巨大古墳は何が原因で始まったか

★はじめに

巨大古墳がなぜ出現したかを論ずる前に、古墳以前の墳墓を検討してみる。

初期の墳墓

*貝塚

貝塚はゴミ捨て場ではないかと言う人もいるが、縄文人にとっては一種の宗教施設だったようである。万物はその使命を終えて今日的用語で言う彼岸に行くのであるが、深山幽谷や水平線の彼方へ行くのは大変なので住居のそばにそれを設定した、と言うことなのであろう。ここで縄文教の教義をくどくどと説いても妄想以外の何物でもない、と言われるのが落ちなので、具体的な貝塚を上げてみる。

・小竹貝塚(おだけかいづか。富山県富山市。縄文時代前期・6000年前)
最近発掘された人骨で91体分の遺骨が出土。
・コタン温泉遺跡(こたんおんせんいせき。北海道八雲町。縄文期後半から後期初頭)
貝塚の上・中・下の各層から計20体の人骨が出土。
・伊川津貝塚(いかわづかいづか。愛知県田原市。縄文時代後期から晩期)
特異なこととして、縄文人同士の抗争や食人風習があったか。
200体弱の人骨が出土。甕棺も発見されており、再葬の風習があったか。
・吉胡貝塚(よしごかいづか。愛知県田原市。縄文晩期から弥生前期)
302体の縄文人骨が出土。ほかに甕棺葬の遺骨もある。総数340体という。

なお、具体的な埋葬方法であるが、遺体をぞんざいに捨てたりせず、貝層に四角い穴を掘ったりして、そこに遺体を屈曲して入れて埋葬をしていたようである。

*土壙墓

土地に円形ないし方形の穴を掘り、その中に遺体を屈葬した。覆土は掘った土を埋め戻した。有力者の遺骨は土器棺に入れ直し再葬したようだ(土器棺墓)。土壙墓と土器棺墓が併せて見つかる遺跡では土壙墓の数が圧倒的に多く、遺物も土壙墓には少ないと言う。縄文時代全般から弥生時代にわたって出土する。有名な三内丸山遺跡の墓地はこの形式で縄文時代ながら「伸展葬」である。また、墓が整然と並べられていることから専任の墓地管理者や神官がいたのではないか。

*ストーンサークル

日時計の場合と墓の場合があるようだが、墓と認定されているものが多いようである。タイプはいろいろあるようなので断定はできないが、環状の真ん中にある大型の石はご先祖様の墓で、その周りの環状列石の方はそのご子孫と言うことらしい。「大湯の環状列石と鹿児島県指宿市旧山川町の成川遺跡の立石土壙墓とは、中央に円柱状の石を立てている点で共通性がある」とのご見解もあり、秋田県と鹿児島県が同じ思想ないし発想により墓地を造っていたらしい。あるいは、交流があったか。全国的には縄文中期後半から後期の遺跡が多い。

以上より判断するなら、縄文時代の墓は小規模な共同墓地が多く、墓の大小で言う限りはほぼ平等の社会ではなかったかと思われる。

*弥生時代の墓制

弥生時代は農業が本格的に開始され、今日的言葉で言う「格差社会」が出現した。墓制も地域・地域や時代・時代の経済発展の度合いにより異なるようだ。要するに、墓にも格差が生じたと言うことだ。弥生時代の墓の特徴を大まかに言うと、

1.墓は住居の近くではなく集落の近隣に共同墓地を建てた。
2.埋葬用の棺(甕棺・石棺・木棺など)の使用が本格化した。
3.土で塚を築く墳丘墓(ふんきゅうぼ)が現れた。
4.方形周溝墓も全国津々浦々とまでは行かないものの広い範囲に出現した。

以上が全国的に見られる特徴で、「魏志倭人伝」にも「その死するや棺有れども槨無く、土を封じて塚を作る」とある。邪馬台国の時代は石室がなくどうやら墳丘墓の時代であり、大型古墳の時代ではなかったようだ。あるいは、卑弥呼女王の墓が古墳の先陣を切ったかはなお不明である。

★大型墳墓の出現

墳丘墓は「棺」の上に土を盛るあまり技術の要らない墳墓である。しかし、その形が大型になり出した。地域的には出雲国の四隅突出型墳丘墓と吉備国の双方中円墳(例として、倉敷市の楯築墳丘墓)である。特に、後者は真ん中の円丘から二つの方形突出部がでており、一方の方形突出部は後世の前方後円墳の前方部に当たり、他方の方形突出部は円丘上に到る通路と思われるものである。前方後円墳では築造方法も異なり、通路部分は要らなくなったものか。そこで、古墳時代の古墳の原型となった古墳はと言えば、

1.吉備国の古墳
2.河内国の古墳
3.出雲国・大和国の古墳
4.九州北部の古墳

などが上げられる。以前に宮崎県西都原古墳群の81号古墳が大和国の纒向型前方後円墳と同時期(3世紀中ごろ)に発祥などとも言われ日本の各地で同時期に自然発生したかとも言われたが、その後訂正されたようである。

1.吉備国の古墳

『「纏向型前方後円墳」の源流は、2世紀末葉の楯築墳丘墓、すなわち岡山県倉敷市の楯築遺跡などにみられる「円丘に3分の1大の明確な方形突出部」をもった墳丘墓であり、円筒埴輪の原型とされる特殊器台・特殊壺の存在とともに、キビ(吉備)の強い影響のもと、3世紀前半、ヤマト王権の王都と目される纒向で成立した』とか『吉備の宮山墳丘墓の「前方後円」形こそが前方後円墳の原型なのだ』とか、その種の発言には事欠かない。多数は「纏向型前方後円墳」にせよ「前方後円墳」にせよその祖型は吉備国にある、と言わんばかりだ。

2.河内国の古墳

旧河内国(和泉国を含む)は縄文時代は人もまばらな過疎地帯と言われ、弥生時代は方形周溝墓が一般的で、古墳時代に入ってから和泉黄金塚古墳や古市古墳群、百舌鳥古墳群が出現した国と解されあまり古墳草創期とは関係がないのではないかとも思われる。しかし、「禁野車塚古墳(きんやくるまづかこふん、大阪府枚方市)では、ヤマト王権発祥の地である奈良盆地南東部に分布する前期古墳の竪穴式石室と同じ材質(大阪府柏原市の芝山産)の石材が出土していることや丘陵を利用せずに平地に盛り土で造られたという特徴が箸墓古墳と共通していることから、これまでにも初期ヤマト王権と関係のある人物が埋葬された可能性が指摘されてきた」とあるように、箸墓古墳と禁野車塚古墳は相似墳とする見解もある。弥生時代から現代まで繁栄してきた地域なのでその分歴史遺産の破壊も多く、何とも結論づけられないところがある。

3.出雲国・大和国の古墳

「記紀」の見解では、古墳築造一族の土師氏の元祖は野見宿禰で出雲国出身という。それまでの大和国の造墳業者であった当麻蹴速(たいまのけはや)を相撲で打ち負かし、蹴速に取って代わったという。真偽のほどは詳らかではないが、出雲と大和の間になにがしかの連携があったのかも知れない。墳形的に言うなら出雲の四隅突出型墳丘墓と大和の円墳の折衷墓が前方後円墳か。

4.九州北部の古墳

日本の弥生時代以降の墓制は中国の厚葬思想のもと、中国→朝鮮半島→九州北部へと伝わり、九州北部より全国に拡散したと言う。特に、古墳は厚葬思想の観念のもとに意識的に計画性を持って築造されたと言う。具体的な纏向型前方後円墳(前方後円形をとる墳丘墓)には以下のものがあるようだ。

椛島山古墳(かばしまやま) 佐賀県武雄市
原口古墳(はらぐち)     福岡県筑紫野市
那珂八幡古墳(なかはちまん) 福岡市博多区
稲葉古墳群(いなば)     福岡県糸島市

★結 論

古墳の発生がいつ・いかなる事情で起きたか、には諸説がある。

1.畿内を中心として国家の成立と大陸の影響とを背景にして急激に発生した。
2.前代の墳丘墓や方形周溝墓を基調として、共同体的な関係から階級支配の萌芽と見る。
3.九州北部の弥生時代の墓との関連を求め、九州北部に古墳の祖型を求める。

上記三説が主なものである。

*古墳築造と社会背景

当然かも知れないが、平時(へいじ)と厚葬思想が結びつくようである。ピラミッド建造も失業対策のための公共事業という説があるように、我が国の古墳時代も邪馬台国と狗奴国の紛争が一段落した頃から始まったのではないか。まず、人口が急増する。日本では謂わば団塊の世代の人々の出現だ。家族が増えれば家も大きくしなければならない。食べ物も増やさなくちゃあならない。衣類も従来以上に確保しなければならない。衣・食・住の増産はもちろんのこと、社会問題を惹起しないよう失業者をださないことも当時の為政者の重要な任務ではなかったか。そこで登場したのが「巨大墳墓の築造」ではなかったか。このほかにも公共事業的なものとして池、堤、溝等の築造などがあっただろうが、土木技術的にはこれらの技術がまとまった「巨大墳墓の築造」が失業対策として叫ばれたのではないか。小型、簡単な墳墓ではたくさんの労働力を吸収できないのでそれなりのものにしたと言うことであろう。

*厚葬思想を吹き付けたのは誰か

厚葬思想はどこからかふつふつとわき出してきたものではない。誰かが当時の邪馬台国の上層部へ働きかけたのである。一般的に墓制思想は中国から朝鮮半島へ、朝鮮半島から九州北部へ上陸したと考えられがちであるが、私見では後世の豊前、筑前、肥前(九州北部)の果たした役割は中継点として内陸国(出雲、吉備、大和など)へ取り次いだだけのことではなかったかと思う。厚葬思想を伝えるには、中国、朝鮮の人なら本国の墓制を理解していなければならず、日本人なら大陸や朝鮮半島へ行って先方の墓制を習い、実際に墳墓を見てこなくてはならない。日本人が先方へ渡って厚葬思想を学ぶのはいろいろな面で大変なことと思う。そこで、当時の日本の上層部へあたらしい墓制を具申したのは中国人や朝鮮半島人と言うことになろうかと思う。具体的には、記紀には蘇那曷叱知(そなかしち)とか都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)とか天日槍(あめのひほこ)とか出てくるが、実働部隊を伴っていたと思われる天日槍が正解ではないか。「日本書紀」垂仁三年春三月 是以近江國鏡村谷陶人 則天日槍之從人也、とある。天日槍には陶工も同行していたのであろう。最古の本格的な前方後円墳と言われる箸墓古墳を築造するには、当時の日本人だけの技術では難しい土木工事や石材工事、運送方法などがあったのではないか。大陸や半島からの人材の確保は必要不可欠のものであったと思う。

*箸墓古墳と相似墳

箸墓古墳と相似形をなす古墳がたくさんあるらしい。一般には、箸墓古墳の被葬者との近縁な関係を説く見解が多いが、おそらくそうではなく古墳築造請負業者の都合でそうなったのではないか。従って、箸墓古墳との相似墳がいくら出てこようともそれは箸墓古墳の被葬者とは関係のないものではないかと思われる。時代が下ればいろいろなタイプの古墳も現れたであろうが、初期の段階ではおそらく一種類しかなかったと思われる。以下、少しばかり箸墓と相似墳と言われるものを列挙してみると、

古墳名        所在地
箸墓古墳     奈良県桜井市
西殿塚古墳   奈良県天理市
中山大塚古墳  奈良県天理市
黒塚古墳     奈良県天理市
元稲荷古墳    京都府向日市
五塚原古墳     京都府向日市
椿井大塚山古墳  京都府木津川市
禁野車塚古墳   大阪府枚方市
西求女塚古墳   兵庫県神戸市
浦間茶臼山古墳 岡山県岡山市
備前車塚古墳   岡山県岡山市
七つグロ1号墳  岡山県岡山市

などが上げられているが、箸墓古墳の被葬者にこんなバラバラに親戚縁者がいては大変だ。あるいは、地域的に見るなら邪馬台国・狗奴国紛争の論功行賞とも見え、西求女塚古墳 兵庫県神戸市(大伴氏)、禁野車塚古墳 大阪府枚方市(物部氏)、椿井大塚山古墳  京都府木津川市(加茂氏か)、元稲荷古墳 京都府向日市、五塚原古墳 京都府向日市(後世の丹波・但馬の豪族か)、中山大塚古墳  奈良県天理市、黒塚古墳  奈良県天理市(和珥氏、阿倍氏か)、西殿塚古墳 奈良県天理市(台与の墓か)などが思い浮かぶ。

以上より判断するなら、
1.畿内を中心として国家の成立と大陸の影響とを背景にして急激に発生した、がより正解に近いが、私見では巨大古墳の出現はひとえに内政の問題、ことに、人口増加に起因するものと考える。

 

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