少彦名命は二人の人物の合成か

★はじめに

少彦名命は二人の人物の合成と言っても、「記紀」ともにその記録は少なく、「大国主命」の物語の一部として語られるに過ぎない。少彦名命を二人の人物とする根拠は、

1.「記紀」ともに大国主命の国造り協力者を二人とする。

「古事記」上巻

a 波の穂より天(あめ)の羅摩(かがみ)の船に乗りて、鵝(ひむし)の皮を内剥(うつはぎ)に剥ぎて、衣服(きもの)と為(し)て、帰(よ)り来る神有り。・・・少名毘古那の神ぞ。

b 海を光(てら)して依(よ)り來る神有り。御諸(みもろ)の山の上に坐(いま)す神なり。

「日本書紀」卷第一 第八段 一書第六

a 夫(そ)の大己貴命(おおあなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)、力を戮(あわ)せ心を一にして天下(あめのした)経(おさ)め営(いとな)みき。

b 時に、神(あや)しき光、海を照らして、忽然(たちまち)に浮かび来る者有り。 曰く、「如(も)し、吾、在(あ)らずば、汝(いまし)何ぞ能く此の国を平らげんや。吾在るに由(よ)りての故(ゆえ)に、汝(いまし)其の大きに造る績(せき)を建つことを得たり」。 是の時に、大己貴神(おおあなむちのかみ)、問いて曰く、「然らば則ち汝は是(これ)誰(たれ)そ」 対(こた)えて曰く、「吾は是汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)也」。・・・此れ、大三輪(おおみわ)の神也。

要するに、「記紀」の言わんとすることは、大国主命には出雲国では少彦名命が、大和国では大三輪神(具体的には、三輪山麓の部族)が協力神だったと言いたいのであろう。
また、「古事記」にはないが、「日本書紀」には以下の文もある。

「其の後に少彦名命(すくなひこなのみこと)、行きて熊野の御碕(みさき)に至りて、遂に常世郷(とこよのくに)に適(いでま)しき。 亦、曰く、淡嶋(あわのしま)に至りて粟莖(あわがら)に縁(のぼ)りしかば、則ち弾(はじ)かれ渡りて常世郷に至りき。これより後に、国の中に未だ成らざる所をば、大己貴神(おおあなむちのかみ)、独り能(よ)く巡り造り、遂に出雲国に到る」

これまた、常世郷(とこよのくに)とは「海のかなたにあるとされた異郷で、永遠不変の国」のことで「あの世」ではないというかも知れないが、「永遠不変の国」とか言っても、不帰即ち死を意味しているのではないか。現実問題としても少彦名命は二度と帰って来なかった。浦島太郎の物語とは少し違うのである。その代わりに現れたのが大己貴神の幸魂・奇魂と称する訳の分からぬ倭(やまと)の神様である。「野辺の送り」ならぬ「海辺の送り」(水葬なのであろう)が「熊野の御碕」と「淡嶋」の二箇所(該当者が二人と言うこと)で行われたという伝承か。

★少彦名命が二人であることの検証

1.少彦名命とは少名・彦名のことか。
彦名は鳥取県米子市彦名町に粟嶋神社があり、「淡嶋に至りて粟莖に縁りしかば、則ち弾かれ渡りて常世郷に至りき」の淡嶋のことという説がある。
少名は「熊野の御碕」と言うことになるのだろうが、今の熊野大社から山並みを海の方に延ばしてもそれらしき地名はない。逆に天狗山方面に行くと「スクモ塚」なる遺跡がある。「スクモ」は中国地方では籾殻を意味するそうで、「スクナ」との関係は不詳としか言いようがない。
私見では、安来市界隈は古墳の多いところで、多くは小高い山を利用して造られている。沖縄県にも須久名山と言う標高150m足らずの山がある。この場合の「スクナ」は地質ともども「小高い山」をも意味しているのかも知れない。遺称地がないのは誠に残念。

2.縄文人と弥生人
「羅摩(かがみ・ガガイモ?)の船に乗りて、鵝(ひむし・ガチョウor蛾?)の皮を内剥(うつはぎ)に剥ぎて、衣服(きもの)と為(し)て」(古事記)とか「白蘞(かがみ)の皮を以ちて舟と爲し、鷦鷯(さざき)の羽を以ちて衣と爲し、潮水(うしお)の隨(まにま)に以ちて浮き到る」(日本書紀)とあるが、「白蘞(かがみ)の皮を以ちて舟と爲し」とか「羅摩(かがみ)の船」とか言っても日本には遺物、技術ともに伝わらない。記録的にも少彦名命以外では「古事記」の蛭子神が葦舟で流されたというもので、過般、伊勢神宮や出雲大社で行われた「葦舟神事」というのは、現代の神事である。これに対し「鵝(ひむし)の皮を内剥(うつはぎ)に剥ぎて、衣服(きもの)と為(し)て」とか「鷦鷯(さざき)の羽を以ちて衣と爲し」とあるのは、アイヌ人に伝承された技術で「薄い動物の皮や羽」を集めて衣服としたようである。即ち、「羅摩(かがみ)の船」とか「鵝(ひむし)の皮の衣服」というのは日本のより古層の技術ではなかったか。従って、少彦名命は縄文系の文化圏の人とも考えられる。
次いで、「鳥獸(とりけもの)・昆蟲(むし)の災異(わざわい)を攘(はら)う爲に、則ち其の禁(とど)め厭(はら)う法を定めき。是を以ちて、百姓(おおみたから)、今に至るまで咸(ことごと)く恩頼を蒙(こうむ)る」とある。これは、水田稲作を言ったもので、粟の栽培を言ったものではないと思う。日本のように面積の少ない国では連作や二毛作で地力を損なう粟の栽培は狭小平野部(意宇平野)では早くから行われなくなっていたのではないか。即ち、「鳥獸(とりけもの)・昆蟲(むし)の災異(わざわい)を攘(はら)う」とは、弥生時代のことなのである。

★結 論

少名の「スク」の意味にしても〈1〉泥土(一般に言う湿地の意味であろう)〈2〉面積が狭小〈3〉砂丘、自然堤防などの沖積土の意味などが考えられるが(「ナ」は土地、国の意味であろう)、福岡県春日市須玖遺跡も〈牛頸山から福岡平野に突出した低丘陵地帯〉にあるやに言っている。少名を天狗山から意宇平野に突出した「熊野の御碕」とするなら、現在の松江市東出雲町須田や同春日、場合によっては安来市荒島町にあっても良さそうなものだ。
以上をまとめるなら、米子市彦名町の彦名命と言う人物と松江市東出雲町須田もしくは安来市荒島町の少名命という人物を統合して少彦名命となし、それと大国主命を重ね合わせ記紀に見るような神話に仕立て上げたのであろうか。即ち、彦名命は粟の栽培法を持って現在の米子市にやって来た「よそ者」で、粟作が古い技術だったので先住民に追放されてしまったのか、あるいは、亡くなってしまったのか。また、少名命は元々意宇平野にいた豪族(出雲臣の先祖か)で、大国主命と国家経営を最初に行ったのは彦名命で、彦名命の追放あるいは死亡後は少名命と共同経営したのではないか。但し、日本書紀には「これより後に、国の中に未だ成らざる所をば、大己貴神(おおあなむちのかみ)、独り能(よ)く巡り造り、遂に出雲国に到る」とある。私見の少名命と大国主命の共同経営は否定するもののようだ。
少彦名命は古きと新しきが混在した神で一人の人物と考えるのは難しいのではないか。内実はともかく、何らかの二人のモデルがおり、その合成の元にできた神ではないかと思っている。

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