるならともかく、そうでないのならやはり地形地名と考えた方がいいのではないか。津守は前述したが「土盛(つちもり)」の意で土の盛り上がったところ、段丘、微高地などを意味するのではないか。高く盛り上がった墳墓などもその中に入るのではないかと思う。ここで問題になるのは摂津国の両津守郷だが、一般には伝播地名と解されているようだ。即ち、兎原郡津守郷と西成郡津守郷は無関係ではないと言うことである。津守の地名がどちらからどちらへ伝播したかははっきりしないが、あるいは、多数説は西成郡津守郷が原生地名と解しているもののようである。

3.住吉の地名
住吉の地名も「記紀」神功皇后段で華々しく取り上げられている割には地名としては少ない。以下、例によって「和名抄」から拾ってみると、
摂津国住吉郡
摂津国兎原郡住吉郷
播磨国明石郡住吉郷
播磨国賀古郡住吉郷
播磨国賀茂郡住吉郷
長門国阿武郡住吉郷
とあるが、摂津国住吉郡と摂津国兎原郡住吉郷を除いては住吉大社の社領や神戸のあるところだという。現在では600社あると言われる住吉神社も当時はたいしたことはなかったのだ。そこで、大伴、津守、住吉の三地名から共通のものを拾ってみると、

・大伴
雄伴郡宇治郷(八部郡)
「大伴の御津の浜」や「大伴の高師の浜」
・津守
摂津国兎原郡津守郷
摂津国西成郡津守郷
・住吉
摂津国兎原郡住吉郷
摂津国住吉郡

大伴、津守、住吉の三地名は現在の神戸市と大阪市にそれぞれセットになってある。特に、摂津国兎原郡には住吉郷も津守郷もある。このような観点から見てみると、これらの地名の原生地名は摂津国兎原郡ないし雄伴国にあったのではないか。

★まとめ

大伴氏と津守氏は邪馬台国の時代から行動を共にしているらしく、その動きを見てみると、

1.大伴、津守の地名が摂津国から発していることから同国の最古の古墳と見られる「西求女塚古墳」についても両氏があるいはいずれか一方がからんでいるかと思われる。前述したように津守氏と石作氏は古墳の築造者と思われ、「西求女塚古墳」の場合、前方後方墳なので方墳は出雲国の「四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)」に代表される日本海側の古墳型であり、その築造には日本海側の指導者の指揮監督があったのかも知れない。具体的には、総指揮者には難升米、土木工事総監督には都市牛利、石材工事総監督には伊声耆、土木工事現場監督には津守氏、石材工事現場監督には石作氏が当てられ着工したのではないか。難升米、都市牛利、伊声耆の諸氏は因幡国ないし但馬国の指導者ではなかったか。おそらく、これらの現場監督(当時の言葉では伴造)クラスの人が技術を習得し各地の古墳築造の際中央から派遣されたのではないか。これらの人がいかなる思想の下に「前方後円墳」や「前方後方墳」を開発したかは分からないが、日本では縄文時代の貝塚、土壙墓では穴を掘り遺体を埋葬する穴の形はほとんど円形か方形だった。覆土は穴の形と同じになるので外見上の形は円形墓や方形墓がほとんどだったと思う。その延長上で中国の厚葬思想も加わり、円墳と方墳を合体し、土盛りを大がかりにして石材を使って石室などを設け、外には埴輪を立て並べ、内には鏡・装身具・武器・農工具などを副葬した。「西求女塚古墳」はそのハシリのものと言える。ただ、前方後円墳と前方後方墳を現代的に比較してみると前者は女性のための墳墓で後者は男性のための墳墓のような気がする。即ち、はじめは古墳も男性用と女性用に別々に設計されたのかも知れない。
「西求女塚古墳」が築造される前の摂津国兎原郡は邪馬台国・狗奴国戦争の主戦場(勝手な私見)になり荒廃が著しかったのではないか。そんなところにご先祖様の墓を建てる人も建てる人だ、と言うことになるのだろうが、築造後のメインテナンスも気がかりなところだ。神戸市教育委員会の見解によればあたりに大型の集落遺跡はないという。陵戸(りょうこ)などという人々はいなかったと思われる。

2.「西求女塚古墳」の被葬者は誰か
結論から言えば、(1)大伴氏の一族か(2)山陰地方の豪族になろうかと思われる。その場合 (1)の場合は、系図で見ると大伴武日の父の豊日命 (2)の場合は、天日槍命、丹波道主命、難升米、都市牛利、伊声耆などが考えられ、特に、天日槍命は有力だ。
邪馬台国時代の現在で言う阪神間は集落、人口等も少なく、領民は会下山遺跡とか城山遺跡とかの高地性集落に逃げ回っていたようだ。但し、会下山遺跡や城山遺跡は紀元前一世紀から紀元後一世紀の間の遺跡で倭国大乱や邪馬台国とは関係がない、と言うのが正論のようだ。あるいは、一時避難場所としては利用していたのかも知れない。とは言え、大伴氏は戦闘の矢面に立たされ、兵力の確保に心血を注いでいたことは間違いないことと思う。やや大袈裟に言うと「またも負けたか八連隊、それでは勲章九連隊」はその頃から始まっていた。しかし、そこは「捨てる神あれば拾う神あり」で大伴氏には山陰方面(因幡、但馬、丹波)から救援隊が駆けつけたと思われる。「播磨国風土記」の天日槍命と伊和大神のもめ事の実体は大伴氏の援軍にやって来た天日槍命が伊和大神を撃破したと言うところにあるのではないか。
摂津国の古い古墳では墳丘やその周辺から山陰地方特有の土器などがみつかっている、と言うのも、山陰からの来援を示唆しているのではないか。また、古墳築造に山陰の人が大きな役割を果たしたか。住吉というのは元は墨江(すみのえ)と言い、川を意味しているという。大伴氏も弥生時代初めの頃までは川漁師だったのかも知れない。今でもそうだが当時は兵粮は戦争の重要課題で、魚を主体とした日本人の嗜好に合った大伴氏の兵粮政策が効を奏したのではないか。そのお礼に山陰の土器などが贈られたのではないか。神戸市教育委員会の見解によると「ところで西求女塚古墳では葺石や基底石などはこの周辺でとれる花崗岩が使われています。また、石室の天井石に使われている石材のうち緑泥片岩(りょくでいへんがん)は和歌山県や徳島県で、石英斑岩(せきえいはんがん)は猪名川(いながわ)上流の川西市近辺でしかとれないものです」とある。後世の大伴氏の勢力版図からして被葬者は地元の人で大和国とも関わりがあると言うことを考慮すると大伴氏と言うことになるのではないか。ただ、石に固執すれば、石材工事総監督の伊声耆の選もなくはない。

3.雄伴国から住吉郡へ引っ越した理由
真っ先に考えられるのは戦争による地域の荒廃であろう。おそらく戦は一度や二度ではなく一進一退を繰り返しながら長期間行われたものと推測される。戦い終わって日が暮れて明けてみれば残骸の山、と言うのが実情だったと思う。大伴氏も重臣たちと対策会議を開いたが、復興には莫大な費用と人手がかかると言うことで住吉神の遷宮と相成ったのではないか。
次に考えられるのは、領主である大伴氏と重臣の関係である。我々が文献で知るのは大伴氏と津守氏の関係だけであるが、住吉神社が摂津国兎原郡と摂津国住吉郡にあるというのも何か分裂を連想させるものがある。即ち、移転を主張した領主大伴氏と一の重臣津守氏に対して、古色蒼然と旧弊を主張するグループがあったのではないか。移転組は住吉神を遷宮し、住吉郡開発に鋭意努力した。残留組は西求女塚古墳の保守管理にこれ努めたのではないか。本住吉神社が「延喜式」に記載のないのは墓の管理事務所という位置づけだったからではないのか。今でも天皇の御陵には管理人が常駐する管理所みたいなのがある。本住吉神社と西求女塚古墳は離れすぎと言う見解があるかも知れないが、管理人とて日常生活に便利なところに住むだろうから、当時はこのくらい離れていたのだろう。

4.大伴氏と津守氏はなぜ袂を分かったか
大伴氏が住吉郡にいたのはほんの僅かの期間で、すぐに大和国へ引っ越したようである。大伴氏は住吉郡には一族もいなければ管理すべき物件もなかったようである。大伴金村が引退後「住吉宅」に住んだではないかと言う人がいるかも知れないが、一説によると当時の中央政府は住吉の開発に力を注ぎ、多くの貴族が当地に別荘を持っていた、と言う見解もある。従って、住吉の地が特段大伴氏の支配地でもなく、大伴金村が引退後別荘を建てたのかも知れない。帝塚山古墳(4世紀末~5世紀初頭)は大伴金村父子の墓説があるが、時代的には大伴武以の墓が妥当とする見解があるようだ。大伴氏も武日(移転を敢行した本人か)、武以の頃までは住吉郡に在住していたのか。
一方、津守氏はと言えば百舌鳥古墳群(4世紀末ないし5世紀初頭から6世紀後半頃)の築造が一段落するまでは古墳築造に専念し、その後、大伴氏も完全に大和国に引っ越して、住吉大社の神主業に専念したのではないか。そもそも、津守氏は自前の神社《大海神社(延喜式神名帳に「大海神社 二座 元名津守氏人神」とある)》がありながら、大社とは言えあまり関係がなさそうな「住吉大社」を祀っている意味が分からない。元領主の神社と言ってしまえばそれまでだが、「記紀」では神功皇后に押しつけられ、「私見」では景行天皇に押しつけられて祀ることになったのではないかと思われる。従って、住吉郡に引っ越してきた頃には両氏は進む道を異にし疎遠になったのではないかと思われる。

 

 

 

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