日本の古代宗教

★はじめに

日本人の民族宗教は縄文時代から現代に至るまでいろいろと変遷してきている。時系列的に述べると、1.縄文教 2.呪術 3.神道 4.仏教と言うことになるのだろうが、1.縄文教は、どのような宗教であったかは土偶や土器などを参考にして推し量るより方法がなく、2.呪術は、未開社会においては王が呪師を兼ね、我が国では邪馬台国の女王卑弥呼が王兼呪師だったという。「魏志倭人伝」の「鬼道を事とし、能く衆を惑わす」に述べるところの鬼道が呪術らしい。ぱっと見では、何やら怪しげな事を行い、人々を煙に巻いている、ようにも感じないではないが、おそらく本意は「呪術をマスターして、人々を誤りなきよう導いている」という意味ではないか。呪術は技能、経験がものを言うらしく、卑弥呼女王が長期政権を保つことができたのもそこいらにあったと思われる。これに対して、次の男王はいい加減な呪師だったらしくそれだけが原因ではなかろうが短命に終わった。3.神道は仏教、道教等の外国の影響を受けていない古神道とその後の神道に分けられる。もっとも、神道と言う言葉も中国の「易経」や「晋書」の中にあり、神道は外国から導入されたと言う見解もあるようだ。古神道以外の神道を言うものか。4.仏教はインド発祥の世界宗教であり、日本発祥の宗教とはなり得ない。ここでは日本発祥の宗教として、縄文教、呪術、古神道を取り上げてみる。

★縄文教

縄文時代の日本の人口は東日本に偏っていたらしく、具体的には当時の日本人は今の日本アルプス(飛騨山脈、木曽山脈、赤石山脈)より東や北に住んでいたようである。推計にもよるであろうが、最盛期の縄文中期(4300年前)には当時の人口の90%が東日本に住んでいたという。理由はいろいろあるであろうが、1.日本人はやはり北方からやって来た2.陸路で南下した人たちは日本アルプス越えに難儀した、等が主張されていた。これに対して、海路を日本海側で南下した人たちは比較的早くに沖縄まで到達したと見られる。元祖日本人が北方からやって来たとするならば、今のサハリン(樺太)や沿海州の人たち(先住民族)の風俗習慣が参考にされるべきだが、少数民族になってしまいよく解らないようである。従って、日本の縄文教は現在の北海道、北東北が発祥の地と考える。当時の縄文人がいろいろな宗教生活を送っていたことは考古遺跡からも垣間見ることができる。それでは、縄文教とはどのような宗教を指すのかと言えば、

1.内容的には、「人間の一生を支える宗教」なのであろう。

当時は争いごとも少なく後世の戦勝祈願とか、国の概念もなかったので鎮護国家とか、何か「カミ」に働きかけて嘆願するなどと言うことはなかったのではないか。「カミ」の存在は薄く、「ヒト」こそが最大の幸福の源ではなかったか。カミに願うとしても現世の御利益だけだったと思う。即ち、家族の無病息災、長生久視、食料(獣肉、魚介類、木の実など)確保などではなかったか。従って、来世のことにはあまり関心がなかったと思う。言うなれば、戦後、米国の「ザ・ブラウンズ」によってヒットした「谷間に三つの鐘が鳴る(The Three Bells)」の主旨である「誕生」「結婚」「永眠」を司る宗教だったのだろう。古神道における多神教的な発想もこの時代にはなかったと思う。

2.土偶を製作し、偶像崇拝だった。

土偶は日本全国で発掘され、縄文教は民族宗教だったことが分かる。大きさもいろいろあり、大は神殿に、中は家庭の祭壇に、小は個人のお守りに使われたという説がある。主な種類としては、1.赤ちゃんの手形足形土偶がある。見解は分かれている。「幼くして亡くなった子どもの手形や足形を土版に写し取り、家屋の中に吊るして亡き子をしのび、親が亡くなった時に墓に一緒に埋められた」とする見解と、「土版についている足形の多くは、1歳前後の立つことが可能な子どものものが多いので、子どもが立てるようになったお祝い、「立ち祝い」のときに作った土製品の可能性があります」とするものである。要するに、手形足形を生前に採取したものか、はたまた、死後に採取したものかと言うことかと思うが、手形に関しては青森県六ヶ所村大石平遺跡(縄文時代後期)の「手形付土版」(青森県立郷土館蔵)の土版の裏側にかすかに残る凹凸は、母親の指の跡と解する見解が多く、「まだ乾いていない粘度板を左の手のひらに載っけて、むずかる赤ちゃんの手を右手で支えながら、そっと押し付ける。そのとき、表には赤ちゃんの手形が、裏にはお母さんの指形が残った」とし、生前に採取したものであろう。いずれも、用途は家庭の祭壇につるして子の御魂として健やかな成長を祈ったものであろうか。日本人は手でものをつかんだり、足で大地を踏むことに「霊力」を感じた民族であり、我が子が最初にものを掴んだり、大地に立ち上がったときは感動以外の何物でもなかっただろう。また、赤ちゃんの土踏まずのところに渦巻き文があるものもある。ほかにいろいろな縄文などがついているものもある。渦巻き文については諸説あり、「太陽即ち魂」と解するのが有力である。東アジアでは日本で発生したという説もある。足の裏に渦状文というのは一般的ではないので、赤ちゃんに神霊を感じたものか。2.土偶は「赤ちゃんの手形足形土偶」などを除き、ほとんどが女性像である。内容としては、裸体と衣服を着たもの、子供を抱いたりおぶったりしたもの、帽子や頭巾をかぶったり髪を結っているもの、妊婦、出産の様子、耳飾り、唇飾りや入れ墨をしたもの等、当時の女性の日常を表現したものが多い。縄文社会は女性が主、男性が従の社会だったのかも知れない。「縄文人が、自分を表現したものではなく、心の中にある「精霊の仮の姿」を表現したもの」などというご高邁なお説を述べる見解もあるがいかがなものか。製作年代が下るにつれて写実的になるのは製作技術が進歩したためと思われる。

3.外部には神殿が、住居内には祭壇があった。但し、遺跡からの推測による一説。

三内丸山遺跡の六本柱の建物は神殿なのか物見櫓なのか灯台なのか、はたまた、ウッドサークルなのかと意見が分かれるところだ。建物自体もはじめは屋根付きとか壁付きなどを想定したようだが、当時の考古学界の重鎮たちに反撃され今の様式に収まったらしい。日本の古代都市にはこの種の高層建物(吉野ヶ里、出雲大社)があってその用途が不明のままである。但し、出雲大社は大国主命の別邸か神社である。そこで、多くの民間人の方は欧米、中東の都市に範をとって、日本にも都市の真ん中に巨大神殿があった、とするものが多い。三内丸山遺跡にはこのほかにも大人の土壙墓近くに掘立柱建物があり、これも神殿か、と言う人がいる。特に、三内丸山遺跡では冬季は雪が降ったと思われ、葬儀等の儀式が夏場に集中してくれればいいが、物事がそんなに都合よく発生するはずもなく、その種の祭殿や葬祭場が必要だったのではないか。また、家庭内祭壇については「炉」と一緒に論ぜられることが多く、炉の入口に段差があったり、炉の周辺から祭祀的な要素が強い石棒、立石、土偶などが発見されることが多いという。縄文教発祥の地と思われる北海道や北東北は寒冷の地で十分な冬季対策がとられたと考えられるので、冬季は室内作業が主だったことは想像に難くない。

以上を見てくると縄文教は現代の日本人の宗教生活とほとんど変わりがないのではないか。

★呪術

呪術が日本で発祥したものかははなはだ疑問である。あるいは、稲作と共に大陸の方から入ってきたものか。様式性の強いものであり、日本語では「まじない」と言い、英語でも「マジック」というので、語幹が同じで言語的にも外来語かとも思われる。発祥地も中近東あたりか。現在では一部の地域を除いて、日本では迷信の類いになっている。歴史の表舞台に立ったのは卑弥呼女王の時で、ここでは卑弥呼女王の正統呪術を論じてみることにする。
呪術にはその構成要素である呪文、儀礼、呪具が必要だ。それらを規定どおりに正確な方法・順序で行わなければならない。いい加減であってはダメなのである。従って、呪術を誤りなく行うには呪術に関する正確な知識と豊富な経験、習練が必要である。当然ながら、そんなことは誰にでも出来るわけではなく専門の呪術師が生じる。ところで、ものごとを規定どおりに寸分違わず正確に行ったり、それを記憶するとか、毎日進んで習練をするなどと言うことは女性に向いていることなのではないか。後世、安倍晴明なる「陰陽道に関して、卓越した知識を持った陰陽師」なる男性陰陽師(呪術師)もでているが“いかさま師“臭い人物だ。卑弥呼女王の場合は呪術師の能力が高いばかりでなく、合理的にものごとを判断するないし処理をする能力に長けていたのではないか。呪術の場合、所定の方法を誤りなく行えば必ず目的が達せられるというのであるから信心深さなどは必要でなく目的が達せられなかったら強請するのであろう。呪術師も因果な職業であると思う。ご託宣どおりにことが運べばいいがそうでなかった場合ぼろくそに言われ、現代流に言うとクビが飛んでしまうかも知れない。人間生活に不安や危惧の心情のある限り呪術もしくは呪術的なものが生き続けている、と宣う人もいるが本当か。卑弥呼女王が国を誤りなく導いたのは呪術の力ではなく、豊富な統治経験と合理的にことを処する能力にあったのではないか。繰り返すが、卑弥呼女王は神がかり(ヒステリー状態のことか)になってご託宣を下し、訳の分からぬ呪文を唱え、呪具を振り回すシャーマンではなかった。そういうことは「記紀」では五伴緒神がになっている。おそらく、これらの神の子孫、中臣、忌部、猿女、作鏡、玉祖の諸氏は当初は呪術師だったのだろう。

★神道

神道は神主が大幣(おおぬさ)を振り、祝詞(のりと)を上げ、あまつさえ「神道」という言葉は中国から来た、などと言われれば、本当に日本発祥の宗教かと疑いたくなるが、一応、現代の神社神道ばかりが日本神道ではなく、日本で自然発生したと思われる「古神道」もあるので、そちらを紐解きたい。
古神道とは外来宗教の影響を受けていない神道で、八世紀前半までの神道を言う、と言うのが定義のようである。その特色は以下のごとくである。
1.神 自然神(自然物、自然現象に宿り、それを支配する神)が主であるが、ほかに、人間神(英雄、偉人、長上などの神格化)、観念神(生成思考、生産力など抽象的な力や観念を司る神)などもあるという。最も重要な神は当時の社会生活の単位である氏族の守り神(氏神)であった。氏神は必ずしも祖先神ではなかったが、時代の下降に伴い氏神を祖神と見る傾向が出てきた。「自然神」は森羅万象に神が宿り(アニミズム)(多神教)、神秘的で恐ろしい存在だった。人々は神々の姿・形を見ることができず、目に見えない神が依り憑く山や川、高い樹木、鏡・玉・剣などを神体として祀った。もし富士山が噴火したら人々が富士山を汚したり削ったりするので富士山の神が激怒するのである。最近、有名になった「便所の神」も糞便のくみ取りをきちんとしたり、便器をきれいに清掃すれば問題はないのだが、それを怠ると猛烈な臭気を発して便所の神は怒るのである。造化三神や天照大神をどのように捉えるかによりけりだが、一般に、全知全能の至高神は存在しないと解されている。偶像崇拝も特に拒否をしていないようだ。
2.神殿 古神道には常設の神殿はなく、祭りのたびに聖地常緑樹(ひもろぎ)または自然石(いわくら)を建てて神の座とした。神殿は祭壇や参列者を風雨から護る臨時の仮小屋を祭りの後まで残したものという。
3.祭祀の内容 農耕儀礼が主体。古神道といえども弥生時代以降のものか。春祭り(祈年祭)、秋祭り(新嘗祭)が重要と言うが、いずれも歴史が下ってから制定された祭りで古神道時代の祭りの内容は不明。
4.神意判断 古神道のなかに呪術的な要素もあったようで、判断の方法としては 1.種々の卜占 2.請(うけい) 3.神がかりなど。盟神探湯(くがたち)は裁判とされた。
5.世界観 二種類があり、1.垂直的に高天原(天上の神の世界)、中つ国(現世)、黄泉(よみ・地下の死者の国)が存在するとする満蒙・東北シベリア型、2.水平的に現世の彼方に常世(とこよ・海上遙かな遠い国)があるという東南アジア型。当然ながら日本の主たる世界観は1.満蒙・東北シベリア型でアイヌ人の世界観も同様な観念を採用しているようである。

★結論

以上、どう見ても日本人の宗教観は一万年近くも続いた縄文教が一番近く、古い割には合理的ですらある。これぞまさしく日本発祥の宗教であり、現代の日本人のフィーリングにもマッチしたものではないか。現在の神社神道はその祭神によって色分けされているが、これも比較的あたらしいものではないのか。また、神社名と祭神がミスマッチの神社も多いらしい。神道に関する書物を読んでいても「元々祭神は不明」などという文言がでてくる。祭神を祀るのは大和朝廷の神道であって、庶民の神社は産土神とか国魂神とか、はたまた、神社を創建した人の祖先だったりではないのか。大和朝廷の日本国統一と共に従来のその地域地域にある固有の宗教から祭神を祀る宗教になっていったようである。崇神天皇の「民を導く本は教化にある」はそのことを著すか。

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