隼人族のこと

はじめに

鹿児島県の隼人族は「薩摩隼人の祖先は、南九州に漂着し、漁業をなりわいとしたインドネシア人」とか、あるいは、「ミトコンドリアDNAの塩基配列置換数を調べたところ、浦和1号(旧浦和市で発見された5900年前ほどの縄文人という)の配列は、現代日本人以外のアジア人29人中、東南アジア人2人(マレーシア人とインドネシア人)とまったく同じということが明らかとなった」とか、日本人とインドネシア人とは何やら先祖を同じくする人種(海幸彦山幸彦神話)とも思われるような話だ。後者は例も少ないのでまだ不安定な見解とも言えるが、隼人族については古来よりほぼ現在の鹿児島県一円が隼人族の占有下にあったと思われ、「和名抄」の「薩摩国」13郡の内「出水郡」と「高城郡」の2郡を除いては隼人族の勢力下にあったようだ。素朴な疑問として、この人達は一体どこから来たのだろう、どのようにして勢力を拡大したのだろう、とふつふつと沸いてくる。隼人族に関しては、その起源を上記インドネシア人とする説のほか、朝鮮半島由来の人という説もある。あるいは、台湾などの南方説もあるようだ。しかし、多数説はインドネシア系人種説とするも明らかではないとする。一応、インドネシア人とされる人々は台湾やフィリピンの島嶼にも住んでいたようだ。インドネシア人とは、いわゆる、広い意味で南方系の人なのだろう。隼人族朝鮮系説では秦氏を名乗っていたと言うが信じがたい。また、インターネットのウェブ・サイトを見ていると中央アジア・キルギス人説のごとき見解もあるが考えられない。

隼人族の痕跡は

当然のことながら、隼人族の由緒来歴を記す文献はありません。遺跡では鹿児島県には9500年前と言われる「上野原遺跡」がある。
9500年前の遺跡からは「2条の道筋に沿った52軒の竪穴住居群を中心に,39基の集石や16基の連穴土坑などの調理施設をもった集落(ムラ)が発見されました」とあり、
7500年前には「ひとつの穴に丸と四角の口をもつ2個の壺型土器が完全な形で埋めてありました。また,その周りには壺型土器や鉢形土器を埋めた11か所の土器埋納遺構と石斧を数本まとめて埋めた石斧埋納遺構が見つかりました。土偶や耳飾りも発見された」
6000年前には「この時期の住居跡は発見されてはいませんが,台地の南側ではおとし穴と集石遺構がみつかりました」とある。
この遺跡の住人を概括するなら、9500年前の集石遺構については「旧石器時代の集石遺構については、炉とされるものと墓地( 集石墓 )とされるものがある」とあり、連結土坑については「燻製製造装置」と考えられている。7500年前の遺跡から発見された土偶などと考え合わせるとこの遺跡の住人は9500年前、7500年前ともに「北方系」の人と考えられ、南方系とされる「隼人族」の遺跡とは考えられない。理由は燻製製造装置と考えられる連結土坑や土偶は北方系文化由来のものであり、隼人族はかなり後発の人々ではなかったか。
隼人族の考古学的遺跡で顕著なものは墓制で「隼人の墓制は三種類あり、薩摩半島南部の「立石土壙墓」(阿多隼人の墓と推測される)と「地下式板石積石室」(薩摩半島より北域)、そして広域に分布する「地下式横穴墓」となる」といい、ほかに「蛇行剣」、「隼人由来の鐵族」、「隼人楯」(独特の逆S字形文様が描かれている)などがあるが、かなり先行すると思われる上野原縄文人と比べると格段に見劣りがする。
以上を総括すると「隼人」とは、1.台湾の島嶼に住んでいたインドネシア人(数十人は見込まれるか)で島嶼での生活が困難になり、台湾、先島、沖縄、薩南の諸島を経由して(スンダランドという人もいるが疑問)現在の鹿児島県に到達した人か、2.中国江南の人と一緒に日本へやって来たインドネシア系の人が人種の違いからへんぴな九州南部へ追いやられたか、いずれかではないか。また、隼人を元々日本列島にいたと思われるY染色体ハプロタイプC1に当てる人もいるが現在の鹿児島県人の男性多数がC1とでもならない限り、その説はとりがたい。

南は南、北は北

日本人の起源や風俗をめぐっては南方起源説が多いように見受けられるが、隼人族のように日本の南部に住む人にとってはそういう見解でもいいだろうが、日本は北半球にあり、南方的生活様式や南島的言語・習慣ばかりを取り入れてはどうなるのであろうか。まずもって、日本の早期の生活用品である、ナイフ型石器、細石器、土器、土偶、あるいは、竪穴式住居などは北方起源のものであり、北海道から九州まで満遍なく行き渡っている。細石器と土器はセットで導入されたという説もある。南方起源説では、風俗(「貫頭衣」「高床式住居」「しめ縄」「伊勢神宮」「歌垣」など)、言語(戦前はアルタイ語系説だったが、戦後は南島起源説)、貝文化(南島では生活用具に、列島を北上するにつれ装身具となった)などがある。米(こめ)の本流は江南から来たかと思われ、それらの人々が携えてきたものの中には日本に定着したものもある。とは言え、それは日本人の生活の部分的なものではなかったか。また、日本人についても、埴原和郎氏の「二重構造」説では、南方系の縄文人が住んでいる日本列島に、朝鮮半島から九州北部へ北方系の弥生人がやって来て、縄文人は北と南に分断され、日本列島の北と南には南方系縄文人のアイヌと琉球人が残った、というものであるが、弥生人が縄文人を南北に追いやったというのはいかがなものか。当時の日本では、おそらく、北海道と沖縄は水田稲作不適地であったのではないか。即ち、北海道は寒冷地で気温が稲作に適せず、沖縄は土壌(赤土)が稲作に適さなかったのではないか。当然のことながら、そんな稲作に適さないところへは弥生人は行かない。沖縄はともかく、北海道は広大な土地があるので漁業や牧畜業でも行えば、と言うかも知れないが、半農半漁だった人ならいざ知らず、米作り専門の人に漁師になれと言っても難しいのでは。また、牧畜業も当時の方法ははっきりしないが一説によると、繁殖は本人が行うかも知れないが、乳離れしたら野に放ち、適度の大きさに成長したら犬にかき集めさせるというもので、割とノウハウのいるものではなかったか。専業では難しいような気がする。それに、縄文人は優れて北方系の人であり、埴原先生が言うように「北方系の弥生人」なら日本には南方系の人は少ない。松本秀雄博士の「日本の南方系の人は7%くらい」も宜なるかなである。

結 論

隼人族は鹿児島県にまとまっている日本では数少ない人種とでも言うべき人々だ。インドネシア系の人々と言われながらも内実は不明とするのが通説のようである。最後まで大和朝廷に反抗した人々としても気骨のある人々だ。あるいは、西郷隆盛さんも隼人族だったかも知れない。西南戦争でその気概を示した。アイヌ民族とともにだんだん少なくなっていくのかとも思うが、かって日本の歴史に名を残したようにがんばりを効かせて欲しい。

(補記)
貝文土器
貝文土器の起源についてはa)中国江西省(2万年前の土器と推測される)から長崎県佐世保市泉福寺洞窟遺跡・福井洞窟遺跡を経由して上野原遺跡に到着したものかb)青森県外ヶ浜町大平山元I遺跡(おおだいやまもといちいせき)から直接上野原遺跡に伝わったか、大まかに二ルートほどが考えられる。また、貝文土器の分布地域が九州本島の熊本県南部、宮崎県南部、鹿児島県全域、種子島、屋久島となり、後世の隼人族の勢力地域と重なるとされ、隼人族と関係があるのではとか、発生期は縄文時代草創期・早期と言い、東日本の縄文土器とは別のものとする。貝文土器の特徴としては、貝殻を押し付けた模様や、貝殻で引かれた幾何学模様などが描かれている、平底で、円柱・角柱形をしている、などとある。これに対し、縄文土器は、当初は炉に突き刺して煮炊き用として用いられたため、丸底が多く、縄文時代早期には尖底土器があらわれる、前期になると平底が一般的になり、器種が増加する、とあるが、縄文土器は時代や地域によって生業や生活様式が異なると形態も変わったようである。例えば、上野原遺跡の発掘物を見てみると、9500年前には「2条の道筋に沿った52軒の竪穴住居群を中心に,39基の集石や16基の連穴土坑などの調理施設、前平式土器(貝文土器)」が発見されました、とあり、これらの遺物から想像される上野原縄文人の生活は、食事は集石施設を囲んで屋外で行ったようであり、連穴土坑は雨季などの屋外で食事が困難なときに備えて食材を貯蔵用に加工する設備で、平底、円柱、角柱の土器に保存したものか。以上より判断するなら、貝文土器文化圏とは縄文時代にあったとされる九つの文化圏の一つと見做していいのではないか。確かに、平底、円柱、角柱の土器はいかにも貯蔵用土器とも考えられないではないが、これは土器がたどってきた道が北から南であり、その気温差がなせる技ではなかったか。

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