高床式建物

はじめに

先史・古代の高床式建物は、平地や傾斜地に掘立柱を何本(通常、六本という)か建てその上に建物をのせるもので、ほかにも若干異なった形式のものがあるようだ。最初は食糧倉庫として建てられたようで、世界中に散見する。我が国にもシベリア方面から入ってきたものと、長江流域から入ってきたものがある。
シベリアから入ってきたものは北海道、三内丸山遺跡等を経由して日本海側を南下し、主に北陸で使用されたようである。北海道ではアイヌ人が高床式倉庫「プー」なるものを使用していた。北陸では、新潟県村上市のアチヤ平遺跡(縄文中期末から後期)では上段、中段、下段と分かれ、上段には30棟以上の掘立柱建物跡が見つかったという。おそらく、住居と思われるが、あるいは、三内丸山遺跡や吉野ヶ里遺跡の復元建物のように複数の高床式倉庫かも知れない。但し、三内丸山遺跡の高床式建物は用途不明で、東側に大人の墓が続いているのであるいは現在で言う神社仏閣かとも。棟持柱(雪の重みで家が潰れるのを防いだと思われる)があり、あるいは三面川を遡上してきた鮭を床下で加工(燻煙)し、陰干しをして、床上の倉庫に保存したのかも知れない。一般的に、シベリア方面の高床式建物は倉庫というのが通説と言ってもいいが、アチヤ平遺跡の掘立柱建物は何だったのだろう。また、富山県小矢部市の桜町遺跡でも縄文時代中期末葉(紀元前2000年頃、約4、000年前)の遺構から高度な建築技術を示す高床式建物の建築部材と見られるものが出土した。こちらも小矢部川のそばにあり縄文時代に鮭が遡上したかどうかは解らないが、アチヤ平遺跡と年代、環境ともに似たところにある。北陸に高床式建物の遺構が多いのは、おそらく、北方系の高床式建物の主たる目的が鮭の乾物の保存とするなら、当時の鮭が遡上する川の南限が北陸地方であったからであろう。山陰地方の川でも遡上があったかも知れないが、漁獲量が少なく、倉庫に保存するほどのものではなかったのではないか。ただ、出雲大社の神殿が「古事記」で「唯、僕が住所(すみか)をば、天つ神の御子の天津日継(あまつひつぎ)知らす、登陀流(とだる)天(あめ)の御巣(みす)の如くして、底津石根(そこついはね)に宮柱(みやばしら)布斗斯理(ふとしり)、高天原に氷木(ひぎ)多迦斯理(たかしり)て治め賜はば」とあるのは、北陸の高床式建物に似ていないか。アチヤ平遺跡の柱穴は写真で見るとこんな感じ《底津石根(そこついはね)に宮柱(みやばしら)布斗斯理(ふとしり)》ではと思うのだが。即ち、出雲大社の神殿は高床式建物でその起源は縄文時代の高床式建物にあると思う。大国主命も伊達に新潟県まで出張したのではない。
長江流域から入ってきた高床式建物は稲作とともに入ってきたようで、弥生時代に入ってからと言うことになる。北方系の高床式建物に比べるとかなり遅れてきたものと思う。おそらくルートは今の上海あたりから長崎県にやって来た江南の人が稲作とともに米の保管庫として建てたものではないか。今では高床式建物というとこちらを指すが、北方系のそれが鮭の乾物保存というかなり限られた地域のものであるのに対し、穀物(主として米)はほとんど全国を網羅しており、保管倉庫も南方系のものが用いられたであろう。代表的な遺跡としては佐賀県の吉野ヶ里遺跡がある。復元建物としての三内丸山遺跡の高床式建物と吉野ヶ里遺跡の高床式建物との差異はあまりないようだ。無論、青銅器や土器に描かれた絵画を参考に復元するのだから当然と言えば当然かと思う。強いて言えば、長江系の建物は鰹木や千木などの装飾が多かったかと思われる。しかし、北方系の建物にもその種のものはあったと言う説もある。もっとも、装飾と言っても「草葺き《茅(かや)、葭(よし)、藁(わら)などで葺いた屋根》」の時は実用的な部材で檜皮葺や板葺き等になったら装飾品になってしまったものだろう。但し、伊勢神宮神殿は茅葺きだが鰹木や千木がある。その後、高床式建物は貴族の邸宅として、竪穴式建物は庶民の住宅として発展していくのであるが、庶民の建物は、起居等の日常生活は高床式建物、火を扱う台所等は土間というような折衷的な建物(分棟式)にもなっていった。

伊勢神宮の神殿は北方系か南方系か

現存する高床式建物には伊勢神宮神殿がある。式年遷宮と言って二十年ごとに神殿を造替する制度があり古式を伝えている。ここで伊勢神宮の歴史を云々するわけにはいかないが、神宮の長い歴史の中にあって大きな転機になったこととして雄略天皇時代の「豊受大神の伊勢鎮座」がある。これは、一般には、「大神宮諸雑事記」等により雄略天皇に天照大神の託宣が降り、教えのまにまに等由気大神(御饌津神)を丹波の比治から伊勢の山田に遷したという。しかし、これは雲をつかむような話で、とても史実とは思われない。そこで、当時の情勢を鑑みると、雄略天皇にとっては「内憂外患こもごも至る」状態で、内憂は外患の付帯事項かも知れないが吉備、播磨、伊勢などで叛乱が発生したようで、ほかに阿閇臣国見の讒言事件などもある。外患としては、高句麗、新羅との朝鮮半島における覇権争いとでも言うべきもので、日本を支持してくれた百済、任那は最終的に高句麗、新羅に敗れた。雄略天皇は雄略九年三月「新羅への親征を企てたが、神(注1)が「な往(いま)しそ」と戒め、 計画を断念した」。とは言え、雄略天皇は親征の準備は進めていたのであろう。本来なら瀬戸内海航路から朝鮮半島に至るのがベストだっただろうが、何せ行く先々に播磨とか吉備とか負担増アレルギーの国々があり、朝鮮半島に到達する前に敗戦を迎えては何もならないので、日本海ルートと太平洋ルートのいずれかと考えたようである。いずれにせよ渡海をするのであるから船が必要で、丹波の船木氏(京丹後市弥栄町舟木)と伊勢の船木氏(三重県度会郡大紀町船木)に話を持って行ったのであろうが、奈良から距離が近い等何かと便利な伊勢の船木氏に造船を依頼したのではないか。船木氏とは古代の舟木部で造船の用材を伐採する業者だったようであるが、その後は造船も行うようになったようだ。しかし、伊勢の船木氏だけでは国家の大計を実現することは出来ず、各地の船木氏に助力を願っただろう。各地の船木氏は応分の協力をしただろうが、特に、丹波の船木氏は一族を挙げてと言うことになったのではないか。そこで、一族の守護神も一緒となるのであるが、丹波の神社の形態と伊勢の神社の形態とは少し異なっていたようで、伊勢の方は奈良の大神神社と同じく、神殿はなく遠方の山を遙拝するスタイルをとっていたのではないか。しかるに、丹波の神社は既に神殿があり、まず、神殿を作らなくちゃあと伊勢に乗り込んできたら、伊勢神宮の神主から「何をする」と言われ、結局、伊勢神宮にも神殿を作ろうと言うことになり、神殿を作っている間は「等由気大神」は各地の船木氏の間をうろうろしていたらしい。等由気大神は一般的に御饌津神と言われているが、産業神とする見解もある。丹後半島には、賣布(めふ)神社(京丹後市網野町木津女布谷)祭神・豊宇気毘売神、但し、異説あり、とか、賣布(ひめふ)神社(京丹後市久美浜町女布)祭神・豊受姫命ほか。但し、祭神については諸説あり。当社の祭神は船に乗って、女布小字船処に上陸されたという、などと等由気大神とは何やら船に関係する神のようでもある。あるいは、豊受(トヨウケ)とは豊浮(トヨウキ)(注2)のなまったものか。船は浮かばなくちゃあ話にならない。
そこで、このできあがった伊勢神宮の神殿は南方系か北方系かいずれの高床式建物をモデルにしたのであろうか。
伊勢神宮は太陽神を祀るので稲作の神即ち南方系の神と思われている。したがって、南方系の建物である。その具体例を挙げると、
1.千木・鰹木の装飾がある。現在の中国南部や東南アジアの高床式住居にもこの種のものがある。
2.棟持柱がある。棟持柱は弥生時代後期以来の様式だという。
3.神宮の正殿の妻飾りに見られる「鏡形木」(線刻文様・おそらく小窓か小扉の枠)はボルネオ・ダイアク族の民俗品、台湾の古い室内文様に見られる。国内では北九州から中国・近畿を経て伊勢湾北岸にまで達している弥生式の第一様式土器に見られると言う。
4.高床式倉庫の中身は種籾である。種籾は米の精霊だったか。

これに対し、北方系の建物と主張する根拠として、
1.日本には既に縄文時代から高床式建物があった。
2.伊勢神宮の棟持柱は太く、強固なものでこれは北国で使用された実用的なものである。遺跡でも棟持柱は北方系(北陸)の遺跡に多い。
3.伊勢神宮内宮神殿が丹波から導入されたとするならば高床式建物の北方ルート上にある。
4.千木・鰹木・鏡形木などの装飾品はいずれかに決める決定打とはならない。

結論から言うと、おそらく現在の伊勢神宮神殿は北方由来の縄文時代からのものと思う。その理由としては、1)建物に南方系のけばけばしさがない。おそらく、これが南方起源のものならどこかに赤とか黄とか黒などの色が塗られた文様があってもいいはずだ。床の高さ(内宮、外宮ともに2mほど)も当時の丹後半島の積雪に見合ったものではないか。用材の桧(ひのき)も日本と台湾にしかないものとされ南方とはあまり関係がないようだ。鰹木が多いのも(内宮10本、外宮9本)何か防雪を意識したものと思える。建物が堅牢に出来ていて重量感があって、例えば、インドネシア・スラウェシ島にあるトンコナンのように大型ではあるが竹製の軽やかなものではない。

(注1)この神を宗像神という説がある。宗像氏が雄略天皇の軍事力では高句麗を破ることは無理と嫌みたらたらに言ったものか。雄略紀には水間氏(もしくは水沼氏)という宗像氏の対抗勢力が出てくる。実際問題として、朝鮮半島を経由して中国に渡るのは難しくなったので水間氏に筑後川河口から上海に至る上海航路を開拓させたものと思われる。雄略天皇としたら上海航路が軌道に乗った暁には、宗像氏など蹴散らかしたかったのであろうが、それもかなわなかったようだ。

(注2)小学館 「日本国語大辞典」第二巻によれば、《上代から近世・近代初期まで、下二段他動詞「うく」の連用形名詞「うけ」が使われていた。「うき」は近世後期から用例が認められる》となっている。これから推察すると「豊受(とようけ)」とは船を賛美したものであり、言われているような「御饌津神」ではなく船木氏が将来した船舶の神ではないのか。伊勢の天照大神と丹波の御饌津神がにわかに結びつかない、と言うが、本来何のむすび付きもない神同士であったかとも思われる。

広告
カテゴリー: 歴史 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中