丹生の語源

★はじめに

「和名類聚抄」(和名抄)に「丹生」という郡・郷名が散在する。現在の関東から九州にまで存在するが、特に、若狭湾周囲に多いようである。読みは「ニフ、ニウ、ニュウ」で和名抄では「ニフ」が多いようである。意味もいろいろあるようだが、おおむね次の三種類に分かれるようである。
1.赤土、粘土のある地。
「ニ」は「赤土、粘土」のこと。「フ」は「~のあるところ」の意味という。
2.水銀、辰砂のとれる地。
赤土があるから水銀が出るかも知れないと言う期待からか、と言う見解もある。
3.玉のとれる地。
「ニ」は「ヌ」で「玉(ひすい)」と関係するという。
「瓊(ぬ)な音(と)ももゆらに、天(あめ)の真名井(まなゐ)に振りすすぎて」〈記・上〉しかし、「瓊」は玉は玉でも赤色の玉を言うようである。
1.、2.説はともかく3.説は少しこじつけの感がある。緑色が一般的な翡翠は瓊(ぬ、ルビーか)とは違うと思う。

★「和名抄」に出てくる主なる「丹生」の地名

丹生には他に「新」とか「入」とかの当て字もあるがここでは「丹生」のみを解説する。

*伊勢国飯高郡丹生郷
現・三重県多気郡多気町丹生。「和名抄」高山寺本に「出水銀」と註記され水銀の産出に由来するか。
*近江国坂田郡上丹(生)郷
現・滋賀県米原市上丹生、下丹生。山間部の村。「辰砂」という、水銀と硫黄とからなる赤い鉱物を産出する場所を指している、と地元の人は言うが疑問。
*上野国甘楽郡丹生郷
現・群馬県富岡市上丹生・下丹生。万葉集巻十四「3560 真金(まかね)吹く丹生(にふ)の真朱(まそほ)の色に出て言はなくのみそ吾(あ)が恋ふらくは」はこの地のことであるという。これまた「辰砂」が語源か。
*若狭国遠敷郡遠敷郷
遠敷(小丹生)郡は現在の福井県小浜市一帯。遠敷(小丹生)郷は現・福井県小浜市遠敷。
*若狭国遠敷郡丹生郷
現・福井県小浜市太良庄。このほかにも写本によってはもう一箇所丹生郷があるが重複とされる。
*越前国丹生郡丹生郷
現・福井県越前市丹生郷町。丹の出るところ、即ち、朱砂(水銀鉱)の産地か。
*土佐国安芸郡丹生郷
現・高知県安芸市東部伊尾木川流域か。特に、河口域か。
*豊後国海部郡丹生郷
現・大分県大分市丹生。「豊後国風土記」に「丹生郷、都の西にあり。昔時の人、この山の沙をとりて朱沙に該てき。因りて丹生郷という」とある。ここも「朱沙」説か。

★「丹生」の解析

上記八箇所の「丹生郷」「遠敷郷」のうち「辰砂」、「出水銀」、「朱砂」、「朱沙」に関係のないところは、若狭国遠敷郡遠敷郷、若狭国遠敷郡丹生郷、土佐国安芸郡丹生郷の三箇所のみ。いずれも「水辺」に関係しているところだ。そこで、念のため、若狭湾一帯の「丹生」の地名を拾ってみると、
1.丹生浦(福井県三方郡美浜町丹生、「扶桑略記」延喜19年(919)11月21日)
2.浦丹生湊(舞鶴市千歳、「田辺旧記」嘉永5年(1852))
3.大丹生(舞鶴市大丹生、「慶長検地郷村帳」慶長10年(1605))
4.女布(にょう、舞鶴市女布、女布遺跡は弥生中期・古墳時代・奈良時代・平安時代の複合遺跡。丹生か賣布(めふ)のいずれかと思うが不明。他に京丹後市久美浜町女布、京丹後市網野町木津女布谷(にょうだに))。
5.蒲入(かまにゅう、京都府与謝郡伊根町蒲入、「慶長検地郷村帳」慶長10年(1605)に蒲入村)但し、蒲は草冠に浦と書くので浦入の誤記か、あるいは、蒲入と書いて「うらにゅう」と読ませようとしたのか、元は浦入の可能性があったか。
6.丹生沖浦村(にゅうおきのうら)、丹生上計村(にゅうあげ)、丹生浦上村(にゅううらがみ)(兵庫県美方郡香美町香住区沖浦、上計、浦上は丹生三ヶ村と言った。「但馬国にしかた日記」(弘治3年、1557)、他に丹生地村(にうじ)があるが丹生三ヶ村と違い少し海から離れている。但し、丹生三ヶ村に行く中継点の意味かも知れない。例、阿波に対する淡路の如し。
以上述べた「丹生」の地はいずれも海に接しているか川に臨んでいるのがほとんどである。いずれも「辰砂」、「出水銀」、「朱砂」、「朱沙」とは関係のない漁村ないし船着き場(港)で全国的視野で見た「丹生」とは完全に違うものである。

★結 論

「丹生」の語源として前述した1.赤土、粘土のある地、2.水銀、辰砂のとれる地、3.玉のとれる地、などもあるだろうが、それらとは語源の違う「丹生」があるように思われる。即ち、
丹生は「ニ・フ」と分けて考えるのではなく、「ニフ」で一語と考え「ニフ」は「フネ(舟)」に倒語する前の元の言葉ではなかったか。元々の言葉は「ネフタ(根蓋)」かと思うが、「丹生」は現代の港とか舟の係留場あるいは桟橋などに関わる言葉かと思われる。但し、「ニ・フ」説を否定するものではありません。
話は逸れるが、上記若狭湾の丹生の地名では、舞鶴市に大丹生の地名があり、小浜市に遠敷(小丹生)の地名がある。既に、縄文時代にも現代で言う本部、支部のような発想があったのであろうか。
また、賣布神社というのがあるが、これが丹生と関係があるとするならば、仲の悪い但馬丹波グループと出雲に同じ神社があるのも丹生という地名が但馬丹波グループと出雲がまだ仲のよかった時代のより古層の地名ではないか。

広告
カテゴリー: 歴史 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中