蘇我氏とは何者か

★はじめに

先日、大学の講師という肩書きの先生の新書本を見ていたら、「(蘇我)稲目といういわば氏素性の知れない男・・・」という件(くだり)があった。宜なるかなで、蘇我稲目は「日本書紀巻第十八」宣化天皇 元年二月壬申朔 以大伴金村大連爲大連 物部麁鹿火大連爲大連 並如故 又以蘇我稻目宿禰爲大臣 阿倍大麻呂臣爲大夫、と唐突に出現した人物で、そのような感想をいだくのも当然と言えば当然である。その前の「日本書紀」における蘇我氏の記事というと、
巻第十二 履中天皇 二年冬十月、都於磐余。當是時、平群木菟宿禰・蘇賀滿智宿禰・物部伊莒弗大連・圓〈此云豆夫羅〉大使主、共執國事、と稲目の曾祖父満智が出てくるくらいなものである。実質、稲目の時に台頭した氏族と言っていいかとも思う。ところで、各家庭の家系図と言うものは、二、三代前までははっきりしていても、それより前の代となるとあやふやなのが一般的ではないか。例えば、江戸時代初期に脇坂家(播磨国龍野五万一千石)と言う大名家があったが、幕府から「寛永諸家系図伝」編纂の資料を求められ、当主脇坂安元は「我が家は祖父の代からしか分からない」と言い、祖父安明から稿を起こし、祖父(安明)、父(安治)、本人(安元)の三名を記載して提出したと言う話もある。ほかの大名家は多かれ少なかれ不実な申し立てをしたのであろう。それらを考え合わせるなら、蘇我稲目が大臣に抜擢されたとは言え、その先祖のことはせいぜい父、祖父、曾祖父くらいしか分からなかったのではないか。そこで、蘇我氏の系譜について考えてみる。

★蘇我氏の系譜

そもそも蘇我氏とはいかなる由緒来歴のある一族だったのだろうか。蘇我稲目より前の代は不明とすると、蘇我氏は宣化天皇の代に出現した人物であり、継体天皇、安閑天皇、宣化天皇は北陸(越前国という。一説に近江国とも)からやって来た人で、血統上のつながりはともかく従来の大王がおおむね大和国出身なのに対しそうではない。継体天皇は越前国の大豪族(越前開闢の御祖神といい、各種産業を興したという)だったと言うからそれなりの家臣(日本書紀では陪臣となっている。蘇我氏は後世に言うご家老様か)もいただろうし、継体天皇が大和国に入る際も一定の忠臣を従えていたものであろう。蘇我氏はその中にあって序列筆頭の臣下だったかも知れないが、旧来の大和国在住の重臣を押しのけて国政に参画すると言うことは考えられなかったのではないか。継体天皇にしても大伴金村以下旧政権の大連・大臣は「大王(おおきみ)見習」程度に考え、執政は大連・大臣が行うと考えていたのではないか。そこが、言葉は悪いが「ぽっと出の田舎者」には通じなかったらしく「俺が大王だ、俺が大王だ」と何も分からないのに自己顕示欲ばかりが強く、旧執政官と新大王が対立したのではないか。その後の、大伴や物部の追い落としや蘇我氏の台頭を考えると両者(旧執政官と新大王)の確執は根深いものがあったのではないか。そんな中にあって蘇我氏はどのような位置を占めていたのだろうか。無論、家臣に過ぎないものが国家の大連や大臣にはなれなかったであろう。おそらく、蘇我満智は応神天皇この方の半島経営のために越前国から派遣された兵員ではなかったか。その時、すくなからずの技術なり知識を身につけたものと思う。蘇我氏が百済系というのも単に異国文化に触れた開明的な一族と言うことだったのではないか。満智の息子「韓子」や孫「高麗」は朝鮮半島滞在時の所生か。この程度だったら、蘇我氏の系図もはっきりとしているのではないか。即ち、祖父(満智)、父(高麗)、子(稲目)で、韓子は高麗の説明としてあったものを誤記したのだろう。因みに、「日本書紀卷第十七 継体天皇廿四年秋九には「〈大日本人 娶蕃女所生 爲韓子也〉」と註記がある。
以上をまとめるなら、蘇我氏(特に、稲目)は男大迹王(をほどのおおきみ)とともに越前国からやって来て葛城県蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町)に官舎を与えられ、雌伏して時の至るのを待ったのではないか。従って、蘇我満智が履中天皇二年に執政官として出てくるのは早すぎると思う。また、「古語拾遺」にある、雄略天皇代、満智が三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を管理したという(三蔵検校)のもいかがなものか。古代の人は何としても蘇我満智を蘇我氏の祖にしたかったものか。満智というのも当時としてはハイカラな名前だったのだろう。

★新大王家と執政官の関係

新大王家は臣下のものと齟齬を来すことがあったようで、以下、「日本書紀・継体天皇」から抜粋すると、

「元年春正月 然天皇 意裏尚疑 久而不就 適知河内馬飼首荒籠 密奉遣使 具述大臣大連等所以奉迎本意 留二日三夜 遂發」とあり、念には念を入れてかも知れないが、継体天皇には疑り深いところがあったか。

「六年夏四月 依表賜任那四縣 大兄皇子(後の安閑天皇) 前有縁事 不關賜國 晩知宣勅 驚悔欲改」とあり、任那四県割譲は皇太子である後の安閑天皇の与り知らぬことであった。大伴金村の根回しの不足だったのだろうか。「日本書紀」は大伴金村と現地責任者穂積臣押山が百済から賄賂をもらったという。しかし、その後、七年冬十一月に「以己汶 帶沙 賜百濟國」とか「伴跛國 遣戢支獻珍寶 乞己汶之地 而終不賜」とかあって領土問題に関しては一貫した政策は採られていないようである。己汶(こもん)を伴跛國(はへのくに)に賜らなかったのは既に百済国に賜ったからか。領土割譲の話は後にも何度か出てくる。

「二十一年秋八月 長門以東朕制之 筑紫以西汝制之」と言って、継体天皇と物部麁鹿火が倭国を分割統治をするようなことを言っている。但し、この文章の前の方では物部麁鹿火が大伴氏の先祖を賛美するようなことを言っていて文意が乱れている。

「(安閑天皇即位前紀)廿五年春二月辛丑朔丁未 男大迹天皇 立大兄爲天皇 即日 男大迹天皇崩。また、継体紀最後部では「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」とあり、一説に、天皇及び太子と皇子が同時に亡くなったとし、政変で継体天皇以下が殺害された可能性(辛亥の変説)があるという。それでは殺害したものは誰かというと、それによって一番利益を得るものと言うことになり、欽明天皇と蘇我稲目か。欽明天皇にすれば継体、安閑、宣化のお三方がいなくなれば大王の地位は自分に回ってくると考えるであろうし、蘇我稲目は大臣の地位が自分に転がり込んでくるかと思われる。大臣の巨勢男人は既になく(継体二十三年九月没)その可能性は大だ。もっとも、巨勢男人は雀部男人の誤記とする見解もある。ともかく、継体天皇晩年には大臣はいなかったらしく、猟官運動が熾烈を極めたか。しかし、継体天皇の在位二十四年はともかく、安閑天皇在位四年、宣化天皇在位三年と両天皇の在位期間が極端に少なく百済に情報が届くのに七年ほどかかったか。それでみんな一緒に亡くなったものとされたか。また、当時の四年とか三年が現在のどの程度に相当するものか計り知れない。

★結 論

以上を見るなら、新大王家は「駒不足」「経験不足」が顕著で、継体二十一年の近江毛野に兵六万を付けて任那の失地回復をはかろうとしたが、果たせなかった。近江毛野は継体天皇に近い人物であったのではないか。結局、物部麁鹿火が事態収束をはかったのであるが、継体天皇はこともあろうにその時物部麁鹿火との分割統治まで言い出している。宣化天皇即位元年の蘇我稲目の大臣任命も抜擢と言えば聞こえはいいが、新大王一族が導入した猟官制(情実任用制、スポイルズ・システム)のたまもので、それまでの家柄制とでも言うべきものを反故にしたようだ。そこを上手に立ち回ったのが蘇我稲目だったが、所詮新大王家も蘇我氏もよそ者だった。大和国に強固な地盤のなかった蘇我氏は、実質、稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代で終わっている。後年(欽明二十三年八月または十一年)大伴狭手彦が高句麗に勝利した際、二人の女性を得て蘇我稲目に献じたと言うが、これって嫌みか。蘇我一族は越前国から出た有能な一族だったようだが、大和という地域社会に負けてしまった。

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