多婆那国とはいずこに

★はじめに

「多婆那国」とは、「三國史記」卷第一 新羅本紀第一 脱解尼師今の段に出てくる「脱解本多婆那國所生也 其國在倭國東北一千里」にある国名で、倭國はどこにあったかは分からないとは言え、日本の学者は元より朝鮮半島の学者も現在の「日本国」と解しているようである。日本(倭)人が新羅の王とは娘婿(新羅第二代王南解次次雄の長女の夫という)とは言え穏やかならざることだが、当時の新羅は韓人と倭人が入り乱れていたようであり、韓人の勢力が強いときは韓人が王となり、倭人が優勢になると倭人が王となっていたようである。したがって、王家も三家(朴・昔・金)あったと言う。そのうち昔(ソク)氏が日系の王家で八名が王位に就いた。昔(ソク)姓は朝鮮半島でも珍しい姓のようだが、「三国遺事」によると箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたことから鵲の字を略して「昔」を姓としたと言う。何やら日本の仁徳天皇の「大鷦鷯尊」との類似性があるような気がするが、鵲が全長約45cmなのに対し、鷦鷯(ミソサザイ)は全長約11cmと言う。あるいは、鵲は日本では佐賀平野を中心に九州北西部にだけみられると言うので、鷦鷯を朝鮮半島の鳥に置き換えたか。無論、仁徳天皇と脱解尼師今は時代が違うが、「三国遺事」が表された頃は仁徳天皇の知識もあったと思う。とは言っても、「昔(ソク)」は漢字の意味から言っても、音から言っても日本語では理解しづらい。日本には「昔」という姓は後述するように少数だがあるようで、「ソク」という単語はあまり聞かないところだ。「昔」を日本流に<セキ>とか<シャク>と読む向きもあろうかと思われるが、原文は朝鮮の漢文なので朝鮮語の<ソク>が正当なのであろう。但し、昔を<セキ>と音読みし「石川県に少数。関連姓は関氏。現三重県である伊勢国鈴鹿郡関が起源(ルーツ)である」とする見解もある。おそらく「関」の当て字を間違えたのであろう。したがって、王家の姓「昔」からは何も得られない。
当時の倭(日本)と新羅の渡航航路についても複数が考えられる。多くは現在の対馬市から釜山へ行ったものと思われるが、出雲国から隠岐国、竹島、ウルルン島、江原(カンウォン)道襄陽(ヤンヤン)郡鰲山里(オサンリ)とか肥前国、五島列島、済州島、多島海方面などが考えられるが、オサンリ遺跡の隆起文土器は縄文前期の出雲の土器技術を導入したものか。いずれにせよ、縄文時代には日本(倭)人が朝鮮半島に渡ったことは間違いないと思われる。脱解尼師今の岳父である南解次次雄も巫覡(ふげき)王と言われ大麻(おおぬさ)を振らせれば一流かも知れないが、実際の行政、立法、司法の統治能力は低かったのではないか。そこに日本(倭)人が付けいる隙があったと思う。

★多婆那(たばな)の日本語の意味は

たばな(多婆那)などと言われるといかにも日本語のように聞こえるが、それではどのような意味だったのだろうか。まず、音の区切りを見てみると、「た・ばな」なのか「たば・な」なのか。

「た・ばな」の場合だが、「た」は地名では多・田・太・手などが当てられるようだが、この文字が意味を持つことはほとんどなく、地名に対する接頭語で美称とか強調とかに用いられるようだ。これらの漢字に字義を見いだすとすれば、多は「たくさんの」、田は「田圃」、太は「大きい或いは太い」、手は「取る・執る」の意味が考えられるか。「はな・ばな」の方は漢字では鼻・花・華・端などが当てられる。意味は地形の先端とか端(はじ)、縁(へり、ふち)の意味である。一応、このように分けると「微高地の上の平らなところの縁」の意味が考えられよう。

「たば・な」と区切ると、「たば」は田場(たば、沖縄の地名。 具志川間切田場村<現・沖縄県うるま市田場>)、鳥羽(とば、山城国紀伊郡鳥羽郷。現・京都市南区上鳥羽、同市伏見区下鳥羽)が該当しよう。いずれの地も川岸の港で田場の場合は今は少し離れているが天願川(元の田場村は現在の集落南側の地荒原<ちあらばる>の高台にあったと言う)、鳥羽の場合は桂川と鴨川の合流点である低湿な平野にある。田場、鳥羽の語源は「ツバ」(潰)の転という説がある。崩崖地は微高地や自然堤防の意味になるという。この場合は自然堤防の意味であろう。但し、高知県西部には「駄場(馬)<だば>の地名が多く、駄場とは台地上の平坦地をいい、駄場を地名とするところからは縄文時代の遺跡が発見されることが多い、とある。「な」の方は古典に出てくる「儺県(なのあがた、那、娜などとも書く)」の「な」と同じで、「国、土地、土」などが未分化の状態で一緒くたになった縄文古語である。

以上をまとめると、「たばな」には「た・ばな」と区切ると地名或いは人名として「田花」「田華」「田端(たばな)」などがあるが、「たば・な」と区切るとそれに沿った漢字表記は見当たらない。一応、「たばな」のウィングを広げて「橘、立花、館花」(たちばな)や「津花」(つばな)を検討すると、

「たちばな」は「タチ、タテ、タツはいずれも台地、小丘陵などの平坦地・緩傾斜地を表す」とあり、タチバナとはタチ(台地の意)ハナ(端・鼻)で、台地、自然堤防、微高地などの先端を言う、とある。和名抄の地名は武蔵国橘樹郡橘樹郷、伊予国新居郡立花郷、伊予国越智郡立花郷、伊予国温泉郡立花郷、常陸国茨城郡立花郷がある。ほかに目だつところとしては、

石川県能美郡川北町橘
石川県加賀市橘町
石川県能美郡川北町橘新(元・富田村と言ったが洪水により退転。橘村の荒蕪地を開拓し橘新村とした)
石川県白山市北島町 遺称地はないが延慶三年(1310)景宣解・藤原頼藤勘返状に「橘島保」とあり、寛正三年(1462)板津親家書状に「橘村」とある。

「つはな・つばな」は文字通り津(港、海岸)の端の意味か。但し、宮崎県高千穂町の津花峠、愛知県豊田市宝町津花などは内陸の地である。また、沖縄県津花波の地形は「西原町東部の海岸に面した丘陵地にあたり、標高60m~70mの北西~南東方向に延びた台地状の地形」とあり、「津花」は「潰那(つばな・崩崖地)」の意味で、「波」は「端」の意味か。あるいは、上述した「高知県西部には「駄場(馬)<だば>の地名が多く、駄場とは台地上の平坦地をいう」がこの場合の潰(つば)の正解かとも思われる。

地名は北海道から沖縄まである。北海道と沖縄の地は海岸近くにある。

北海道檜山郡江差町津花町(ホッカイドウ ヒヤマグン エサシチョウ ツバナチョウ)
元禄郷帳(元禄13年~元禄16年、1700~1703)に「つばな村」とある。

沖縄県中頭郡西原町津花波(オキナワケン ナカガミグン ニシハラチョウ ツハナハ)
現地では<チファヌファ、チファナファ>と発音する。絵図郷村帳(享保21年、1736)に記載がある。沖縄の音に沿った「知花(ちばな)」と言う地名や姓が沖縄にはある。

結 論

多婆那国の比定地については、かって、音が似ていることから熊本県玉名市が有力とされた。しかし、和名抄「多万伊奈(たまいな)」、日本書紀「玉杵名(たまきな)」の表記から、また、「三國史記」の「其國在倭國東北一千里」の解釈で倭国を魏志倭人伝に言う「伊都国」や「奴国」にした場合の方角の違いから急速にしぼんでしまった。その後は、方角、距離からして「出雲国」「但馬国」「丹波国」が有力となった。
ここで推測すると、多婆那国と言うからには日本にも同様の地名があり、「田花」「田華」「田端(たばな)」は無論のこと類似の「橘、立花、館花」(たちばな)や「津花」(つばな)を見てみると、「橘」という地名が石川県の一定の地域に塊まってあることが分かった。こういうことは前述の「高知県西部には「駄場(馬)<だば>の地名が多く」とあるように何も珍しいことではないが、もう一点石川県には「石川県河北郡内灘町大根布」の地名があり、ここは縄文時代の港町ではなかったか。「根布」はこれまた縄文時代の大型丸木舟が出土した舞鶴市浦入遺跡(丹波国<丹後国>)に連なる。浦入の「入」は、nefu→neu or nevu→newと変化したものであろう。石川県内灘町大根布と舞鶴市浦入遺跡は縄文時代には同じグループが行き来していたのではないか。したがって、加賀国の日本海に面した地域は古く「橘」ないし「橘國(たちばなのくに・たちばなこく)」と言われ、それが多婆那国となったのではないか。現在の石川県の旧加賀国から直接あるいはほかの港を経由しながら間接に新羅に渡った冒険家がいたようだ。「越前男に加賀女」の組み合わせも縄文男子に新羅女子の組み合わせかも。

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