騎馬民族日本征服論とは何だったのか

★はじめに

昭和23年(1948)と言うからまだ戦後の混乱期から脱していない頃だと思うが、当時東京大学教授だった江上波夫氏が「騎馬民族日本征服論」なるセンセーショナルなご見解を発表し一世を風靡した。失礼ながら、今となっては何か大学の先生らしからぬ、衆人の関心を集めんがための大言壮語のようにも聞こえるのだが、現在でも時折マスコミで見かけるお説なのでなにがしかの支持を得ているのだろう。但し、現在ではこの説を継承する歴史学者はいないようである。当然ながら批判も多い。

★騎馬民族日本征服論とは

騎馬民族日本征服論を一言で表すなら、古墳築造のため朝鮮半島から古墳人(仮称)がやって来た、と言うことなのだろう。縄文土器と縄文人(原日本人)、稲作と弥生人(中国系か)と並び古墳と古墳人(朝鮮系か)が日本列島に併存し、古墳人が日本国家を樹立したというもののようだ。弥生王(神武天皇から欠史八代の天皇か)もいたらしいが、戦いの民たる騎馬民族と稲作の農耕民族では実戦力が違い弥生王は敗退あるいは合弁したという。時に、大和朝廷が樹立されたのは応神・仁徳期という。その前に崇神天皇が第一回の日本建国を行い任那から北九州に進出したという。崇神天皇が御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)と言われるのは御間城とは任那のことと説く。このときどのようにして日本上陸を果たしたかは分からないが、馬はいなかったらしい。馬のいない騎馬民族なんて「陸に上がったカッパ」同然ではないのか。もっとも、征服と言うからにはなにがしかの武力を伴い、その長は後世「連」のカバネを称する大伴氏や物部氏などであったと言う。「長年月朝鮮半島を支配し定住した民族が、情勢の変化により逼塞したことにより、長期間かけて日本列島を征服支配したとしているのであり、大陸騎馬民族が一気呵成に日本列島を征服したことを前提としてそれを否定するものは、江上への批判としては適切でない」(Wikipedia騎馬民族征服王朝説)という人もいるが(事実、江上氏もそのように言っている)、それは歴史的事件でも何でもなく、いわば当時の日本人の「日常」と言うべきものであろう。そういうこと自体この説が無意味と思うが、崇神天皇の前身は馬韓に属する月氏国の辰王と言い、この王家(高句麗王家、百済王家の一族という)は言葉は悪いが朝鮮北部からの流れ者で馬韓諸国の承認を得なければ、自ら立って王となることは出来なかったと言う。そうこうするうちに、魏の半島南下政策が積極化し、またまた魏に追われて、日本(倭・筑紫)に流れてきたという。こんな無能な人が農耕国家である日本で何ができたのであろう。当時の日本は古墳時代の勃興期にあり、朝鮮半島から人が来たとしても古墳築造の労働移民ではなかったか。日本の古墳はいきなり国力不相応と思われるような大型古墳(箸墓古墳など)を築造しており、おそらく、それが単純土木作業員や石工といえども渡来人がいたのではないか。江上説のように辰王が来たと言っても現代流に言うと地方の工務店の社長程度の人ではなかったか。
応神天皇の「第二回の日本建国」についてだが、崇神天皇の数代後に遂行されたといい、それは応神天皇と言うことらしい。応神天皇は、当時、「好太王碑文」により明らかなように十年あまりにわたって朝鮮半島へ進出しており(江上説の認識も同様と思われる)、筑紫から畿内へ進出する余裕はあったのか。応神天皇は長期にわたって九州や朝鮮半島にいたため九州の人という説が根強いが、その実名から判断するなら応神天皇は河内国誉田(現・羽曳野市誉田)の出身(母堂が物部氏か)であり、仁徳天皇も大雀命(おほさざきのみこと)と言い、「大きな墓」の意味かとも思うが、こじつければ「大狭崎」即ち「大伴」の意味にも解され「大伴の御津の浜」とある難波高津宮があったあたりの出身か。なお、「古事記」には、応神天皇を品陀和氣命(ほむだわけのみこと)、別名は大鞆和氣命(おおともわけのみこと)とある。
江上説はしきりと古墳の副葬品と馬を引き合いに出し、前期古墳と後期古墳(応神・仁徳両天皇の御陵以降を言うらしい)の違いを強調する。しかし、物事というものは時代とともに変化し、前期古墳と後期古墳が近似と言うことはあり得ない。馬に関しても、後期古墳時代になって急に多数の馬匹を飼養するようになった、と言うが、応神天皇が朝鮮半島に遠征し、高句麗の騎馬軍を見て“これは優秀”と思えば、当然、日本(倭)軍にも採用するであろうし、目くじらを立てて取り上げるようなことではない。応神・仁徳の御陵がばかでかいのは、応神・仁徳が遠征から帰国し、たくさんの人的資源を連れてきたので古墳築造の最盛期になったのではないか。要するに、江上説は応神・仁徳両天皇の長期にわたる朝鮮半島進出の国内における劇的変化を理解していないように思われる。昭和23年ではまだ戦後の混乱期でその後の高度成長期は予想だに出来なかったようである。

★縄文人の末裔は日本人ではないのか

その著「騎馬民族国家 日本古代史へのアプローチ」では第二章第三節で「日本民族の形成」という一節を設けている。その内容は、
「無土器時代人はもとより、縄文式時代人でも、いわゆる日本民族として取り扱えるかどうかには大いに疑問がある」
「無土器文化人ないし縄文式時代人と後のいわゆる日本民族との間には、形質人類学的なつながりや、若干の文化要素の伝承は認められても、基本的な文化の上からみればかなり大きな差異を認めないわけにはいかない。それで前者をもって日本民族という特定の民族文化の担い手のうちに単純に帰属せしめてしまうことはできないと思われる」
「弥生式時代人と歴史時代のいわゆる日本人が、経済、社会、文化の基本的な面で共通性をもっていて、両者が民族的に一連のものであったことは確かで、おのずから日本民族の出発点は弥生時代にあり、当時がその形成期であったという考えに導かれるのである」
取り上げたら切りがないのでこれでおしまいとするが、東大の教授ともあろう人がこんな偏向した見解を持っているとは嘆かわしい限りだ。当時はY染色体ハプログループという概念はまだなかったようで、現在で言うと日本人とはハプログループO(O2b1、O3)の中国、朝鮮場合によっては東南アジア人と言うことになるようだ。D2は何人いようと日本人の枠外と言うことらしい。江上説が図入りで紹介している説として頭長幅示数があり「瀬戸内から近畿地方の日本人が、東北・北陸・山陰をはじめ、四国や九州の大部分などの本州の外側の日本人と異なって短頭に傾き、朝鮮人に近いという、小浜基次説」あるいは「日本人の多くの部分が南シナ人に類似するという、今村豊説」を取り上げている。自説に有利な説を取り上げるのは当然と言えば当然だが、結論から言うと短頭、米食派は日本の人口減少阻止に寄与するかも知れないが、長頭、魚介鳥獣(狩猟採集民と言うから)派は頭脳明晰な者が多い。ノーベル賞受賞者の出身地を地図で表した人がいるが畿内より周辺部の人が多い。また、過般行われた今年(2013)の文科省の全国学力テストでも過疎の県が学力上位に来ている。農村で農地にへばりついてじっくりと物事を考える人と、狩猟のためにあちこちを動き回る人といずれが優秀かと言えば意外や意外あちこちに動き回って他人の物まねをした人が優秀なようである。昔、京都大学総長の平沢興と言う先生が「物まねは頭がよくなければできない」と言っていたが、日本を今日まで持ち上げたのは朝鮮、中国系の人々ではなく縄文人の末裔ではなかったか。そもそも、縄文男子の子孫が比例割合で一番多いというのもその必要性があったからで、できの悪い人種だったらほとんど淘汰されていたと思う。頭長幅示数の分布地図を見ても長頭域の方が面積が広いのであるから水田稲作をしていた半数以上の人は縄文人ではなかったか。縄文人は善悪の取捨選択の得意な人達で中国や韓国の悪い風習は導入せず、日本独自の水田稲作に変えていったのである。日本式水田稲作における弥生人の役割は意外と少なかったと思う。
以上を判断するならば、日本民族とは縄文人を主に中国、朝鮮、東南アジア人を混成したやや多民族的な民族であり、縄文人がほかの民族のいいとこ取りをした民族ではないのか。弥生人だけが日本民族という江上説賛成できないし、現在、Y染色体ハプロタイプ「O」が多くなっているのも戦前の「生めよ増やせよ」政策の結果か。なお、篠田謙一博士の「ミトコンドリアDNAのハプログループ頻度から計算した日本と周辺地域の近縁関係」によれば本土日本人は朝鮮半島(韓国)、中国東北部(山東、遼寧)の人たちと近縁性が高く、次いで沖縄となっている。中国南部(広東)、台湾は両者は近似するが本土日本人とはかけ離れている由。ミトコンドリアDNAは母親から子に受け継がれる、と言うので、日本の女性はそもそも稲作とは関係なかったのか。

★結 論

江上説は制度の中国や朝鮮半島からの継受やそれに伴う人々の移動を「侵略」とか「征服」と解しているようだ。平安時代初期(弘仁年間810~824)に撰修されたというので先史時代と比較するのは無理かと思うが、「新撰姓氏録」には一説によると、当時、系譜の確認された中央氏族1065氏のうち、諸蕃は326氏で全体のほぼ30%を占め、その内訳は漢(中国系)163氏、百済104氏、高句麗41氏、新羅9氏、任那9氏となっている、と言う。百済は660年、高句麗は668年に滅亡し、その余波で両国出身者が多いのであろうが、漢163氏は農耕国家であり、百済及び高句麗の145氏は騎馬国家である。これらの人の影響により「記紀」が作成されたのであろうが、日本の神話(天孫降臨説話や神武東征神話など)が高句麗、百済に由来するものとしても、比較的新しい時代に導入されたものではないか。応神天皇は10年間くらい朝鮮半島に滞在していたと思われ、彼の地の文物や人物を我が国に将来したとしても何ら不思議はない。古墳が応神・仁徳朝以降、壮大になり、石室は横穴式になったなどと言っているが、前方後円墳がほかの墳墓型(例、ピラミッドのような型)に変わったのならいざ知らず、単に外観が壮大になり、内部が豪華になったのは応神天皇の遠征の影響と思われる。何度も繰り返ししつこいようだが、応神・仁徳朝は日本の大変革期だったのではないか。また、辰王(崇神天皇という)が日本に流れ着いてきたというのもまったく根拠がない。よって、江上説の言う騎馬民族日本征服論というのは現代流に言うと移民(当時は帰化人とか渡来人と言ったか)や制度の継受、新産業の導入の問題であり、征服などと言う次元の問題ではない。

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騎馬民族日本征服論とは何だったのか への4件のフィードバック

  1. みみず より:

    最新研究では、縄文人も混血ミックス、
    日韓ともに、シルクロードの終点吹き溜まり、何10という遺伝子の雑種
    天皇日本人は、古代文化技術もってきて列島開拓国家立ち上げた、古代在日の子孫

    • tytsmed より:

      >最新研究では、縄文人も混血ミックス
      お説はごもっともかと存じます。九ヶ所かの地域社会があったと言います。

      >日韓ともに、シルクロードの終点吹き溜まり、何10という遺伝子の雑種
      Y-DNAがO主体(70%以上)の朝鮮半島とY-DNAがD2主体(40%。但し、50%はO)の日本では多少混血の様子は違うと思います。

      >天皇日本人は、古代文化技術もってきて列島開拓国家立ち上げた、古代在日の子孫
      天皇家が古代在日の子孫かどうかは分かりませんが、奈良盆地の古代遺跡に水田がありあるいは中国系の人かとも思われます。また、明治天皇以前の天皇は立派な髭を生やしている人が多く、Y-DNAがD2(原日本人)と言う人もいます。

  2. より:

    髭とY染色体は関係がないと思うけど、
    見た目は他の東洋人と変わらないのに日本にD2が多いのは、
    天皇家のY-DNAがD2で源氏の子孫の武士階級の一夫多妻などで
    少数だったD2がある年代から急激に増えたとかはあるかも。

    • tytsmed より:

      >髭とY染色体は関係がないと思うけど、
      東アジアで髭が濃いのはアイヌ人あるいは日本人というのが多数かとも。他の民族との根本的な違いはY-DNA D2とそれ以外と言うことでは。

      >見た目は他の東洋人と変わらない
      Y-DNA O系の人との混血が進んだからではないでしょうか。

      >天皇家のY-DNAがD2
      可能性は大とは思いますが、今のところはわからない、と言うのが正解かと存じます。

      >少数だったD2がある年代から急激に増えたとかはあるかも
      D2は最初から多数だったと思います。縄文時代はC1とD2がほとんどだったと思われ、弥生時代になってOの系統が入ってきたようですが、大量の移民があったかは疑問です。結局、O系が増えたのは「生めよ、増やせよ」の明治この方ではないでしょうか。それ以前は我が国は食糧難で厳しい人口抑制政策がとられていたはずです。

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