縄文人はなぜ朝鮮半島を目指したのか

★はじめに

「縄文人はなぜ朝鮮半島を目指したのか」と言っても、日本の縄文時代には朝鮮半島には人がそれほど住んではいなかったのではないか、と言う意見がある。常識的に考えて、人のいないところへ行ったところで、その遠征や視察はほとんど無意味ではある。そこで当時の彼我の状況を見てみると、
日本では縄文中期の遺跡で福井県若狭町の鳥浜貝塚(6000年~5500年前が最盛期。第一号丸木舟は5500年前の丸木舟か。船尾はとも綱を巻き付けたような浅いくぼみがあり、漁舟か)、京都府舞鶴市の浦入遺跡(6000年前の縄文遺跡から平安時代までの複合遺跡。丸木舟は5300年前のものか。丸木舟の全長は約8mと推定され、幅0.8m、舟底の厚さは 5cmで、発見された場所が船着場と思われ、外洋航海舟か)、島根県の島根大学構内遺跡(丸木舟に関しては丸木舟状板材。縄文前期。スギ材)、長崎県多良見(たらみ)町(現・諫早市)の伊木力(いきりき)遺跡(6000年前の丸木舟の船底が出土。推定全長は6.5mで外洋航海舟か)、ほかに埼玉県草加市の綾瀬川や千葉県多古町の栗山川流域遺跡群などの出土例がある。いずれも縄文時代最盛期の頃の遺物である。一応、行き着く先に朝鮮半島や沿海州のある日本海側が主力になる。
これに対して、「人がいない」などと酷評される朝鮮半島の方はどうなのであろうか。朝鮮半島の土器区分は日本とは若干違い、日本の縄文土器時代に相当するものを櫛目文土器時代(くしめもんどきじだい)または櫛文土器時代(せつもんどきじだい)と言うもののようである。理由は、前期から中期にかけての土器に櫛の歯のようなもので模様がつけられたことから命名されている由。年代的には10000年前から3500年前と言う。時代区分としては、草創期・前期・中期・後期があり、草創期は10000年前から8000年前頃とされる。初期の土器としては南部から隆起文土器が発見されている。前期は8000年前から5500年前頃とされる。漁労や狩猟、竪穴式住居が現れる。後半期には大規模な貝塚が見られる。6000年前頃に櫛目文土器が出現する。これはユーラシア北部一帯(フィンランド、ロシア、シベリア、中国東北部など)に広まった広い意味での「櫛目文土器」に由来するものか。曽畑式土器(縄文時代前期に九州から南西諸島まで広まった土器。熊本県宇土市岩古曽町字曽畑・貝塚遺跡)は平行する沈線文様が特徴で、この文様構成は遠く海を隔てた朝鮮半島の土器とも共通する、と言う。また、「結合式釣針」などは南朝鮮と九州に共通する、とも言う。中期は5500年前から4000年前頃とされる。雑穀などの栽培が始まった。後期は4000年前から3500年前頃で、貝塚は少なくなり、農業が始まった。なお、櫛目文土器時代の前に先櫛目文土器時代を設定する見解もあるが、おそらく、草創期までは遡らないのではないか。
以上を概括すると、朝鮮半島の「櫛目文土器」と日本の「縄文土器」は、

1.その起源を異にする。
櫛目文土器がユーラシア大陸北部の技術継受なのに対し、縄文土器は日本で発祥か。但し、朝鮮では櫛目文土器は朝鮮発祥で朝鮮人がシベリア、ヨーロッパに広めたという。北ヨーロッパ(フィンランドなど)に東北アジア人が多いのもそのせいとか。フィン人の先祖は東南アジアからシベリア経由でフィンランドへ行ったという説はあるが、現況の分布では日本はもとより中国、朝鮮は一顧だにされていない。但し、過般(2013年4月11日)の報道では、「オランダ・フローニンゲン大のピーター・ジョーダン博士らが、土器は狩猟採集時代にアジアから欧州に伝わったとみて行っている調査の一環」などというものもある。日本では縄文前期と思われる時期に櫛目文土器が北海道常呂遺跡で発見されているのでシベリア経由のものか。
2.櫛目文土器はシンプルな実用品が多いのに対し、縄文土器は装飾過剰(火焔土器など)なものも多い。
釜山市では九州の縄文時代後期の縄文土器(先櫛目文土器のことを言うのか)が出土しているという。朝鮮半島では土器製作に技術の高度化が進まなかったものか。
3.用途はいずれも煮炊き用か。
いずれにも尖底土器があり、朝鮮半島では雑穀の煮炊きに、日本では魚介類の煮炊きに使用されたようである。しかし、形を尖底にしたり、土器からの水漏れを防ぐ技術はどのようにして共有したのだろうか。
4.土器の出土個数、遺跡数は縄文土器の方が多いか。

つらつら考えるに、朝鮮半島の櫛目文土器時代に人が住んでいなかったとは考えがたく、当時の日本でも縄文時代の人口を見ると、(鬼頭宏「図説・人口で見る日本史」による。除北海道、沖縄)
縄文早期 20.1  縄文前期 105.5  縄文中期 261.3  縄文後期 160.3  縄文晩期 75.8(単位:千人)
となっており、今の概念で考えると極端に人口の少ない時代であった。また、人口の大多数は東海地域から東に住んでおり「縄文中期に始まった気候変動(寒冷化)は東西日本の人口に較差をもたらしました。東は減り西が増え、また高地から低地・低湿地への人口流動も促進されました」という人もいるが、東日本の激減は確かなようだが、西日本の人口増加の実数は、畿内 0.1→1.1 畿内周辺 0.2→3.1 山陰 0.1→0.9 山陽 0.3→1.7 四国 0.2→2.7 北九州 0.8→2.4 南九州 1.1→7.7(縄文早期の人口→後期の人口。単位千人)となっており、その数字は微々たるものである。朝鮮半島の数値は分からないが、日本並みの人口があったのではないかと思料する。
これらから判断するならば縄文人が朝鮮半島へ行ったのも無人島へ行ったり、人口数人の村へ行ったのではなく、当時としてはそれなりの町へ行ったものと思われる。

★縄文人と朝鮮半島

縄文人が朝鮮半島へ行ったと言ってもその痕跡が残る場合もあるだろうし、まったく残らない場合もある。痕跡が残る典型としては「曽畑式土器」や「結合式釣針」などだが、恐縮だが、朝鮮半島の影響を受けたとか朝鮮半島の技術を導入したとか言われるがはなはだ疑問だ。土器にしてもおそらく日本で造られたのが早いであろうし、その後の製作技術等も日本の方が進んでいたのではないか。(火焔土器など)朝鮮半島が日本より優るようになったのは中国からの製陶技術(轆轤など)が伝わってからではないのか。即ち、5世紀以降か。漁業にしても「魏志倭人伝」に書かれている九州方面の潜水漁法は当時でも稚拙なものだっただろう。そもそも縄文時代前期に西北九州型結合式釣針が朝鮮半島東岸のオサンリ型結合釣針に範を取って出現したようなことを言う人がいるが、日本では、
1.横須賀市平坂貝塚(縄文時代早期初頭)で一点出土
2.青森県長七谷地貝塚(縄文時代早期末葉)で九点出土
3.北海道東釧路貝塚(縄文時代前期)で結合式釣針の軸一点
などがあるようだ。
オサンリ遺跡の実年代だが、隆起文土器は縄文早期後葉と前期初頭、住居跡は放射性炭素による測定で7120~6130年前とされており、必ずしも日本より先行しているとは思われない。

九州地方に先史時代の舟の遺物がほとんどないのも問題だ。僅かに前述した伊木力(いきりき)遺跡の丸木舟の船底があるが、これとて某国立大学に鑑定してもらえば「丸木舟状板材」などと言われかねない代物ではないのか。「周辺からは錨に用いたと考えられる石が複数見つかっている」と補強しているが疑問符のつくところだ。舟が見つからなければ九州地方には舟はなく、かつ、造られていなかったことになり、日本の他の地域に比べかなり見劣りがする。また、「朝鮮半島との交流」とか「大陸との関わり」とか言っても、どのように行き来したかも分からない。丸太とか何かの“浮き“につかまって泳いでいったとか、筏舟に乗ってわたったとか、いろいろ考えられるが実用的でないことは間違いない。可能性としては筏舟が考えられる。丸木舟のように大木は要らず、複数の材木を紐などで縛って造るので幅が広く、安定した基礎を持つ。形もいろいろにできるかと思うが、最大の欠点は材木が湿ったりしたら舟は簡単に解体してしまうことである。造船技術者の習熟度が問題になるのだが、当時の九州は人口も少なくそんな人はいなかったのではないか。残るは、朝鮮半島や中国大陸から一方通行で人がやって来たのか。
日本海側から丸木舟に乗ってきた人たちは九州本島をオミットして現在の対馬・釜山ルートで行ったようである。縄文時代に半島や大陸の影響を強く受けたのは九州地方となるようだが、朝鮮半島や中国大陸に九州産の遺物がないとなれば九州では半島や大陸からの一方的来訪のみではなかったかと思われる。一応、釜山で後期の縄文土器が発見されているとのことだが、いきさつは不明である。日本が半島へ本格的に進出したのは古墳時代以降か。邪馬台国時代にも鉄の採掘権を持っていたようなのでその頃から半島へ進出していたのか。何せ新羅の王家の一家は「三国史記」新羅本紀によれば「脱解本多婆那國所生也 其國在倭國東北一千里」とか、任那には日本府があった(日本書紀)とか、「九年己亥、百残違誓、與倭和通」(好太王碑文)とか、信憑性に欠けるがその種の話には事欠かないようである。しかし、縄文時代にまで遡ることはないだろう。

★縄文人の朝鮮半島への渡航の目的

当時の倭人が半島や大陸へ行ったのは何も九州の人だけではなく、ほかの地域の人も行ったようである。但し、九州の人が半島へ渡った確証はない。主に日本海側の地域の人が行ったようだが、おそらく、その場合経路は直接日本海側の地域から対馬へ渡航し半島へと渡ったようである。日本の古典にも現在の新潟県から島根県までの地名がたくさんでてきており、かつ、人物も豊富だ。一応、古典の神代から欠史八代あたりまでが縄文時代を含む内容かと思われるが、記紀の内容と実際の国情とは若干異なり当時は日本海沿岸の国々や関東の国々が積極的に活動していたようである。特に、日本海沿岸は活発に半島などにも進出していたようだ。樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云(漢書地理志)と紀元前1世紀頃の日本が描かれている。百余国は大袈裟としても多くの地域が朝鮮半島の楽浪郡をめがけて出かけたことは間違いないようだ。
当時は交易品と言っても大したものはなく、また、不安定な丸木舟に載せて商品を運ぶことなどは事実上不可能に近かったと思われる。それにもまして半島へと出かけた理由は何だったのであろうか。
朝鮮半島の中・南部の国々は古くから去就が定まらなかったらしく、例えば新羅は、張庚による「諸番職貢図巻」によれば「斯羅國、本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅、宋時曰斯羅、其實一也。或属韓或属倭・・・」と。そのためか、王家は三家あり、まるで倭韓混成国家のようだ。「三国史記」によると当初より日本による新羅への侵攻が行われている。これは弥生・古墳の時代のことと思うが、縄文時代も同じことが行われていたのではないか。多くの場合日本が勝利して、戦利品として食料・金銭・一部領土等を得ていたという。これは時代が進んでからの話で、縄文時代の日本では人口が極端に少なく(最盛期の縄文中期で26万人余、晩期では7万人余と言う)、人口減少に悩まされ、かつ、近親婚の弊害も大きかったと思う。そこで考えられたのは積極的に外に出て女性を確保しようと言うことではなかったのか。厚かましい話では済州島(耽羅国)の建国神話で「瀛州誌(えいしゅうし)」に「・・・われ東海の碧浪国の使いなり。吾が王この三女を生み、年みな壮盛にして求めるに所偶を得ず。・・・気を西溟(せいめい)に望めば、・・中に絶岳あり、神子三人降り、将に国を開かんと欲して配匹なし・・・」(碧浪国は「高麗史」地理志以下では「日本国」と改められている)とあり、日本国王は配偶者のいない神子三人にいつまで経ってもかたづかない自分の娘三人を押し売りしたのである。無論、使者は帰国の折りには耽羅国の女性六人ほどを連れ帰ったのではないか。あの手この手を使って女性を集めたのである。とは言え、こういうことが東アジアのmtDNAハプログループ頻度の均一化に貢献したのではないか。
以上を総括すれば、縄文人が懸命になって大海に船出したのは何も金銀財宝を求めて行ったのではなく、当時の人口問題や疾病を解決しようと思って新しい食物や人々を求めて動き回ったまでのことであろう。但し、歴史書では女性の移動のことは徳義上好ましくないと思われたのか一切記載はない。

広告
カテゴリー: 歴史 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中