倭大國魂神について

はじめに

御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称せられた崇神天皇の御代には天皇家にまつわる神が三柱あったらしい。(但し、「日本書紀」での話)そのうち二柱は、天皇の大殿の内に並び祭った「天照大神」と「倭大國魂神」であり、もう一柱は崇神七年二月、天皇がそれまでの疾疫、逃亡等の災害を愁え卜占したところ「倭迹迹日百襲媛命」が神がかりして告げた「大物主神」である。「天照大神」は説明を要しないであろうが、「倭大國魂神」について若干補足する。

倭大國魂神とは

国魂神とは令制国以前の国造が支配した国(くに)の地主神即ち国土そのものの霊格を信じて神としたものであり、その後、令制国が制定され国魂神は整理統合されて大国魂神となったもののようである。あるいは、大国主神の名が先行していたので大国魂神は大国主神と同じと言う説もある。したがって、崇神天皇の時代に「大国魂神」というのはおかしいとご意見を述べる人がいるかとも思うが、一応、当時の纏向ではなにがしかの対立があったようで、以下は「日本書紀」の「天照大神」対「倭大國魂神」の見解に従う。そこに割って入ったのが大物主神である。「延喜式神名帳」にも大和国のほかに五社ほど国魂(国玉、国霊)神社(尾張、陸奥、淡路、遠江、土佐)がある。当然ながら、「倭大國魂神」に関しては諸説あり、主なものは 1.大年神の御子、大国御魂神 2.大国主神 3.大己貴神の荒魂(「大倭神社注進状」では大倭神社は出雲国杵築大社の別宮という)などである。また、「天照大神」と「倭大國魂神」の関係だが、現代流に言うと「天照大神」が上級管理職(社長、専務取締役、平取締役)と「倭大國魂神」が中間管理職(部長、課長等)の違いかと思う。両神が「天皇の大殿の内に並び祭った」と言っても同格の神ではなかったと思う。「倭大國魂神」は天皇家にも祀られた神と言うことで、以下、「日本書紀」からその事跡を拾うと、

崇神六年
「是より先に、天照大神・倭大國魂二神を天皇の大殿の内に並祭る。然して其の神の勢を畏れて、共に住みたまうに安からず。故、天照大神をもては 豊鍬入姫命に託けまつりて、倭の笠縫邑に祭る。仍りて磯堅城の神籬を立つ。亦、日本大國魂神を以ては、渟名城入姫命に託けて祭らしむ。然るに、渟名城入姫、髮落ち体痩みて祭ること能はず」

崇神七年八月
(倭迹速神淺茅原目妙姫 穗積臣遠祖大水口宿禰 伊勢麻績君 三人、共に夢を同じくして)
「大田田根子命を以て、大物主大神を祭ふ主とし、亦、市磯長尾市を以て、倭大國魂神を祭ふ主とせば、必ず天下太平ぎなむ」

崇神七年十一月
「即ち、大田田根子を以て、大物主大神を祭る主とす。又、長尾市を以て、倭大國魂神を祭る主とす。然して後に、他神を祭らむと卜ふに、吉し。便ち別に八十萬群神を祭る。」

垂仁二十五年三月
(倭姫命、神の誨の隨に、天照大神を伊勢國の渡遇宮に遷しまつる)
是の時に、倭大神、穗積臣の遠祖大水口宿禰に著りたまひて、誨へて曰はく、「太初の時に、期りて曰はく、『天照大神は、悉に天原を治さむ。皇御孫尊は、専に葦原中國の八十魂神を治さむ。我は親ら大地官を治さむ』とのたまふ。言已に訖りぬ。然るに先皇御間城天皇、神祇を祭祀りたまふと雖も、微細しくは未だ其の源根を探りたまはずして、粗に枝葉に留めたまへり。故、其の天皇短命し。是を以て、今汝御孫尊、先皇の不及を悔いて愼み祭ひまつりたまはば、則、汝尊の壽命延長く、復天下太平がむ」とのたまふ。

問題となるのは上記の「垂仁二十五年三月」条の一文であるが、これを恐喝と解する向きもある。まずは、抽象的概念の神がこんなことを言うはずもないので、誰か人間が大水口宿禰に吹き付けたものと思われる。倭姫命が天照大神を伊勢国へ遷してしまったので、倭大國魂神はどうなるかだが、崇神七年十一月条に「他神を祭らむと卜ふに、吉し。便ち別に八十萬群神を祭る」とあり、穴礒邑の大市長岡岬とかに祀られていた倭大國魂神は八十萬群神と同格になり、それまでの特権はなくなると言うことか。それで納得しないのは「市磯長尾市」ではないか。彼は、倭国(令制国以前のもの)の国造兼大和神社の神主であり、後世の官社の神主と同様、天皇家から厚遇を得ていたのではないか。長尾市としては自分の窮状を大水口宿禰に訴えただけなのだろうが、日本書紀の作者は神の託宣のごときものに格上げした。「其の天皇(先皇御間城天皇のこと)短命し」などとあり、「日本書紀」注釈者から「時年百二十歳」とあるので短命というのは合わない」と批判されているが、要するに、天皇の年齢の改ざん者と本文の著作者の連絡不徹底でボロが出たのでだろうか。意外と崇神天皇は疾疫などのため短命だったのかも知れない。この話には後日譚もあり、おそらく大水口宿禰は長尾市の訴えを垂仁天皇に取り次ぎ、話を聞いた天皇がグダグダ言う長尾市を敬遠したのか、今で言う人事異動により長尾市を辞めさせ別人を大和神社の神主にしようと中臣連祖探湯主に「誰に大倭大神を祭らしめむ」と卜わせ、紆余曲折を経て最終的にはめでたくも大倭直祖長尾市宿禰となり、長尾市は失職をせずに済んだのである。即ち、倭大國魂神のご託宣とは「市磯長尾市」の言なのである。別に倭大國魂神が恐喝魔でもなく、自分の行く末を心配しただけなのである。似たような話が崇神紀と垂仁紀にあるがどちらが正なのであろうか。

大物主神について

「古事記」では、三輪山の神(大物主神)は大国主命に「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と言ったという。
「日本書紀」では、一書では大国主神の別名としている。
「大神神社」では、大国主神が自らの和魂を大物主神として祀ったと言う。
以上は、大国主神と大物主神を同一神にしようと腐心しているのであるが、一方で、大物主神は蛇神(「日本書紀」倭迹迹日百襲媛命との説話)であり水神または雷神としての性格を持つ。一般的な御利益としては稲作豊穣、疫病除け、酒造りなどの神として篤い信仰を集めていると言う。
一説によれば、大神神社は山岳信仰の古神社で、三輪山そのものを神体(神体山)とし、本殿をもたず、拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(自然を崇拝するアニミズム)の神社で、三輪山信仰は縄文か弥生にまで遡る、と言う。無論、そういう時代には「大物主神」などという概念はなかったであろうから、祭神「大物主大神」は後世の付会であろう。現在も本殿がなく拝殿から遙拝するということなので、大物主大神のご子孫である大神神社神主家は格別、その余の者は疑問を持って参拝しているのか。
「大物主大神」と言う神の概念が元々なかったとすると、他所からそういう概念を取り込んだと言うことである。それはどこかというと、大和にまず先進文化をもたらしたのは出雲と考えられる。ほかに大和に影響を与えたのは吉備ではあるが、吉備は大和に精神文化の面ではあまり影響を与えていないようである。現実問題としても、大和には出雲出身の神の神社はたくさんあるが、吉備出身の神の神社というのはほとんどない。また、天照大神を祭神とする神社より豊受大神を祭神とする神社が多い。天皇家が信仰する神と庶民が信仰する神には差があったようで、現実の利益を追求した庶民と鎮護国家的発想の朝廷とではかなり違いがあるようである。
以上より判断するならば、大神神社の祭神「大物主大神」とは出雲からもたらされたものであり、その原像ないしモデルは大国主神となるのではないか。実際問題としても、大和軍に負けた大国主神は神武天皇に豪邸(現在の出雲大社)を建ててもらったものの、事代主命をはじめ息子や娘はみんな大和へ引っ越して話し相手がいなくなった。そこで、大国主神も大和へと遊山に出かけたものの、事代主命にしかられて三輪山の中腹に居宅を建ててもらい夜な夜な人里へ出かけたのではないか。記紀にある三輪山伝説の話も何やらその種の話に思えてならない。大国主神は相当のご高齢であるいは大和で亡くなられたのかも知れない。とは言え、大国主命と崇神天皇は時代があわないと思う。記紀にある、いわゆる、三輪山伝説の説話は空想の産物か。

結 論

「日本書紀」では天照大神と倭大國魂神の対立のように書かれているが、天照大神は後世の加筆で、おそらく、大物主神と倭大國魂神の信奉者の対立だったのだろう。「魏志倭人伝」に書かれている「官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮」とある、四人の人物は元は吉備国の人達(国造に相当する人たちか)で言葉は悪いが吉備国から邪馬台国(大和国)に寝返った諸豪族ではなかったか。これらの諸官人が支持したのが「大物主神」(出雲系の神)で卑弥呼以下の邪馬台国(大和国)の人が支持したのが「倭大國魂神」(産土系の神)だったのではないか。さすれば、「事鬼道能惑衆」の「鬼道」は古神道のことか。また、「能惑衆」の「惑」も統治能力のことを言ったものか。そもそも、崇神、垂仁の吉備国には吉備津彦命系の神社が現在の総社市や岡山市にあったかも知れないが、崇神・垂仁が支配した国には宗教らしい宗教はなく同盟国の出雲国の神を祀ったものか。
「魏志倭人伝」には書かれていないが、当時は、卑弥呼女王系の大和の国人と外来者の諸官人とは大袈裟な対立とまでは行かないものの何かしっくりと行っていなかったのではないか。
倭大國魂神の大和神社における現在の役割もパッとしないものだ。大和神社の本殿は中央が大和大国魂神、向かって右が八千戈神、左が御年神となっているのだが、例祭で八千戈神にまつわると思われるもの(1月4日「御弓始祭」)、御年神にまつわると思われるもの(節分の日「粥占祭」、3月10日「御田植祭」、二百十日「風鎮祭」)、不明(4月1日「ちゃんちゃん祭」、5月1日「神楽祭」) となっている。主祭神と思われる神の例祭や大祭がないのはどういうことなのか。天照大神にせよ倭大國魂神にせよ大和国しいては天皇家とはあまり関係がなかった神ではなかったのか。天照大神は九州北部の人と思われ天武天皇の時代になって急に皇祖神に祭り上げられたような感じだ。

広告
カテゴリー: 歴史 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中