語部は真実を伝えているのか

★はじめに

語部(かたりべ)と言っても、国家の制度ないし組織としての語部とそれ以外の語部がある。「古語拾遺」によると「上古の世は文字が無く、貴賎老少問わず口から口へ伝えていた(上古之世 未有文字 貴賤老少 口口相傳)」と言い、みんなが語部であったようだ。ここで述べたいのは官職になる前の語部なのであるが、国家の語部といえども各地域の語部(口誦集団)が収斂されて国家機関になったものと思われる。また、多くの方々は稗田阿礼をはじめとする語部を連想されると思われるので、国や地方の語部を少しばかり述べてみることにする。

★発祥

上古においてはみんなが口承を持っていたのであるが、地域の集団生活や農耕作業(特に、共同作業)などの社会性が強い事柄は内容がまちまちになってはまずいので、専門家が現れて語部の民として詞章・民謡などとして伝えて行ったものと思われる。それを、大和政権が語部として部の制度に組み込みはじめると、それまでの主として生活や職業、地域、儀礼等にまつわる古伝承から政治的色彩の強いものになった。即ち、語部が文献に現れだすのは、
702年(大宝二年)御野国味蜂郡春部里の戸籍に「語部」
720年(養老四年)「日本書紀」天武天皇12年9月条に「語造(かたりのみやつこ)」が連のカバネを賜る。
733年(天平五年)「出雲国風土記」意宇郡安来郷に「語臣猪麻呂」
739年(天平十一年)「出雲国大税賑給歴名帳」に「語部君」「語君」「語部首」
797年(延暦16年)「続日本紀」養老三年(719)十一月の条に「小初位上朝妻の手人竜麻呂」に海語連(あまかたりのむらじ、天語連(新撰姓氏録)とも)の名とカバネを賜った。
以上が文献に現れる初期の段階での「語部」の語である。なお、「古事記」<712年(和銅5年)>に出てくる稗田阿礼は語部かどうかは同書の内容からははっきりしない。
一応、西暦の700年頃から公文書にも出てくるようで、国家の制度となったのはそれ以前の「大化の改新」の頃からか。一般には、天皇権力が強力となり、天皇が神格化する天武天皇の頃と解されているようである。天武天皇は庶民の習俗、慣習、芸能、祭祀等を宮廷儀礼として積極的に取り入れたようだ。裏を返せば、当時の大和朝廷は中国の文物を完全に咀嚼できず、かと言って、自分たちにも確たるものはなかったようだ。
また、天武天皇は特異な天皇で、1.「日本書紀・天武天皇即位前紀」に「能天文遁甲(天文遁甲に能し)」、2.「同、天武元年六月」に『則舉燭親秉式占曰「天下兩分之祥也。然朕遂得天下歟」(則ち、燭(ひ)を挙(ささ)げて親(みづか)ら式(ちく)をとりて占いて曰く「天下両(ふた)つに分かれん祥(さが)なり。然れども、朕、遂に天下を得んか」と』ここに言う「式(ちく)」は現今の「筮竹」のことか。3.「同、四年正月」に「始興占星臺(始めて占星台を興す)」。以上、1.2.3.はいずれも現代の占いにまつわることである。現代でも占いや宗教に凝る人はいるが、天武天皇もご多分に漏れず宗教では「同、天武二年四月」に「欲遣侍大來皇女于天照太神宮」とか「同、天武二年十二月」に「以小紫美濃王・小錦下紀臣訶多麻呂、拜造高市大寺司。今大官大寺、是」とあり、現在で言えば神道にも仏教にも目配りをしている。占いや宗教に頼る政治って何なのだろう。こんなのに頼って願望が達成するものなのだろうか。
4.「同、天武四年二月」に『勅大倭・河內・攝津・山背・播磨・淡路・丹波・但馬・近江・若狹・伊勢・美濃・尾張等國曰、選所部百姓之能歌男女及侏儒伎人而貢上(大倭・河內・攝津・山背・播磨・淡路・丹波・但馬・近江・若狹・伊勢・美濃・尾張等國に勅して曰く、「所部の百姓の能く歌う男女及び侏儒(道化師のことか)・伎人(役者のことか)を選びて貢上れ」と)』4.は一般には地方民衆の芸能が国家によって宮廷に取り入れられた、と解している(雅楽寮の歌人・歌女の始まりか)が、私見を言うと何やら今時の大戦で某国の独裁者が演説の前にワーグナーの勇壮な音楽をかけて聴衆の精神的高揚をはかった、その様に似ているのではないか。天武天皇は芸能といえども自己の政治的飛躍に利用したのではないか。
語部の組織としては、中央には、語造連と海語連がいて、地方に、「語臣」「語部君」「語君」「語直」「語部首」などと称する伴造がいて語部を統率していたようである。「海語連」とは、漁民集団の「贄(にえ)」の貢進にまつわる服属の古詞を奏するものが海語部で、その伴造が海語連である。
肝心の語部の職務内容であるが、飛鳥・奈良時代のものは不明と言うほかない。時代が下って平安時代になると「延喜式」に文章化されており、天皇の即位儀礼としての践祚大嘗祭に当たり古詞を奏していたらしい。それによると、
7巻:27条
凡物部。門部。語部者。左右衞門府九月上旬申官。預令量程參集。物部左右京各廿人。門部左右京各二人。大和國八人。山城三人。伊勢二人。紀伊一人。語部美濃八人。丹波二人。丹後二人。但馬七人。因幡三人。出雲四人。淡路二人。
7巻:30条
伴、佐伯氏各二人開大嘗宮南門。衞門府開朝堂院南門。宮内官人引吉野國栖十二人。楢笛工十二人。〈並青摺布衫。〉入自朝堂院東掖門。就位奏古風。悠紀國司引歌人入自同門。就位奏國風。伴宿禰一人。佐伯宿禰一人。各引語部十五人。〈著青摺衫。〉入自東西掖門。就位奏古詞。
7巻:27条は、語部は左右衞門府が九月上旬に官に申しで、予め定められた人数を適当な時期に集めること。人数は、美濃八人。丹波二人。丹後二人。但馬七人。因幡三人。出雲四人。淡路二人、である。定期的に練習をするためというのが有力説。
7巻:30条は、宮内官人が吉野國栖十二人と楢笛工(楢笛奏者)十二人を引率し、朝堂院東掖門より入る。就位(の式典・就位を“位置(席)について“と解する人もいるようである)で古風(國栖奏)を奏する。悠紀國の国司が歌人を引率し同じ門より入る。就位(の式典)で國風(國の風俗歌)を歌う。伴宿禰一人、佐伯宿禰一人が各々語部十五人(上記の選抜二十八人に語造連と海語連を加えたものか)を引率する。東西掖門より入る。就位(の式典)で古詞を奏する。
露払いと言おうか前座と言おうか、その種の人が、「古風を奏す」とか「國風を奏す」とかあり、これを芸能と解する向きが多く、語部の「古詞を奏す」も似たり寄ったりの通俗な芸能と解する向きが多い。おそらく、文字の記録が標準的なものになってからは本来の語部の職務とはかなりかけ離れたものになっていたのではないか。また、上記選抜人数のなかで美濃八人、但馬七人とあるのはこれらの地域で文字の普及が遅れたと言うことか。儀式の余興としても舞や楽器、美声を発する古風や國風に人気が集まったのであろう。
語部の分布領域は1.語部選抜国として、美濃・丹波・丹後・但馬・因幡・出雲・淡路七カ国があり、歌手貢上要請国として、大倭・河內・攝津・山背・播磨・淡路・丹波・但馬・近江・若狹・伊勢・美濃・尾張等十三カ国あまりがある。これだけ見ると、語部は大和を中心としてその外周国(東は美濃、尾張。西は出雲、播磨、淡路)にしかいないような感じがしないでもないが、語部は全国的にいたと思われ、大和と紛争が絶えない吉備や日本国(当時既に日本を国号にしていたか)建国草創期には活躍した関東や九州は天武天皇の意に沿わない、あるいは、単に遠方で辺鄙の故を持って割愛されたものか。私見では、語部は丹波・丹後・但馬・因幡・出雲(選抜国)や丹波・但馬・近江・若狹(歌手貢上国)とあるところを見ると主として日本海側で発達した部(制度)ではないのか。記紀ことに「古事記」に出雲神話が多いのもそのためではないか。大和に語部を導入したのも出雲からやって来た人たちではなかったか。

★語部は真実を伝えているのか

筑紫申真と言う國學院大學OBの先生が書かれた「アマテラスの誕生」(講談社学術文庫)という書籍では、語部の言っていることなどはケチョンケチョンにけなされている。その文章を少しばかり引用すると、

・「古事記」や「日本書紀」の内容は、その時代が古くさかのぼればさかのぼるほど虚構となっていって、崇神天皇以前の記事や神代の話がもっとも完璧な虚構であるのはそのためです。神代の古い時代の話になればなるほど、その説明がつくりだされた時期があたらしい、といわれるのは、話がつけ加えに加えられてゆくので、そうならざるをえないのです。

・「古事記」や「日本書紀」の物語はカミがたりですから、その内容は語部の人たちによって自由に変形されたり、つけ加えられたりします。

・たとえばきのうのできごとでも、それが太古のできごとのひきつづきのように意識したり、

書き上げれば切りがないので以上にとどめるが、筑紫先生の言わんとすることは、ざっくばらんに言うと「語部は古伝を正確に伝えているのではない。頭が悪いので正確に覚えきれず、自分が勝手に創作をしたり、話が抜け落ちたりする。創作や脱落の基準は天皇で、天皇家の高まりゆく権威を背景にして、地上の万物が天皇に対して服従する物語となり、重ねに重ねて天皇家の権威を強調する」と言うことらしい。まったくもって、記紀に書かれている天武天皇好みとしか言いようがないが、今で言えば公務員の語部なのでこうなるのもやむを得ないと思われる。語部の伝えることがそれまでの地域や生活関係の古伝承から大和朝廷の管理下に入って天皇の語部となったため、天皇賛美に変わってしまったのである。その後は、文字の普及とともに「語部」の存在は薄いものになり、芸能の世界へ転落してしまった。筑紫先生のご見解によれば語部には女性(巫女)が多いらしい。男性の語部と女性の語部の違いはどのようなものだったのであろうか。地域社会の語部だったときは真実を伝え、天皇の語部になって虚構が多くなり、芸能人になって本来の職務から解放されたと言うことか。

 

 

 

広告
カテゴリー: 歴史 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中