ヤマトは如何にして日本の中心となったか

★はじめに

中国においては我が国はおよそ3000年前より認識されていたらしく、王充(27年 – 1世紀末頃)が著した「論衡」では第八巻 儒増篇(第二六)に、「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」とあり、第十九巻 恢国篇(第五八)には、「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」とある。双方に出てくる「鬯」と言うのは「暢」とも書き今のウコンを言うのが通説らしい。字が二種類あるのは、一説によれば、春ウコンと秋ウコンがあるためという。しかし、「鬯」は酒を醸す意と言い、ウコンとは、直接、関係がないと言う説もあるようだ。従って、「鬯草」とは何の薬草かは不明で、この場合の「倭」を今の鹿児島県あるいは沖縄県に比定するのは推定の域を出ないか。江南や華南の山人であったとする説もある。なお、前述の「越裳獻雉」の「越裳」は今のベトナムと解されており、「倭」もその近くにあった国と認識されていたか。「倭」の位置を現在の日本としたら王充さんは誤解していたと思われ、江南や華南にあった国とするなら現在の日本とは関係がないことになる。そこいらがはっきりしないのだが、「成王時」とあり、「成王」とは何者かということになる。一応、成王とは周王朝の二代目と言うことで、在位期間は不明確であるが西暦・前1021年頃 – 西暦・前1002年頃(ほかに紀元前1042年から1021年の22年間と言う中国の説がある)と言う。ほぼ現在から3000年前となる。我田引水となるかも知れないが、上述の文に「食白雉服鬯草 不能除凶」とある。「白雉の肉を食べても、鬯草を服用しても、一向に病状は改善しなかった」くらいの意味だろうが、鬯草とは日本で言うドクダミ、ゲンノショウコ、センブリの類いの薬草で胃腸の弱い日本人には効験があったかも知れないが、胃腸強健の中国人には何の役にも立たなかったのではないか。「不能除凶(役に立たない)」などと言われてもせっせと中国へ持ち込んだ我がご先祖様の姿が彷彿とする。やはり「論衡」に出てくる「倭」は我が国のことであり、中国文献に出てくる「倭」はたくさんあったと言っても、最後まで残ったのは日本の「倭」である。しかも、この「倭」は現在の九州北部から先島諸島までの九州地方・南西諸島を指しているのではないか。そのような見方によれば王充さんが倭を江南や華南の近隣と理解したのも宜なるかなではある。3000年前の沖縄は、一説によると現在の鹿児島県とも中国とも交流があったと言い(土器等の分布による)、王充の「倭」は今の沖縄県とも思われる。当時の対中国外交通商の窓口は九州北部だったと思われ、前漢鏡は多くが九州北部で発見され、九州から本州方面へは配布されなかったようである。また、中国からの搬入後すぐに甕棺墓に副葬されたようである。この点、魏の皇帝が卑弥呼女王に勅した「還り到らば悉く録受し、もって汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむべし」とは少しばかり訳が違うようだ。
以上は「ヤマトは如何にして日本の中心となったか」とどういう関係があるのかと言われれば、九州北部に水稲栽培が始まっておよそ1000年(説によっては500年)ほどで内陸の国が国家統一を成し遂げたと言うことを述べようとしたまでである。

★大和国の統一事業

国家統一と言っても、他の国(出雲国とか吉備国など)の併呑作業が主なものとなるので、「記紀」によりその主なものを拾ってみると、

1.出雲の国譲り神話
2.神武東征
3.孝霊天皇の吉備国の調略
4.崇神天皇の四道将軍の派遣

以上が主なものと思われる。また、ヤマトが必要としたのも上記の順ではなかったかと思われる。
1.出雲の国譲り神話
当時の出雲は環日本海国家とも言うべき国で倭国を主導していた国だったと思う。そこに一本の釘を刺していたのが天日槍命の但馬国だったと思われる。但馬国は大和国と結び東から、西からは旧伊都国、奴国連合が出撃し、大国(たいこく)出雲を倒したのではないか。その後の大和王権の神武天皇などを見ても出雲系の女性が皇后の地位についている。「出雲の国譲り神話」とは神武天皇による出雲国併呑と思われる。天照大神の「葦原中国(出雲のことか)乗っ取り宣言」は奴国王あたりが大国主命にやられっぱなしだったので、その王妃がヒステリーでも起こしたのだろう。「出雲の国譲り神話」は初期大和王権にとっては一つの画期だっただろう。
2.神武東征
神武東征はあったのかなかったのか。あったとしても事実はどうだったのか。諸説紛々としている。一般論で言うと、考古学的観点(九州の墓制<支石墓など>は近畿には普及していない、三世紀頃の九州の土器が近畿および吉備に移動した例はない、四世紀の九州の大和に見られるような大規模な古墳・集落遺跡が見られない等)からの否定説が有力だ。
3.孝霊天皇の吉備国の調略
「古事記」に言う「針間を道の口と為して、以ちて吉備国を言(こと)向(む)け和(やわ)しき」と。大吉備津日子、若建吉備津日子の兄弟は外交交渉により吉備国併呑を敢行した。また、我が国最古の前方後円墳という箸墓古墳に類似した初期の古墳が瀬戸内から九州北部にあり、この併呑がその端緒になったか。一般には吉備国の古墳築造技術が大和国に及んだと解されているが、それが「真」なのかどうか。円形墳丘墓の周濠を掘り残した陸橋部分(通路部分)が発達し、墓(死の世界)と人間界を繋ぐ陸橋として墳丘と一体化した、と言うが、それを急に大型化できたかは疑問である。ほかの発想があったのではないか。
4.崇神天皇の四道将軍の派遣
古代ヤマトの全国制覇仕上げの話で、四道将軍遠征の話はそれぞれ別個のもの(崇神天皇一代の話ではないの意)としても、ある程度事実が反映されていると解する向きが多い。その遠征地は北陸(現在の福井県から新潟県までか)、東海(現在の三重県から東海道沿いに茨城県までか)、西道(現在の兵庫県から山陽道沿いに山口県までか)、丹波(現在の京都府から山陰道沿いに島根県までか)とされる。当時の日本の主要部分は網羅されている。

以上より考察するなら大和王権は領土拡張に意を用いており、倭国の統一ばかりか、朝鮮半島にも進出していたのではないか。近時の発掘調査では朝鮮半島西南部にも前方後円墳があるという。

★結 論

「ヤマト王権が三輪山山麓の纏向に成立したのは、そこが九州以東の最初の広い平野であり、峻険な山脈を隔てて、人口が多く、先進文化を渇望している東日本へ通じる通路口、東日本からすると文明の窓口だったからだ」と唱える見解もあるが、「九州以東の最初の広い平野」と言っても、大阪平野もあり、「峻険な山脈を隔てて、人口が多く」と言うが、当時は崇神紀にもあるように疫病が流行しており、崇神天皇5年、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた、とある。事実かどうかは不明としてもそんなに人口が多かったとは思われない。また、「先進文化を渇望している東日本」とあるが、東日本(特に、後世の上野国)に文明を届けたのは東海地方の伊勢湾沿岸地域の人々である。東海系S字甕(かめ)や前方後方墳。ヤマトが送ったのは前方後円墳と威信財くらいなものか。
これらを総括すれば、ヤマトが日本の中心となり得たのはひとえにヤマト自身の統一意欲に追うところが大である。換言すれば、政治的リーダーシップが強かったと言うことであろう。倭王武が「祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑を環(つらぬ)き」などと言っているが、「春秋左氏伝」にも見られる字句であると言うので、必ずしも武力だけで国家統一を図ったのではないと思う。月並みだが、ヤマトの国家統一行動の積み重ねがヤマトを日本の中心にしたものと思われる。

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