蛇のこと

★はじめに

暑いので避暑に行った街の図書館には地元で発掘したという縄文式土器が展示されている。グロテスクな文様に把手に頭がついてそこから下に匍う(垂れ下がる)蛇の彫刻があり、挙げ句の果てに、解説文には「日常の煮炊きに使用されていた土器」とあった。まあ、今の感覚で言うとこんな模様を見ながらよくも煮炊きができるものだと思うとともに何を煮炊きしていたのだろうとも考える。参考書などを見ていると、これは「勝坂(かつさ(ざ)か)式土器(神奈川県相模原市勝坂遺跡)」という由。その特徴を列挙してみると、

1.下腹部が「く」の字に折れて底部に接続している。
2.胎土には、石英や雲母を混入し、器厚は10mm内外で厚手である。
3.焼色は、褐、赤褐、黒褐色。
4. 文様は、粘土の太い紐を器全体に張り巡らすことや彫刻的手法をもって立体的施文を行い、把手も高度に発達し、豪壮の観を加えている。
5.意匠文は、直曲線、渦巻、入り組み、懸垂の各文様をはじめ、蛇体や奇怪な形の文様を取り付け、さらに爪形文、刻目文、縄文などが施され、複雑な総合的構成美を発揮した。

とある。また、「蛇身装飾」について言えば、平凡社・世界大百科事典・「蛇」の項目で、「縄文中期、中部から関東に分布した勝坂式土器には蛇身装飾が多く見られる。この時期、縄文文化は一つの極盛期を迎えたが、なおその生活が不安定で自然に依存したことをこの呪術性に富んだ土器は象徴する。次の弥生文化は再び呪術的な蛇身装飾を表すことはなかった」と筆者は言う。
「蛇」信仰は世界中到るところにあり、ここでは日本の「蛇信仰」について考える。

★縄文時代は地域差の大きな時代だったのか

勝坂式土器が盛行した縄文中期と言えば、代表的な遺跡として青森県の三内丸山遺跡がある。同遺跡からも当然ながら縄文式土器が出土しているが、勝坂式土器同様装飾性の強い土器があり、三内丸山でも「一つの極盛期を迎えた」のであろう。しかしながら、おそらく「蛇身装飾」がついた土器は造られなかったと思われる。その違いは何だったのだろう。前述の世界大百科事典の筆者は、勝坂式土器圏(主として八ヶ岳山麓から現在のJR中央線沿線。具体的には、長野県、山梨県、東京都。ほかに千葉県、神奈川県、埼玉県の一部)が、 1.なお生活が不安定で自然に依存したこと 2.呪術性に富んだ土器(=社会)を挙げる。

日本の歴史書で蛇が記録される物として、記紀の「三輪山説話」がある。三輪氏の祖先は蛇神大物主神であるとするもので、ほかに伝承として豊後の緒方氏(祖母岳大明神の神裔という大三輪伝説がある大神惟基の子孫)や越後の五十嵐氏(五十嵐氏の祖とする五十嵐小文治は「真生が池」の蛇神の子であるという。諸伝あり)がある。しかし、日本の蛇信仰を強く説く論者の見解を子細に観察すると勝坂式土器の蛇身装飾にたどり着くようだ。
したがって、日本の蛇信仰のまとまった地域としては現在の長野県、山梨県、東京都、千葉県、神奈川県、埼玉県が挙げられ、後は散発的に見られるだけである。一応、当時の日本国の首都とも言うべき三内丸山と勝坂式土器圏を比較すると、大きな違いが見て取れる。

三内丸山の交易圏は、北海道白滝や長野県霧ヶ峰の黒曜石、北海道南部の石器原石、新潟県糸魚川の翡翠、岩手県久慈の琥珀、秋田県潟上市のアスファルトなど南北にわたって広範囲に交易がなされている。一方、勝坂式土器圏では千葉県銚子の琥珀、新潟県糸魚川の翡翠が主要交易品で黒曜石は地元で産出された。以上より双方の交易の範囲にもかなりの違いがあったのではないか。

次いで、食料であるが、縄文中期の粟津湖底遺跡(琵琶湖)から出土した土器から当時の食料資源を再現すると、カロリー比率が、堅果類(トチの実など)40%、魚類(フナなど)20%、貝類(シジミなど)15%、獣類(イノシシなど)9%となっている由。諏訪湖に近い八ヶ岳山麓界隈の地域ではこの比率が当てはまるかも知れないが、海からも湖からも離れた内陸部にある現在の山梨県や東京都、埼玉県、神奈川県の西部はどうだったのだろうか。魚類、貝類の比率を足したものが獣類の比率になり、即ち、獣類の比率が35%、魚類、貝類の比率は9%くらいだったのだろうか。しかし、勝坂式土器圏では、土掘り具である打製石斧が多く、植物性食料を砕く道具の石皿と磨石(すりいし)が多いこと、蒸し器や貯蔵器と考えられる形の土器が盛んに使われる、蛇体文、太陽文の土偶、など地母神信仰に結びつく遺物があることから、「縄文中期農耕説」を唱える向きがある。その場合、栽培された植物は、《アワ、ヒエなどの雑穀》《イモ、カタクリ、ユリなどの根茎類》《クリ、クルミ、ドングリ、トチなど木の実》と言うが、確定的なものではない。また、魚類に関して言えば、勝坂式土器の遺跡では阿玉台式土器(おたまだいしきどき)が伴って出土することがあるという。阿玉台式土器の文化は貝塚や漁具を多く残した茨城・千葉の漁労的集団によると思われている。勝坂式土器圏では阿玉台式土器圏から漁業を学んでいたと言うことか。勝坂式土器と阿玉台式土器の分類については元は同じ範疇だったという見解もある。
三内丸山遺跡の食糧事情については、動物ではノウサギ、ムササビなどが多く、シカ、イノシシなどの大型獣は少ない。クジラ、アシカなどの海獣の骨も見つかっている。鳥類では、ガン・カモ類の骨が多く見つかっている。魚類ではブリやサメの推骨が目だつ。毒への対処を必要とするフグの骨も見つかっている。生息環境や漁獲時期が異なる多種多様な魚種が含まれている。縄文人の漁労活動に関する知識の豊富さを伺うことができる。ヤマブドウ、サルナシなどの植物の種子も多量に検出。特に注目されるのはニワトコで、出土状態の検討を通じて酒造りの可能性も考えられている。大型の種実では、クリ、オニグルミ、トチなどの堅果類や栽培植物であるヒョウタンが見つかっている。以上より判断するなら三内丸山では農業・漁業がカレンダーに沿って計画的に行われ、上記に書かれてはいないがサケ・マグロなどの本格的な魚も獲れていたと思う。
三内丸山と勝坂式土器文化圏の決定的な違いは、移動手段が前者は船であるが後者は徒歩である。当然、交易圏は前者は遠くまで延びるが、後者は人間の行動範囲に限定される。食物も前者が魚類を主食にしていたのに対し、後者は堅果類を主食にしていたと思われる。副食も前者が堅果類なのに対し後者は獣類ではなかったか。当時の食糧事情はすべてにおいて不安定ではあったろうが、カレンダーによる計画的食料生産を行わない後者はますます不安定であったと思われる。三内丸山と勝坂式土器文化圏の食事内容についても、栄養価(素)、摂取カロリー、味覚などのどれをとっても三内丸山が優っており、それを元とする労働力、思考力、生産力、文化度などはすべて三内丸山が勝坂式土器文化圏を上回っていたのではないか。その意味では、よく言われる「縄文時代は暗かった」と言うのは、現在のJR中央線沿線地域には当てはまり、「世界は我々のために」などと言うのは青森県の人たちだったのだろう。余談になるが、平成25年4月24日に実施された「平成25年度全国学力・学習状況調査」では小学生、中学生とも上位県は青森県、秋田県、山形県、富山県、石川県、福井県など日本海側(学業の弧)にある県ばかりだ。やはりこれはご先祖様の影響か。「朝食に鮭定食を食べて頭をよくしよう」などというキャッチフレーズを見かけたが、鮭を常食しているのかな。また、一万何千年前かに北海道から津軽半島経由で日本海を南下してきた北海道旧石器人は頭脳明晰な人が多かったのか。その人達が各地に拠点を造りながら沖縄まで行ったのかも知れない。こういうことはやはり先祖代々の能力も関わってくると思う。これに対し、下北半島経由の北海道旧石器人は人数が少なかったか。今のところ大した頭角を現してはいない。行き先も今の関東地方で終わったか。

★結 論

何か古くは蛇を「カガチ」と言ったらしく、カガチのカとミ(身か)から神と言う語ができ、蛇は神であるなどという説もあるようだが、多分、間違いであろう。おそらく、蛇を神とするような信仰はアジアではインドあたりで発祥し、中国を経由して日本に入ってきたのではないか。蛇を信仰の対象とするなら呪術師がいて手品師よろしく蛇を扱うのであろうが、日本にはその種の人は現代にも古代にもいなかったかと思う。日本は蛇の種類も少なくそんな芸達者な蛇なんていない。猿なら「猿回し」と言われる人がいる。あれは、失礼ながら、古代の猿を扱う呪術師の変質したものではないのか。猿は演技巧者なので後世になっても興行的に成り立ったのだろう。蛇はせいぜい神使いが関の山か(大神神社や弁才天)。神社で蛇を祭神としているところなんて聞いたことがない。蛇が役に立っているところでは尊くも思い丁重に扱うだろうが、有害な動物と思っているところでは殺してしまうのである。日本で蛇に有意義性を認めたのは縄文時代の勝坂式土器文化圏の人であってそれも弥生時代に入ると消滅している。話は変わるが、昔、味の素にマムシの粉末が入っていると根拠のない噂が喧伝されたことがあった。勝坂式土器に蛇の彫刻が施されるのも「美味しいご馳走ができるように」と言う一種の呪術のようなものだったか。換言すれば、「蛇」とは今で言う煮干し、昆布、鰹の削り節などのうま味の元だったか。弥生時代になると「米」の調味料は「塩」となり、蛇は要らなくなったのでは。まあ、せいぜい「精」のつくものに変身したか。勝坂式土器文化圏の人って何を主食にしていたのだろう。
前述したように、三内丸山と勝坂式土器に共通することとして、「縄文中期農耕説」がある。前者は科学的分析から言われ、後者は状況証拠から述べられたものである。科学的分析の学説は動かしがたいが、状況証拠説は万人を説得するには少々弱いところがある。平凡社・世界大百科事典の筆者は「なおその生活が不安定で自然に依存したことをこの呪術性に富んだ土器(蛇身装飾の土器)は象徴する」と言って、農耕説を否定するもののようだが、三内丸山より気候温暖とみられる関東平野西部では雑穀類、根茎類、木の実の一部でも栽培されていたのかも知れない。しかし、勝坂式土器文化圏の農耕は科学的に証明されているわけではない。

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