丸木舟

★はじめに

江戸幕府が開かれようとしていた1600年に、中国の作家マオ・ユァンと言う人は、日本の船は「みじめなほど小さく・・・よく沈む」と評している。日本の船には防水用の充填材として檜皮などが使われていた。17世紀初めに日本に漂着したイギリス人ウィリアム・アダムズ(三浦按針)は、日本には遊覧用の素晴らしい手こぎ船はあるが、それ以外の船は西洋の船に比べ貧弱だとしている。日本人としてはあまり気分のいい話ではない。徳川家康もそう思ったのか三浦按針に二隻の海洋航行船の建造を命じている。九鬼嘉隆が毛利水軍を破った鉄船は何だったのか、と言う思いだが、まあ、こういう話は横に置いといて、輝かしき我が国の上古にあった「丸木舟」の話をしてみようと思う。
丸木舟は刳舟(くりぶね)とも言い、木材資源があるところではどこにでもあるようである。船は 1.浮き 2.筏(いかだ) 3.刳舟と発展してきたもののようであり、木材資源が乏しいところでは葦船、皮船などもあったようである。丸木舟はその形態により三種類ほどに分類される。

1.割竹型(ゲルマン型、メーリンゲン型) 丸太を縦に二つに割り、その面を刳り抜いたもの。スイスの湖上住居跡から多く発見されたので湖沼用と考えられている。日本では日本海沿岸に見られると言う。

2.鰹節型(サセックス型、ローゼンハウゼン型) 独木を刳り抜き、前後両端を尖らしたもの。イギリスの海岸に多く見られ、海洋用らしい。日本では主流の丸木舟で、太平洋・日本海沿岸に見られる。

3.箱型(サントーバン型) 論者の見解は一様ではない。
・一番簡単明瞭なのは、刳り抜き部分が箱型をしているもの。古墳時代以降に出現したと言う。
・舟の中央部に刳り残しを造ったもの。やや意味不明だが次のものを言ったか。
千葉県の残し沼(千葉県匝瑳市米倉)のものは、
窪みの真ん中に横に刳り残しがあってこれがビームを張って船の横張力をつくる代わりにしている。
・補強用に数本の船梁を挿入したもの。
河川、湖で使用されたものか。日本では関東地方に例が多いと言う。一説によれば鰹節型の丸木舟に箱型が少し加わったような地域もあるという。関東地方に丸木舟の出土例が多いというのは、縄文時代の関東平野は湖沼が多かったからか。関東地方の縄文人は外洋にでるリスクを嫌ったものか。
縄文時代では、鑑定をする先生にもよるだろうが 2.鰹節型が多数で 1.割竹型、3.箱型はほとんど見られないそうである。

ほかに、単材で造られているか複材で造られているかの区別がある。

1.単材刳舟 一本の樹幹から造った刳舟。

2.複材刳舟 二本以上の樹幹を組み合わせて造った刳舟。
単材刳舟は説明の必要はないと思うが、単材刳舟が縄文時代前期の出土例があるのに、複材刳舟は古墳時代以上にはさかのぼれない。しかし、弥生時代に大陸伝来の新技術があって根付いたものではないかと思われている。海洋航行には安定面で大型船が必要で、単材刳舟は日本で開発されたとしても複材刳舟は大陸からの技術導入が必要であったのではないか、と言う。その内容は、宮崎県西都原古墳出土の船形埴輪に見られる、船底部に楠の刳舟部材三から四材を削って縦に接合したもので、これに舷側板を設けた準構造船形式の船であったか、はたまた、大阪市平野区長原高廻り2号墳出土の船形埴輪のように船底部は丸太の刳舟でその上に構造体をのせ、丁度、前から見ると鰐が大きな口を開けたような感じに見えるような船だったか。4世紀頃の兵庫県豊岡市袴狭遺跡の線刻画はこのタイプ。こちらは日本で開発されたものか。但し、朝鮮半島の船形の新羅土器には両タイプがある由。なお、接合方法には、植物性釘着と金属製釘着及び前後者を併用した植物・金属併用釘着がある。前者は藤蔓、しろざくらの皮、とど松の根を用いる。後者は鉄釘(平釘、かすがい、縫釘、打釘など)を使う。

★縄文時代の丸木舟は進んでいたの、遅れていたの(拡張型丸木舟)

丸木舟の不便性は丸太より大きな舟は作れないことである。屋久島の縄文杉なら格別、一般の樹木は長さは20m、30mとあっても太さがなく、それを刳り抜いて舟を造ったところで安定性に欠けた。操縦者の資質にもよるだろうがすぐに転覆することもままあったであろう。いくら丸木舟が沈没しないと言っても、乗っている人は大変である。舟を大型化するには 1.複材化する 2.従来の丸木舟を何らかの方法で横に拡張する 3.双胴化する、が考えられる。
複材化は日本でも取り入れられ古墳時代以降は徐々に一般化したようである。しかし、丸木舟を何らかの方法で拡張するという技術は日本の縄文、弥生の時代には考案されなかったようである。世界的にはバルト海のボルンホルム島(ボーンホルム島とも言う)の先住民は1世紀には丸木舟を拡張する技術を持っていた。内容は、丸木舟の両側面の厚さをできるだけ薄くし、そこに熱を加えてつっかえ棒で押し広げ、徐々に長い棒に換えながら舟の幅を広げていったのである。こうしてゆっくりと押し広げると、丸木舟の両端はカーブして上を向く。舟の横幅は元の丸太の2倍まで広がった。日本では焼けた焦げ目のついた丸木舟はたくさん発掘されているが、これは石器で丸太を削る際の前工程で、削りやすくするために焦がしたらしい。

★縄文、弥生人は舟の安定化を望まなかったのか

丸木舟に木の部材を取り付けるようになると拡張への進化の始まりであると解する向きもあるが、ここでは丸木舟にアウトリガーを取り付けたり、双胴船とすることを拡張化の始まりとはとらえず、舟の安定化への始まりと説く。一応、双胴船は舟の安定化とも拡張化ともとらえられるが、まず丸木舟の安定化を図るためアウトリガー(舷外浮材)を取り付けた。アウトリガーはただの丸い木の柱であることが多かったという。最初は二本の木を双方とも丸木舟とはせず、一本を丸木舟に、片方を浮材としたのである。その後、片方のアウトリガーも丸木舟にして(日本の複材化のように二本の木を一体化して一つの舟を造ると言うことは世界的には稀なことだったようである)、二つの舟を1mほど離しておき、間に板を渡した。当然、安定性は増し、甲板が広くとれ、水面下の船体形状を細長くして巡航速度を高くすることができたと思われる。この方法は太平洋の島々で広く用いられたという。ヨーロッパでは1世紀の頃のものというドイツ・ゲッティンゲンのキース湖で発見された丸木舟が写真で見ると日本の鳥浜貝塚第一号丸木舟に似ている。丸木舟の制約上似ていなかったらおかしいと言われればそれまでだが、しかし、鳥浜貝塚の丸木舟は人が乗ったものであろうが、ゲッティンゲンの丸木舟は双胴船の浮力体として利用されたものである。このように日本の丸木舟は諸外国のものと比べ安定化という考えが欠如しているらしく、今のところアウトリガーとか双胴船は発見されていないようである。但し、高句麗好太王碑文には「連船」なる語があり、おそらく「船を連ね」と読みたくさんの船の意味かとも思うが、一方、「連理の枝」などとも言う言葉があり「二つのものが連なっている」とも解せられる。即ち、双胴船を意味するか。

★縄文、弥生人の舟の運航態勢はどうなっていたのか

いくら沈没しないとは言え、すぐにひっくり返るかも知れない丸木舟で安定化装置も付けずに単身で出かけるのは非常に危険である。日本の丸木舟で小規模なものは茨城県常総市小谷沼で発見された長さ90cmほどのものと言うが、これは内陸の小さな、かつ、浅い沼専用の一人用丸木舟だったのではないか。日本人は、おそらく、旧石器時代から外洋航海に出ており、安定化装置もない丸木舟で行くとすれば大型船団を組むより方法はなかったのではないか。袴狭遺跡の線刻画にもたくさんの舟が描かれており、舟の種類も多い。かって、日本人は個々の人間の能力は大したことはないが、グループとなってまとまれば強くなる、と言われた時期があった。船団のなかの一隻がひっくり返ったとしても、丸木舟につかまっていれば、間髪を入れずに周りの舟が助けにくる。このような相互扶助的な考えが安定化装置不要論につながったのではないか。人間を護るものは人間、と言う考えが日本人のDNAに1万数千年にわたってすり込まれて来たのである。南太平洋の人々とヨーロッパの人々が同じような考えをしていて、日本人にそのような発想がなかったとは考えづらい。舟に対する考えや命に対する考えが少しばかり違っていたのだと思う。

広告
カテゴリー: 歴史 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中