日本の古代馬

★はじめに

日本では縄文時代や弥生時代に馬がいたのか、いなかったのか、と意見が分かれているようで、いずれの意見もお説ごもっともというところがあるようだ。勝手に引用していいのかどうか分からないが、『日本獣医師会雑誌』第64巻 第6号 平成23年6月20日発行419頁-426頁に小佐々学(日本獣医史学会理事長)という先生の「日本在来馬と西洋馬 ―獣医療の進展と日欧獣医学交流史―」と題したPDFファイルがある。それによると、

・馬は哺乳類奇蹄目ウマ科の動物で、旧石器時代の人類にとって重要な狩猟動物であった。
・馬の家畜化は後期新石器時代とされ、伴侶動物としての歴史はおよそ6000年前までさかのぼる。
南ウクライナ地方出土の後期新石器時代の馬の歯に、ハミ(轡<くつわ>の一部)跡が残っていることから、馬の家畜化の歴史はおよそ6000年前までさかのぼるとされている。
・家畜化された野生馬の系統には諸説があるが、この中で乗用馬として重要なのは草原馬と高原馬である。

草原馬は、中央アジアから蒙古まで広く分布していたが、その野生種は蒙古野馬(プルゼワルスキー馬)としてわずかに現存する。体高(足元から背中前方の甲までの高さ)は約130cm で、中央アジアから蒙古一帯の中型馬の元になった。
高原馬(タルパン馬)は、東ヨーロッパ、コーカサスからアラビア半島まで分布していた。その野生種は19世紀末にウクライナ地方で絶滅したが、体高は約150cm で、俊足な大型馬であるアラビア馬やペルシャ馬の元になった。

・裸馬をそのまま乗りこなすのは難しいため、実用的な轡や手綱が発明されるまで、騎乗の普及は馬車よりも遅かった。
・馬車の使用は紀元前2000 年頃で、トルコを中心とする小アジアのヒッタイト人が馬を戦車(戦闘馬車)にして、周辺地域を征服してヒッタイト帝国をつくり上げた。紀元前1700年代に古代オリエントにアッシリア帝国を築いたアッシリア人は、轡も手綱もつけた馬に乗る史上初の騎兵隊を持っていた。その後は、オリエントや小アジアでは馬戦車から騎兵に代わっており、紀元前1000年頃にはアジア内陸の騎馬民族が周辺の農耕民族を侵略していた。
・ギリシャには紀元前2千年頃に馬が入り、その後は戦闘馬車が使われており、紀元前1300年頃には馬に騎乗していたという。ギリシャ帝国を築いた紀元前四世紀のアレキサンダー大王の遠征では騎兵が活躍しており、大王の愛馬ブケファルスは現代のアラブ種と同じくらい立派な体格だったという。
・中国でも古くから中型馬の蒙古馬が飼育されていたと考えられ、殷代出土の馬骨や馬具から高度な馬文化の存在が知られている。
漢の武帝は匈奴に対抗するため、西域に駿馬を求めて兵を中央アジアのフェルナガ(トルキスタン)へ遠征させて「天馬の道」を拓いており、いわゆる天馬・千里馬・汗血馬とよばれる良血のタルパン系高原馬が直接導入されるようになった。
・古代朝鮮には現在の済州島馬のような小型馬がいたが、その後に中国や匈奴の中型馬が移入されたという。
・日本でも新石器時代の遺跡から馬骨や歯の化石が出土しているが、これらの野生馬はその後絶滅したと推定されている。馬の骨や歯の出土遺跡を全国的に調査した報告によれば、時代的には古墳時代から中世が多く、地域的には関東で多く出土していた。また、古墳時代中期には馬具が出土しはじめ、さらに馬鐸などで飾った埴輪馬が関東で多く出土している。
・縄文晩期や弥生時代の遺跡から馬骨や歯が出土したことから、わが国への渡来はこの頃からといわれていたが、現代の年代測定法では、後代の骨が混入したものとされている。
・日本在来馬の起源については、東北アジア由来の中型馬と東南アジア由来の小型馬という大きさによる分類法である「二派渡来説」が提唱されてきた。一方,最近の年代測定法やDNA系統解析などの研究結果から、日本在来馬は4、5世紀の古墳時代に朝鮮半島から渡来して、人の交流によって各地に広がったと考えるのが妥当とされ、定説になってきている。有名な『魏志』の倭人伝には「其地無牛馬虎豹羊鵲」とあるように、日本には馬がいないと記述されているが、最近の研究は『魏志』の記載を裏付けるものになってきている。
・現在保存されている在来馬は8種である。体高により、中型馬(約130cm)は北海道和種(北海道)、木曽馬(木曽地方)と御崎馬(宮崎県都井岬)の3種で、小型馬(約115cm)は野間馬(愛媛県今治市)、トカラ馬(鹿児島県トカラ列島)、宮古馬(沖縄県宮古島)と与那国馬(沖縄県与那国島)の4種であり、このほかに中間型の対州馬(長崎県対馬)がある。現在では全てポニーに分類される。
・日本在来馬はその体型から山道や坂道での歩行に適しており、特に山国であった甲斐では乗用馬や荷駄馬が重視されて軍用に多用された。
・わが国では牛車は使われていたが、馬車を使う習慣はなく、幕末期に横浜居留地の外国人や公使館員によって初めて馬車が使用されるようになった。

以上、日本在来馬の起源にまつわる部分を抜き書きしてみたが、科学的判定とは言え一般人から見ておかしいと思われるようなことがあるので「素人が何を言う」と批難されるかも知れないが、少しばかり私見を述べてみる。

★上記通説的見解と私見

・馬は旧石器時代の人類にとって重要な狩猟動物であった、とあるが、日本では旧石器時代には馬はいなかったらしく、以下の見解が古い部類に属する。

林田重幸 山内忠平 鹿兒島大學農學部學術報告 4, 70-77, 1955-11-30
出水貝塚を発掘し次の所見をえた。1.出水貝塚は縄文早期及び中期から、後期の中葉に及ぶ遺跡であるが、馬遺物は後期に出土する。2.馬は矮小であつて、トカラ馬と大さ殆んど等しく、体高110cm前後と考えられる。今回の発掘による遺物は少なくとも3頭以上のものである。3.馬の遺物の出土少なく、人為的破砕もなく、老令である点から、縄文後期の時代、貝塚人によつて大切に飼育せられたものと考える。

要するに、縄文人にとっては馬は狩猟対象動物ではなく、当然ながら食用に供する肉でもなかった。では、どのように利用されていたのかと言えば、上記にあるように「日本在来馬はその体型から山道や坂道での歩行に適しており」おそらく荷物の運送に使役されていたのではないか。即ち、三内丸山商人が「海の舟」で交易したのに対し、出水商人は「陸の舟」換言すれば馬で交易をしていたのではないか。三内丸山商人が知識とか技術、ノウハウなどや実物の商品でも軽く、かさばらず、値が張るもの(現代でいうと宝石の類か)を重点的に商いしたのに対し、出水商人は家庭で使う民生用品(土器の食器や石包丁、石皿、食料、薬など)を持ち歩いていた内陸商人だったのではないか。「わが国では牛車は使われていたが、馬車を使う習慣はなく」とあるが、人が乗る乗り物のことを言ったものであろう。また、「貝塚人によつて大切に飼育せられた」と言っているが、観賞用に買われていたわけではなく、現代流に言うと地方中小都市の万屋(よろずや)の主人が大枚何百万円かをはたいて買ったトラックを耐用年数を過ぎても大切に使っていたと言うことであろう。馬の数自体が少ないのであるから、馬を持つなんて言うのは相当な豪商だったのだろう。
但し、西本豊弘(国立歴史民俗博物館研究部教授)説によると、(以下、要約)
縄文時代の貝塚を丁寧に調査すると、攪乱された貝塚にウマの骨が入っている場合が多い。江戸時代の陶磁器や現代のガラスの破片とウマの骨が出土することもある。筆者はこれまでに50ヶ所以上の縄文時代の遺跡を主体的に発掘しているが、縄文時代のウマが出土したことは一例もない。
旧石器時代のウマとしては岩手県花泉町金森遺跡が知られているが、この資料も大きさから見て新しい時代のものと判断している。
朝鮮半島の考古学情報から見ると弥生時代には日本列島に家畜ウマが持ち込まれていた可能性が高いが、弥生時代のウマの確実な例は発見されていない。

私見を言わせてもらえば、遺跡というものは一般的に縄文、弥生、古墳などの遺跡が重畳的に重なってあるものではないのか。縄文遺跡50ヶ所の内何カ所でウマの骨がでて一足跳びに江戸時代や現代の遺物と混在していたかは分からないが、その場合でもウマの骨が縄文時代のものであるか、江戸時代あるいは現代のものであるかを鑑定する必要はあるかと思う。
同じような結論は「古人類・考古資料の年代学的諸問題に関する骨の加速器14C年代測定(Ⅰ)」(松浦秀治ほか)でも述べられており、「分析資料として、9遺跡の縄文貝塚から出土したウマ骨14点を入手した。それらは、関東地方の大崎貝塚、木戸作遺跡、余山貝塚、武田貝塚、常行院裏貝塚、荒屋散貝塚、築地台貝塚、および九州地方の出水貝塚と黒橋貝塚から出土した資料である。このうち、余山貝塚と出水貝塚のウマは縄文時代の最も確実な証拠として常に引用され、「縄文馬」代表例となっているものである。・・・比較資料として縄文貝塚出土のイノシシ、シカなどの動物骨計数十点についてフッ素分析を行い、さらに余山貝塚、出水貝塚、武田貝塚、常行院毒見塚、荒屋敷貝塚のウマ5点については14C年代測定を行った。縄文貝塚9遺跡出土のウマ14点の全てが、縄文時代のものではないと判断され、後世において貝塚内へ混入したものであることが強く示唆されている。5点のウマ骨資料の14C年代は, 中世あるいは近世の範囲であった」
これではすべての縄文遺跡にあるウマ遺物は後世(5点は中世以降と言う)の遺物となるようである。離れた場所にある貝塚においてウマ遺物だけが後世のものとは一般的には奇跡に近いものだ。まったくもって考えづらい。

・家畜化された野生馬の系統には諸説があるが、この中で乗用馬として重要なのは草原馬と高原馬である、とあり、この説では馬の起源は「草原馬(蒙古馬)」と「高原馬(タルパン馬)」の二種類のみである。前者は中央アジアから蒙古一帯の中型馬の元であり、後者は東ヨーロッパ、コーカサスからアラビア半島まで分布していた大型馬の元である。日本在来馬は4、5世紀の古墳時代に朝鮮半島から渡来して、人の交流によって各地に広がったと言うのが定説の由だが、
現在残っている在来馬、トカラ馬(鹿児島県トカラ列島)、宮古馬(沖縄県宮古島)と与那国馬(沖縄県与那国島)はほとんどが小島に生息しており、馬を必要とするところとは思われない。しかも、みんな小型馬の範疇に入るものである。「最近の年代測定法やDNA系統解析などの研究結果から」と言っているが、中型馬(北海道和種、木曽馬、御崎馬)とは系統が違うのではないか。いつ頃分かれたのか。サラブレッドだってさかのぼれる先祖は三頭と言っても、その後の枝分かれ分類にはかなりのものがある。日本在来馬は4、5世紀の古墳時代に朝鮮半島からの渡来馬などというのはサラブレッドの祖先は高原馬(タルパン馬)と言っているようなものではないのか。東北アジア由来の中型馬と東南アジア由来の小型馬という大きさによる分類法である「二派渡来説」の方がまだ増しではないのか。日本の馬はみんな東南アジア由来の南方種という見解もある。上記抜き書きでは朝鮮半島の馬についてはあまり触れられていない。

・馬の骨や歯の出土遺跡を全国的に調査した報告によれば、時代的には古墳時代から中世が多く、地域的には関東で多く出土していた。また、古墳時代中期には馬具が出土しはじめ、さらに馬鐸などで飾った埴輪馬が関東で多く出土している。

牛馬が古墳時代から急に多くなるのはやはり朝鮮半島からの古墳築造者(古墳人と仮称)が道具立てとして牛馬を持参したのではないか。大林組の「古墳の体積から必要労働力を推定した研究」の大仙陵古墳について「牛馬は使用しない」とあるが、大林組の推測である。但し、当時の牛馬は小型で十分役に立ったかどうかは疑問である。日本の馬は騎馬民族征服王朝説などから騎馬用と考えられがちであるが、おそらく使役用が本来の姿だったのではないか。何せ現今の新聞見出しにも「1300年前の馬も過労だった!?」とあるくらいだ。即ち、物品の運搬や牽引などに多く使われたと思う。上記では馬の骨や歯、馬具などが関東で多く出土しているとされているが、「牧」などは古墳時代でも畿内にもあったようだ。四條畷、寝屋川、枚方、大東、神戸市東灘区など。しかし、馬の需要があると思われるのは畿内なのに関東はいかにも遠すぎる。また、青森県と岩手県の県境のいわゆる南部地方には一戸、二戸、三戸など戸(へ)のついた地名がある。戸(へ)は塀(へい)と語源を同じくすると思われるが、一説によるとこの場合の戸(へ)は牧を意味するという。源頼朝が南部氏を南部地方の地頭に任じたのも馬の管理が目的だったという説もある。これほど関東や東北に馬がいるとなると馬の流入経路にも南西諸島、朝鮮半島のほかに北方ルートがあったのかも知れない。何分にも馬の家畜化が6000年前とすると我が国では縄文時代前期頃かとも思われ、馬がウクライナから日本まで届くには2000年かかった(勝手な憶測)として日本到着は4000年前頃で、縄文時代後期の始まり頃かとも思う。丁度、三内丸山遺跡の時代頃だが、三内丸山には馬はいなかったようだ。また、北海道にも馬のいた痕跡はないようだ。ルートとしては下北半島、三陸海岸、鹿島灘、関東平野、あるいは、その内陸部が考えられるが、何分にも北海道に縄文弥生の時代に馬がいないのでは話にならない。北海道、東北の縄文弥生における馬の遺物発見待ちと言うところか。(注)あるいは「馬車の使用は紀元前2000年頃で、トルコを中心とする小アジアのヒッタイト人が馬を戦車(戦闘馬車)にして」とか「ギリシャには紀元前2千年頃に馬が入り、その後は戦闘馬車が使われており」とか言っているので、高原馬(タルパン馬)の家畜化後ウクライナの近隣諸国に到達するのに2000年くらいかかっているので蒙古馬が日本に入ってきたのは時間がかかって縄文時代晩期か。

★結 論

馬が日本に現れたのは縄文時代晩期あたりか。古墳時代に馬の骨・歯などの遺物が多くなるのは古墳人が招来したからか。牛馬ともに現在よりは小型なので使役用として使用されたものはかなり酷使されたようだ。また、有力豪族などは愛玩動物として飼っていたか。去勢などの飼育方法が採用されなかったのは、日本は災害が多く財産を失う機会が多いので再生産(繁殖)に備えるためだったか。欽明天皇が百済に軍事援助として馬百匹送ると言った(実行されたかどうかは不明)のは庶民は格別、天皇クラスの人は馬にあまり価値を見いだしていなかったように思われる。

(注)馬の語源に「大間」を説く見解があり、通説とも言うべき「馬マの漢語音」ではない、と言う。ウは大いにの義、マは時間、空間を指すという。馬は俊足で時間と距離的な空間を共に大巾に短縮することからと言う(藤堂明保・清水秀晃「日本語語源辞典ー日本語の誕生」)大間という地名は青森県下北郡大間町と北海道函館市大澗があり、大間(オオマ)の語源ははっきりしないがアイヌ語あたりで「港」を意味するようだ。今も青森県の大間の人は函館へ買い物や通院に出かけるそうな。古代の津軽海峡は今よりも狭かった時代があっただろうから函館の大澗(現在の函館市街ではなく恵山の方。但し、昭和8年からの地名といい、元は尻岸内<シリキシナイorシリケシナイ>と言ったという。大澗は尻岸内の日本語訳か。諸本も大澗の語源や由来を明らかにするものはない)から下北の大間へ大間(馬)を移動したのではないか。なお、発音的にはoomaがオーマ→ウーマ→ウマとなったものか。なお、ウマの語源は私見では「駒」(こま、子馬)とあるので、子馬に対する大馬(おほま)と推測する。ウマの「ウ」=大はインドネシア語起源説もあるようだが、〈大(おほ)〉もどのように発音されたか分からないので(oφo説が有力)何とも言えないが、<oφo>なら中のφが欠落してooとなり、「ウ」と発音されたか。「ウ」=大は外来語ではないと言うこと。

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