丹波国

★はじめに

記紀には大和朝廷による全国制覇の説話が書かれており、特に、「日本書紀」では、
「《崇神天皇十年(癸巳前八八)九月甲午(九<日>)》九月丙戌朔甲午(九日)。
大彦命を以て北陸に遣す。武渟川別を東海に遣す。吉備津彦を西道に遣す。丹波道主命を丹波に遣す。因りて詔を以て曰はく。若し教を受けざる者有らば。乃ち兵を挙げて伐て。既にして共に印綬を授ひて将軍と為す。」
とあり、いわゆる、四道将軍の派遣と言われている。将軍は、一応、全員が皇族とされ、皇族による国家平定説話の一部とされる。北陸、東海、西道、丹波とあるうち、丹波だけが具体的地名で後はさっぱり解らない。
そこで、丹波には大和王権などと並び独立性をもって存在したとされる勢力「丹波王国」(後世、丹後国と分割されたので「丹後王国」とも言う)があったと提唱する説が現れた。無論、当時はこのような王国が北陸(越か)、東海(尾張か)、西道(吉備か)などのほか筑紫、出雲、紀伊、東(あづま・武蔵か)にもあったのではないかと思われる。
丹波国は考古学的にも早くから開けたようで、文字による記録が弥生時代以降としても、出土遺物には後期旧石器時代から縄文草創期のものと言われる有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)がある。縄文時代遺跡は海岸・古砂丘上にあり、弥生時代の遺跡は海岸部から内陸部へ広がったようだ。具体的には縄文遺跡では、大型丸木舟の浦入(うらにゅう)遺跡(舞鶴市)、竪穴式住居の浜詰遺跡(京丹後市網野町浜詰)、縄文時代前期・中期・後期・晩期にわたる平(へい)遺跡(京丹後市丹後町)、縄文土器の有熊遺跡(京都府与謝郡与謝野町有熊)などがあり、弥生時代の遺物には中期の遺跡と言われる京丹後市の旧久美浜町函石浜遺跡からは新(中国)の王莽(おうもう)の貨泉が出土している。同遺跡は海岸の砂丘に遺物が散在しており、砂丘によって破壊された集落跡とみられている。また、同遺跡の弥生土器には前期のものと中期のものがある。前者には本州西端で前期末に盛んに用いられた綾杉文などの文様で飾ったものが出土する。したがって、丹後地方の弥生文化は西から東進してきたものと畿内から北上してきたものの交点だった。弥生遺跡ではそのほかに弥生時代前期から中世までの複合遺跡である竹野遺跡(京丹後市丹後町)がある。地域的に見ると、縄文遺跡は若狭湾沿いに、弥生遺跡は山陰海岸沿いに多いようである。なお、ここで言う「丹波国」は和銅6年(713)4月に旧丹波国を丹波国と丹後国に分割した丹波国ではなく、丹波地名発祥の地・丹後国丹波郡丹波郷(現・京丹後市峰山町丹波)を言う。即ち、旧丹波国である。語源は、1.谷間 2.谷端 3.谷庭、説等があるが、実際の地形に合致しているのは「谷端」という。命名されたのも谷合が開発されはじめた弥生時代以降であろう。弥生式土器片が出土し、古墳は10基。隣接の杉谷の地には丹後最大の円墳(カジヤ古墳)、西谷山(にしたにやま)古墳群、杉谷山(すぎたにやま)古墳群がある。また、但馬国は丹波国から分かって置いたとあるのは本当か。「続日本紀」によると天武天皇13年(685)に丹波国より西部の8郡を分割して成立したとあります、と言う人もいるが、不審。「日本書紀」には天武天皇4年(675)に丹波・但馬・近江などと国名を羅列しており、天武13年に分立したというのはおかしい。丹波と但馬ははじめから別の地域(国)ではなかったのか。単に「丹(たに)」と「但(たち)」の音が似ているだけで(双方とも音読みでは「タン」と読む)意味は全然違うわけだし、住んでいる人々も丹波が縄文人、弥生人が主なるのに対し、但馬は異国船で漂着した人々が多いらしい。(例として、天日槍命)古墳の状況から丹波、但馬ともに4世紀頃には大和政権に服属していたと思われる。

★浦島太郎の原像

丹後半島の著名人と言えば浦島太郎である。文献にも出てきており、単なるおとぎ話上の人物とは違う。

「日本書紀」雄略天皇二十二年条
雄略天皇廿二年秋七月。丹波國餘社郡管川人水江浦嶋子乘舟而釣。(丹波国与謝郡筒川の人水江浦嶋子舟に乗って釣りをする)蓬莱山へ行ったという発端部分だけの記載がある。

「万葉集」巻九の高橋虫麻呂作の長歌(歌番号1740)
「詠水江浦嶋子一首」墨吉尓 還来而 家見跡(家)毛見金手 里見跡 里毛見金手(住吉に 帰り来りて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて)

「丹後国風土記」(逸文のみが残存)
逸文によれば、その記事は連(むらじ)の伊預部馬養(いよべのうまかい)という人物が書いた物語を本にしたものであると言う。

以上を要約すると、「万葉集」は舞台が摂津国住吉であり、「日本書紀」「丹後国風土記」では丹波(丹後)国与謝郡と言うことになる。関わる神社と言えば摂津国住吉は住吉大社であり、丹波(丹後)国与謝郡筒川は浦嶋神社(宇良神社・京都府与謝郡伊根町)となるかとも思われるが、浦嶋神社の創建は平安時代との説もあり、丹後半島のほかの浦島太郎にまつわる神社を浦島太郎ゆかりの神社とする見解がある。但し、「浦嶋子は人皇二十一代雄略天皇の御宇二十二年(四七八)七月七日に美婦に誘われ常世の国に行き、その後三百有余年を経て五十三代淳和天皇の天長二年(八二五)に帰って来た。常世の国に住んでいた年数は三百四十七年間で淳和天皇はこの話を聞いて浦嶋子を筒川大明神と名付け小野篁は勅使として、勅宣をのべたうえ小野篁は勅命をうけたまわって宮殿を御造営し、ここに筒川大明神が鎮座されたのである」と説く公式見解とも言うべきものがある。ここでは浦島太郎は浦(宇良)嶋子の父で浦島伝説の主人公は浦嶋子で浦島太郎ではないようだ。「丹後国風土記」の伊預部馬養の原文から援用したと思われる文章は当時としては長文で脚色も優れてはいるが伝承を元にした創作文で史実を伝えているのかどうか。

話は少しそれるが、筒川(つつかわ)の筒は、無論、管(くだ)の意味もあるが、古くは「星」を意味したという。有名な住吉三神の底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の筒は星のことで、三筒男は、オリオン座の中央にあるカラスキ星で航海の目標としたところから、航海をつかさどる神とも考えられる、と宣う。また、対馬の豆酘(つつ)、壱岐の筒城(つつき)、福岡県糸島半島の筒木(つつき)がオリオン座の三ツ星の配置となっている、と説く。これには異論もあり、「アルタイルを中心にするわし座の三星(一般に言われる「オリオン座」の三星ではないの意味)は、西北西に沈む。この星が豆酘ー筒城ー筒木のように、西から30度北の位置に沈んでいたのは、今から1万年前、B.C.8000年の頃のことだ。アルタイルは縄文時代の夏至の日没の位置を知らせる星座なのだ」と。真偽のほどは定かではないが、この説によると、浦島太郎さんの原像は縄文時代草創期の航海士に行き着くようだ。但し、私見では、対馬の豆酘(つつ)、壱岐の筒城(つつき)、福岡県糸島半島の筒木(つつき)は、上述しているような高邁な星座などではなく、現代流に言うと「つつ」グループの寄港地を意味したのではないか。それでは、航海はどのようにして行ったのかと言えば、目印は星などの季節や時間によって移動するものではなく、山や島などの固定したもの、また、舟が座礁しては困るので水深を測る係と船団長が目印と天候を管理したのではないか。おそらく、当時の人は取り付く島もないような大海にはでなかったと思う。加うるに、オリオン座の中央にあるカラスキ星などというものには始めから関心はなかったと思う。なお、ここで言う「つつ」は津々のことで「港」を言ったものか。ご丁寧にも「浦(宇良)の文字まである。
そこで、浦島太郎の位置取りを考えてみると、丹後国与謝郡筒川は若狭湾側にあるといい、こちらに縄文遺跡が多いので浦島太郎伝説が丹後国与謝郡筒川発祥と言っても問題ではないと思う。浦島太郎は漁師となっているが航海に関係したことも十分考えられる。航路としては丹後国与謝郡筒川から、直接、現・対馬市厳原町豆酘へ行ったと思われる。但し、安全面を考えれば筒川から海岸沿いを航海し、糸島半島の筒木を経由し豆酘(つつ)へ行ったとも考えられるが、インターネットを見ていたら「糸島半島の筒木ってどこだ」などと言っている人もおり、浦島太郎の伝説と考え合わせると丹後対馬直接ルートを採用する。丹後・対馬ルートはこのほかに現・舞鶴市女布(古くは禰布<ねふ>と言ったようである)から現・対馬市美津島町根緒のルートもあったようである。当時、丹波(丹後)国からは、最低限、二グループが対馬を経由し朝鮮半島へ渡っていたか。このように考えれば、浦島太郎は、当時、丹波朝鮮交易団の一員と考えられ、とある航海で、ある団員は現地にとどまり、また、ある団員は遭難し行方不明となり、浦島太郎だけが苦労の末出発地に帰還したと言うストーリーがなり立つのではないか。その時は頭は真っ白、顔はしわだらけ、栄養失調で体はよぼよぼになっていたのではないか。平均寿命が短かった時代だろうから、帰ってきたときには周りの人はみんな亡くなっていた。

★丹波国と出雲国

上記の航路を考えてみると、なぜ沿岸伝いに安全な航海をしなかったか、と言うことである。但馬、因幡、伯耆などは小国で特に今で言う紛争のようなことはなかったかと思うが、縄文時代草創期から出雲や丹波は大国で勢力争いがあったのかとも思われる。「ローマは一日にしてならず」と言うが出雲も丹波も長い年月をかけて弥生期以降も覇を唱えたのであろう。しかし、また、両雄並び立たず、とも言い、両国は利害の対立などから避けて海や陸を移動することになったのではないか。当初は漁場(海)の争奪だったのかも知れないが、農業が進展してくると田畑(陸)の争奪、交易が盛んになると儲けの争奪が表面化してきたと思われる。出雲はその立地上中継貿易で利を得ていたのではないかと思料される。具体的には、九州方面から来た舟は出雲に荷物を降ろし、出雲はそれを東の国々へ分配する。また、北陸方面から来た舟は出雲に停泊し、出雲が九州方面へ商いに行くと言う構図になっていたのではないか。こういう貿易形態に対し、但馬・丹波は猛烈に抵抗したのではないか。即ち、九州の舟は、直接、九州から但馬なり丹波に寄港し、但馬・丹波が以東の商いを行おうと考えた。当然、出雲は中抜きになって無用になってしまう。常に沖行く舟を監視し、強制的に出雲に寄港させたと思われる。丹波や但馬が大和の傘下に入ったのは4世紀と言うが、実際は意外に早かったのではないか。但馬や丹波(丹後)に出雲の影響が少ないのもそのためではなかったか。例えば、四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)は但馬、丹波を避けるようにして山陰と北陸に延びている。

★結 論

丹波国が縄文時代から出雲国に対抗して日本海航路の覇を争ったことは間違いないことと思う。与えた影響力は出雲には及ばないものの他の地域勢力と合従連衡して大和政権の拡散をはかったことは大いに考えられるところだ。但馬、丹波に大型古墳が多いのも出雲の四隅突出型墳丘墓に対抗して築造されたものであろう。古代にあっては因幡が出雲の前線基地なら但馬は大和の前線基地で丹波は間断なき後続支援を行っていたのだろう。こういうところが大和朝廷の全国統一につながったのではないか。

カテゴリー: 歴史 パーマリンク

コメントを残す