崇神天皇の説話は寄せ集めか

はじめに

「魏志倭人伝」によると卑彌呼、壹与の両女王の共立の前には「乱」とか「誅殺」とかがあったと記している。こじつけと批判されるかも知れないが、日本の記録と照らし合わせると崇神天皇の御代に武埴安彦命(崇神天皇の叔父か)の謀反と垂仁天皇の御代に狭穂彦命(皇后の兄、垂仁天皇の従兄弟か)が叛乱を起こしたことが記されている。これも曲解かも知れないが、当時は相続に明確な慣習等(例として、長子相続、末子相続、姉家督、親の選定等)がなく、先代が亡くなると一族で争い(地位の相続より財産目当ての争いか)が勃発したのではないか。特に、大王家ともなると相続する財産も相当なものになり、紛争も長期かつ大規模なものになったのではないか。武埴安彦命の謀反では武埴安彦命は山背から、その妻吾田媛命は大坂からともに都を襲撃しようとした。天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)を遣わして吾田媛命勢を掃討し、武埴安彦命勢には、大彦命と彦国葺(和珥氏の祖)を派遣し、これに勝利した。当時としては大がかりな戦闘だったと思われる。また、狭穂彦の叛乱では狭穂彦軍と天皇軍の戦いになっていて「魏志倭人伝」の「当時、千余人を殺す」というイメージに合わないがいかなる理由からであろうか。いずれにせよ、日本側(記紀の記録)では天皇家の内紛という話なのに、中国側(「魏志倭人伝」の記録)では大規模な全国的な紛争と解していることである。その中間の中国側は大袈裟で日本側は書き足りないということなのか。但し、崇神天皇は後継者紛争を断つべく、崇神48年1月、豊城命(豊城入彦命)と活目命(垂仁天皇)を呼び、一種の夢占いをして、4月、弟の活目命を皇太子とし、豊城命に東国を治めさせた。しかし、息子同士の争いはなかったかも知れないが、狭穂彦という現代の法律では相続権がないような訳のわからぬ人物が出てきて天皇家をかき回したことは前述した。中国の史書に言う「倭国大乱」は当の倭人は原因もわからずに戦っていたのかも知れない。

崇神天皇とは

記紀の崇神天皇の説話にはほかの天皇と類似する話が多い。例えば、
1.上記の武埴安彦命(崇神紀)と狭穂彦命(垂仁紀)の叛乱。いずれも天皇の近親者が叛乱を起こしている。
2.任那国の蘇那曷叱知(そなかしち)(崇神紀、垂仁紀)と意富加羅国の皇子都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の説話(垂仁紀)。
3.倭建命による出雲建殺し(景行紀)と出雲振根による弟殺し(崇神紀)。
4.菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と互いに皇位を譲り合った仁徳天皇(仁徳紀)と豊城命と活目命との皇位継承譚(崇神紀)。
5.依網池(よさみのいけ、大阪市住吉区)や軽(奈良県高市郡)の酒折(さかをり)池などの池溝を開いた。他の多くの天皇に類似の話が散見する。
6.倭大國魂神を祀る神主は渟名城入媛命(崇神紀)なのか渟名城稚姫命(垂仁紀)なのか。両者を同一人物とするのが多数説のようだが、本当か。

以上より考察すると崇神天皇の説話には他の天皇の説話を寄せ集めたものか、はたまた、事実だったのかは、いずれとも決定しがたいが、疑問詞のつく話も多い。
例えば、崇神天皇5、6、7年頃は、疫病が流行り、人民の半数以上が亡くなった(5年)、後世に言う百姓の逃散、逃亡、一揆の発生(6年)、大物主神を祀って疫病は終息(7年)と言うが、そんな状態で武埴安彦の叛乱を抑えたり(10年)、四道将軍を派遣して天下を平定(11年)できたのか。但し、当時は兵員は現地召集だったようで、主に今の奈良県で発生した疫病と遠征地は関係がないのかも知れない。
蘇那曷叱知と都怒我阿羅斯等の説話に関しては諸説(同一人説が有力)があるが、中国の記録によれば日本人(当時は倭人)は西暦57年に「倭の奴国王が後漢に入貢し、光武帝より「漢委奴国王」の印綬を下賜される」とあり、107年には「倭国王帥升ら、後漢の安帝に生口160人を献上する」とあり、何も視野の狭い任那国の朝貢の話を持ち出すまでもないのではないか。我が国に対する最初の朝貢使節といえばそれまでだが、その前にもその種の人は来ていなかったのか。倭建命による出雲建殺し(景行紀)と出雲振根による弟殺し(崇神紀)は、どちらも水浴に誘って偽の刀とすり替えて騙し討ちするもので、物語の本筋は同じ。どちらかが原作でどちらかが改変であろう。

景行天皇五十五年二月、五十六年八月条は崇神天皇四十八年条の続きか

崇神天皇は後継者を夢占いで選んだのであるが、48年4月活目尊を皇太子に、豊城入彦命を東国に追いやったのである。多数説はこの話の続きが景行55年、56年の説話と言うもののようである。あるいは、彦狭嶋王と子の御諸別王の説話は「古事記」にはなく、上毛野君の遠祖八綱田(垂仁5年10月)などとあるので、上毛野氏の伝承によるものか、という見解もある。ところで、八綱田だが狭穂彦討ち取りの功により「倭日向武日向彦八綱田」と呼ばれたという。(垂仁5年10月条最後部)しかし、この話は少しおかしいのではないか。まず、「日向」だが有名な伊弉諾尊が黄泉の国から戻り「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(をど)の阿波岐原(あはきはら)」で禊ぎをしたとなっており、そんな神代の昔から筑紫や日向はあったのか、という思いだが、景行17年3月、景行天皇は丹裳小野に遊び、「是の国は直く日の出づる方に向けりとのたまう。故、其の国を号けて日向という」、と。つまり、日向というのは景行天皇が名付け親ではないか。即ち、八綱田の武勇譚は本来は景行天皇にまつわる話だったが垂仁天皇の説話に紛れてしまった。それに、「倭日向武日向彦八綱田」の「武」の字だが、これって元々九州の熊襲族の尊称かカバネで景行天皇が熊襲梟帥から仕入れてきたものではないか。景行天皇の周りには日本武尊、吉備武彦、大伴武日、武内宿禰など「武」の付く人が多い。このことからも八綱田は景行天皇の元で功を上げた人と思う。また、「綱田」姓も九州が発祥の地か。八綱田は何か景行天皇が九州遠征した際に勲功を上げた人のように思われる。「姓氏録」では、和泉皇別に「登美首」「佐代公」同祖。豊城入彦命男・倭日向武日向彦八綱田命之後也、とあり、また、御諸別王を豊城入彦命の三世孫とする。和泉皇別に「珍県主」、摂津皇別に「韓矢田部造」などを上げる。系図でも豊城命→(不明)→彦狭嶋王→御諸別王と書くのが学者先生の大方の見解で、(不明)の中に八綱田を入れるのはインターネットの人が多い。あるいは、八綱田と御諸別王は系統が違うようだ。それにしても、東国で勲功を上げている人の子孫が和泉国とか摂津国にいるのはどういう理由からなのか。八綱田は都での勲功なのでそれでもいいが、御諸別王は景行56年8月条に「其の子孫(豊城入彦命の子孫)、今に東国に有り」とあり、和泉国とか摂津国とは合わないのではないか。以上を総括するならば、崇神四十八年条と景行五十五年二月、五十六年八月条は何ら関係のない話ではないのか。崇神四十八年条は崇神天皇が豊城入彦命を活目尊の障害にならないように東国へ追いやったものであり、景行五十五年二月、五十六年八月条は景行天皇が自分の息子達と前天皇(崇神)の子・孫とが無用の争いを起こさないよう崇神天皇の子や孫を東国へ派遣したのではないか。

結 論

崇神、垂仁、景行の三天皇の関係をみるといずれも血縁関係にはなく、現代流に言う自薦他薦かは解らないが別々の理由から大王になったものと思われる。しかも、「魏志倭人伝」では崇神、垂仁はおそらく「官」の一人であり、倭国の王統に属する人ではなかったのではないかと思われる。当時の日本の王家は神武天皇に始まる家系で「卑弥呼」「台与」あたりでその家系は廃絶したようである。神武王朝は王権の経済基盤が弱かったのか。後継者(欠史八代の天皇か)は一族で財産を争い、臣下には禄高が少ないと不平を言われ、踏んだり蹴ったりだったのではないか。
天皇の順位も問題だ。記紀では、崇神→垂仁→景行となっているが、おそらく、実際は、垂仁→崇神→景行とつながっていったのではないか。またまた、「魏志倭人伝」を持ち出して申し訳ないが、「官に伊支馬(いきま・いくめ?)あり、次を弥馬升(みます・みまつ?)といい、次を弥馬獲支(みまかき・みまき?)といい、次を奴佳堤(なかて・なかつ?)という、とあり、伊支馬は「いくめ」の音に近く、弥馬獲支は「みまき」の音に近いことと、崇神天皇四十八年条と景行天皇五十五年二月、五十六年八月条をスムーズに連続して解するには崇神→景行とした方がいいのではないか。記紀における垂仁天皇段の起源譚の多くは事実とは認めがたいという見解が多く、垂仁天皇の実在を疑う見解もある。しかし、私見では初期の天皇の記録は口承では限界があり、伝説の域を出ないのではないか。その点、崇神天皇も同じで、一応、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)となっていたので後世の記紀編纂者があちこちからほかの天皇の説話などを寄せ集め美々しく飾ろうとしたのではないか。いずれにせよ、崇神、垂仁、景行の天皇が架空説は成り立ちがたく、三帝が都をおいたり陵墓を築いた「山辺の道」は当時の主要街道であり、道の両側には豪邸が並び、おそらく、「魏」の外交使節もこの道を通って卑弥呼女王の宮殿へと向かったのではないか。

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