少彦名命はどこの人か

はじめに

少彦名命(スクナヒコナノミコト、以下この表記とする)は、一説によると「古事記」中巻仲哀天皇条、神功皇后の御歌に「この御酒は わが御酒ならず 酒(くし)の司(かみ) 常世に坐す 石立たす 少御神(すくなみかみ)の 神壽き 壽き狂し 豊壽ぎ 壽き廻し 奉り来し 御酒ぞ 飽さず食せ ささ」を根拠として、大神神社は少彦名命が本来の祭神であろうという。現在の祭神は主祭神が大物主神で、配神として「大己貴神」「少彦名神」となっている。理由付けがはっきりしないが、勝手な推測で言うと、1.神功皇后(原文では息長帯比売となっている。おそらく神武天皇か景行天皇《景行天皇の可能性大。日本武尊は一妻を娶りて息長田別王を生み給う、とある》が出雲討伐の際、近江、山城、但馬等に勢力のあった息長氏が遠征に協力したものであろう。神功皇后とは景行天皇の后がモデルか)が御歌を詠んだのは大和国である。そこに少御神(すくなみかみ)とあるのは大和国一宮(後世の話ではあるが)の大神神社の祭神ではないのか。酒(くし)の司(かみ)とあるのは、くし(酒)は酒ばかりでなく薬をも意味する。大神神社が酒造りや疾病除けの神として信仰されているのにも合致する。石立たす、とは、石神(能登国に宿那彦神像石神社がある)としての性格を示すのであるが、大神神社は三輪山そのものを神体(神体山)としており石神とは磐座を言うのではないか。また、少彦名命は小人神と言われ大物主神も本性は蛇神で小さな黒蛇という。以上より少彦名命は大神神社の主祭神とする説にもまったく根拠がなくはないが、しかし、記紀に出てくる少彦名命は出雲神話に出てくる神であり、大和の神とするには少しかけ離れたところがあると思う。また、大神神社の御利益である稲作豊穣、疫病除け、酒造などは「風土記」などを見れば地元の豪族(例、伊和大神)が独占的に取り扱っているものであり、取り立ててどうのこうの言うものではないと思う。
そこで、私見だが、大国主命(大己貴命)と少彦名命の神話は出雲地方統一の話ではないかと思っている。出雲国には「出雲国風土記」によれば、意宇・島根・秋鹿・楯縫・出雲・神門・飯石・仁多・大原の九郡(後に、意宇郡から能義郡が分立した)があり、それぞれの地域に出雲国成立前の統治者がいたことと思う。それらをまとめてガラガラポンとして出てきたのが、大国主命と少彦名命ではなかったか。大国主命は杵築大社(現・出雲大社)に祀られた出雲郡を中心とする地域の覇者であり、少彦名命は熊野大社に祀られた意宇郡を中心とする地域の覇者だったのではないか。言うなれば、大国主命は出雲郡ほか出雲国の過半数の郡を占め、少彦名命は意宇郡だけを支配していたのではないか。その神名も大国主とはたくさんの国の主であり、少彦名とは僅かの国の主と言うことになるのではないか。但し、通説的見解は「大国主の大と少彦名の小との関係は、暦法の陰陽説にも通じる」というもののようである。そこで、その二神の痕跡を記紀の記録から拾ってみると、

★記紀における大国主命と少彦名命

「古事記」上巻 大国主命

1.大国主神、出雲の御大(みほ)の御前(みさき)に坐す時に、波の穂より天の羅摩(かがみ)の船に乘りて、鵝(ひむし)の皮を内剥(うつはぎ)に剥ぎて、衣服(きもの)と為て、帰(よ)り來る神有り。
2.其の名を問えども答えず。
3.従える諸の神に問えども、皆「知らず」と白(もう)しき。
4.久延毘古を召して問いし時に、答えて、「此は神産巣日(かむむすひ)神の御子、少名毘古那(すくなびこな)の神ぞ」と白しき。
5.神産巣日の御祖(みおや)答えて、「此は実(まこと)に我(あ)が子なり。子の中に我が手俣(たなまた)より久(く)岐(き)斯(し)子なり。故、汝(なむぢ)葦原色許男(あしはらしこお)命と兄弟(はらから)と為りて、其の国を作り堅めん」と告げき。
6.大穴牟遲(おおあなむぢ)と少名毘古那、二柱(ふたはしら)の神、相い並(とも)に此の国を作り堅めき。
7.少名毘古那神は常世(とこよ)の国に度(わた)りき。
8.久延毘古は、今には山田の曾富騰(そほど)なり。此の神は足は行かねども、尽(ことごと)く天の下の事を知れる神なり。

「日本書紀 卷第一 第八段 一書第六」

1.大己貴命(おおあなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)、力を戮(あわ)せ心を一にして天下(あめのした)経(おさ)め営(いとな)みき。
2.顯見蒼生(うつしきあおひとくさ=人間)及び畜産(けもの)の為に、則ち其の病を療(おさ)むる方を定む。
3.鳥獣(とりけもの)・昆虫(むし)の災異(わざわい)を攘(はら)う為に、則ち其の禁(とど)め厭(はら)う法を定めき。百姓(おおみたから)、今に至るまで咸(ことごと)く恩頼を蒙(こうむ)る。
4.大己貴命(おおあなむちのみこと)少彦名命(すくなひこなのみこと)に曰く、「吾等の造りし国は、豈(あ)に善く成せりと謂わんや」。少彦名命、対(こた)えて曰く、「或は成せる有り、或は成らざるも有り」
5.少彦名命、行きて熊野の御崎(みさき)に至りて、遂に常世郷(とこよのくに)に適(いでま)しき。亦、曰く、淡嶋(あわのしま)に至りて粟茎(あわがら)に縁(のぼ)りしかば、則ち弾(はじ)かれ渡りて常世郷に至りき。
6.大己貴神、国平げ、行きて出雲国の五十狹狹(いささ)の小汀(おはま)に到りて且(まさ)に飮食(みおし)せんとす。
7.海の上に忽(たちまち)に人の聲有り。頃時(しばらく)して、一箇(ひとり)の小男(おぐな)有り。白蘞(かがみ)の皮を以ちて舟と爲し、鷦鷯(さざき)の羽を以ちて衣と爲し、潮水(うしお)の隨(まにま)に以ちて浮き到る。
8.大己貴神、即ち掌の中に取り置きて、之を翫(もてあそ)ぶ。使を遣わし天神(あまつかみ)に白す。時に、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)之を聞きて曰く、「吾の産める兒、凡(すべ)て一千五百座(ちはしらあまりいほはしら)有り。其の中に一人の兒、最も悪く、敎え養(ひた)すに順(したが)わず。指の間より漏れ墮ちれば、必ず彼ならん」。これ即ち少彦名命、是(これ)也。

★解 析

1.小人神

「我が手俣(たなまた)より久岐斯(くきし・もれる、くぐるの意?)子なり」(古事記)とか「指の間より漏れ墮ちれば」「大己貴神、即ち掌の中に取り置きて、之を翫(もてあそ)ぶ」(日本書紀)とかあるが、想像上の話であろう。実際は、小柄な人で当時の標準体格をかなり下回っていたのであろう。古代の日本には「魏志倭人伝」にも<侏儒国>とあり、また、宮廷の芸能人(平安時代?武烈紀にあるものは中国文献の写しという)にも侏儒の人がいたという。あるいは、当時、既にアイヌ神話のコロポックル伝説的なものが倭に伝えられていたのであろうか。

2.小男(おぐな)有り。白蘞(かがみ)の皮を以ちて舟と為し、鷦鷯(さざき)の羽を以ちて衣と為し、

羅摩あるいは白蘞は(かがみ)と訓じ、ガガイモの実の莢(さや)説が一般的。換言すれば、一種の草舟なのだろうが、常識的に考えるなら外洋航海や漁業には使えないと思う。おそらく、水葬用の送り舟ではなかったか。遺体が長期間にわたって海上でうろうろされたのでははた迷惑なのでこのような舟が作出されたのであろう。今は送り盆にご先祖様の霊を海に流す行事となっているようだ。こんな舟に乗ってきたくらいだから、少彦名命は集落の共同作業には不向きと解され、追放されたのではないか。水葬の風俗があったところとしては出雲国界隈があるようだ。多分、追放されたのも今の安来市や米子市あたりで流れ流れて美保の岬あるいは稲佐の浜に着いたのではないか。実際問題としても、そんなに遠くまで行けなかったと思う。また、これは記紀の「蛭子神」と同じような話で蛭子神(死産だったのだろう)は葦舟で流されたと言うが、葦舟の遺物がないのも道理で海の上で沈んだものがそうやすやすと発見されるはずがない。また、技術の伝承もないと言うが出雲国では、後世、遺体を船の上から海へ落として沈める方法に代わったようである。即ち、葦舟を使わなくなった。

「鷦鷯(さざき)の羽を以ちて衣と為す」は、古事記では「鵝(ひむし)の皮を内剥(うつはぎ)に剥ぎて、衣服(きもの)と為す」になっている。鷦鷯とはミソサザイの古名とするのが通説。鵝はガチョウとする説やガ(蛾)とする説などがある。いずれもアイヌ人の習俗に似る。鳥羽衣(アイヌ語でラプル)はドイツの博物館にあるのが良質で日本にあるものはお粗末とか。獣皮の衣服では、クマ、シカ、キツネ、イヌ、アザラシなどの皮がある由。

3.顯見蒼生(うつしきあおひとくさ=人間、人々と解されている)及び畜産(けもの)の為に、則ち其の病を療(おさ)むる方を定む。

この医業に関しては温泉療法を専らにするという説もある。「伊予国風土記」には大国主命は、瀕死の少彦名命の命を蘇生させようと、道後の湯ではダメだったのか別府の湯(大分の速見(はやみ)の湯)を引き、少彦名命を蘇生させたという。今で言う胃腸病には丸々温泉、皮膚病には角角温泉と言うことか。温泉の泉種別効能を知っていたと言うことか。いろいろな温泉の入湯経験がなければできないことである。少なくとも少彦名命は温泉の多いところから来たものと思われる。

4.鳥獣(とりけもの)・昆虫(むし)の災異(わざわい)を攘(はら)う為に、則ち其の禁(とど)め厭(はら)う法を定めき。

この禁厭(まじない、きんえん)とは、具体的にどのようなことをしたのかは分からないが、おそらく現代的に言うなら、田圃に案山子を立てたり、四隅に竹を建てて糸を縦横に張り、鳥などが引っかかって田畑に近づかなくなるようにし、鹿威しのようなものを設置したりというようなことではなかったか。呪術と言えば呪文が有名ではあるがその種のものではなかったと思う。

5.少彦名命、行きて熊野の御崎(みさき)に至りて、遂に常世郷(とこよのくに)に適(いでま)しき。亦、曰く、淡嶋(あわのしま)に至りて粟茎(あわがら)に縁(のぼ)りしかば、則ち弾(はじ)かれ渡りて常世郷に至りき。

この熊野は三重県の熊野ではなく出雲国の熊野であるというのが多数説。御崎も海に突き出た岬ばかりでなく、山から突き出て陸上にあるものも言うと解するのが通説。ところで、この一文は少彦名命の葬儀の場面を言ったものではないのか。国造り半ばにして逃げ出すというのも合点のいかない話だし、小躯でひ弱だった少彦名命は日常的に大国主命のドメスティックバイオレンスに悩まされていたのではないか。あるいは、大国が小国を圧迫し続けたか。ついには帰らぬ人となったのである。おそらく、葦舟か粟茎の舟で送られたのであろう。
淡嶋(あわのしま)に至りて粟茎(あわがら)に縁(のぼ)りしかば、則ち弾(はじ)かれ、とあるが、淡嶋の具体的な場所は不明(米子市という説がある)だが、粟茎(あわがら)とあるので粟の栽培が行われていたのではないかと推察される。大国主命の時代は弥生時代と推測され水稲栽培が行われていたのではないかと思われるが、なお、縄文焼畑農業の粟作が併存していたのだろうか。また、少彦名命をこの一文から、種から観想された穀霊神とする見解がある。以上より、熊野にせよ淡嶋にせよ後世の意宇郡界隈と解せられるので少彦名命が亡くなった地は意宇郡の内か。
ところで、出雲国の熊野大社の祭神は熊野大神櫛御気野命と言い今は素戔嗚尊と言われている。神名の「熊」は一説によると動物の熊や奥まった所の意味ではなく、「神に捧げる神聖なたべもの」を意味するという見解がある。また、「御気」も「神への供物。また、天皇の食事の料」とあり、穀霊と限定されるかどうかは別に、「御食」であることは間違いないようだ。これらより推量すると少彦名命とは熊野大神櫛御気野命のことか。「櫛御気」とは、「熊」を言い換えたものであろう。

★結 論

以上より思料するならば、少彦名命は縄文的色彩を色濃くしたアイヌ人のような人であり、当時の出雲国は弥生と縄文が共存していたのかとも思われる。もし、少彦名命が丸木舟で出雲にやって来たなら出雲ではなくさらに遠くの現在で言えば北陸地方とか東北地方の日本海側の地域から来たともなるのだが、いかんせん草舟ではそれは無理というものだ。大国主命が体力にものを言わせて労働とか技術などのマクロの人としたら、少彦名命は温泉の泉質とか穀物の品種とかミクロの人ではなかったか。その全人格を見るなら彼は今の東北地方からやって来たと思うのだが、いかがなものか。なお、多数説は韓国からやって来たと解しているもののようだが、当時、既に布製の服を着ていたと思われる韓国の人とは思われない。日本の、それも、旧時代的な地域から来た人ではなかったか。

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