豊比咩命神社と豊比咩神社

はじめに

延喜式神名帳には、筑後国三井郡に名神大社で「豊比咩神社」と豊前国田川郡に小社で「豊比咩命神社」という神社があり、この両豊比咩が同一神(人物)かどうかが問題である。なお、筑後国の豊比咩神社には論社が数社あるが(例として、豊姫神社・本山天満神社の境内社・久留米市上津町、豊姫神社・久留米市北野町大城、赤司八幡神社・元豊比咩神社だったが八幡宮を合祀し、八幡神社となる・久留米市北野町赤司など)、ここでは便宜上現在は高良大社に合祀されている豊比咩神社とする。豊比咩神社は「延喜式神名帳」では名神大社とされているものの中世には実情は不明となり、「文徳天皇実録」天安二年(858)五月十四日条によると、「比咩神は高良玉垂宮の正殿とともに失火にあった(先是。高良玉垂神。及比咩神等正殿遇失火。)」とあるので、高良大社と豊比咩神社は相殿もしくは接殿で、当時の豊比咩神社は高良山にあったと言う見解が主流である。

豊前国田川郡の豊比咩命とは

名前の由来は香春三山三ノ岳の山名・豊比咩命に由来するものであろうが、この山名はいつ頃名付けられたものなのだろうか。おそらく赤染氏が台頭する以前に存在した豪族の時代、景行天皇の時代以降応神天皇の時代までには名付けられたのではないか。豪族も赤染氏になるまでは複数の家があったのではないか。最初の豪族はご近所に「竜ヶ鼻」なる山もあるので「鼻垂」か。但し、日本書紀では麻剝(あさはぎ)が高羽(たかは)の川上にいるとあって「高羽(たかは)」は今の「田川」と思われるので、「豊前国風土記」逸文が説いてやまない清河原村にいたのは「麻剝」か。
ところで、「豊(とよ)」の語源だが、多数説は「響(とよむ)」が語源といい、豊国の語源も現在の行橋市にある、長峡川(ながおがわ)、今川(いまがわ)、祓川(はらいがわ)が奏でる(響む)音からによるものである、と言うもののようである。それも一理はあるが地名の多くは地形とか、地質とか、その種のものによって名付けられることが多いのではないか。しからば、音を語源にした地名というのはあるかも知れないが(長野県の発哺(ほっぽ)温泉、温泉の湧き出すポッポ・ポッポという音と言う)、あまり聞かないところではないか。そこで「豊」の一般的な語源は別として地名語源を土地に即して考えてみると、
「豊」は万葉仮名で「登与(とよ)」と書き、いわゆる甲類、乙類の分類ではいずれも乙類に入るそうな。そこで乙類「ト」で始まる言葉を探してみると「トコシヘ(永久)」、「トハ(永遠)」、「トトノフ(整う)」、「トノ(殿)」などがあるようで、乙類「ヨ」は「ヨ(世)」、「ヨ(代)」、「ヨ(節)」などがある。いずれの語(ト、ヨ)も「個」が連続してつながる意味ともとれる。「トコシヘ(永久)」、「トハ(永遠)」は説明を要しないだろうが、「トトノフ(整う)」は個々が重なり合って整然と並ぶの意味か。「トノ(殿)」ははっきりしないが個々の家が規則性を以て建てられていたというのか。「ヨ(世)」、「ヨ(代)」は此をもって彼にかえ、後をもって前を継ぐの意と言い、年月がつながって行くものを世、代と言うと。また、「ヨ(節)」は竹や葦などのフシとフシの中間、つまりつなぎ部分を「ヨ」と言うと。
以上の「豊」の語義より地名を考えるなら、山また山の山脈、山地、山塊あるいは田また田や原野また原野の平野のことを言うのではないか。したがって、香春岳の豊比咩命神社の「豊」は山脈とまではいかないものの山地もしくは山塊の意味か。故に、豊比咩命は地元の豪族(鼻垂か麻剝のいずれかか)の娘であって香春神社が主張する「第三座豊比売命は、神武天皇の外祖母、住吉大明神の御母にして、第三の岳に鎮まり給ふ」は当たらないのではないか。神武天皇の外祖母とは豊玉姫命を言っているかとも思うが、綿津見の国とは「豊の国」と言いたいのか。しかし、海人族がどうして山に登るのか。香春三山が何か航海の目印にでもなったのか。また、住吉大明神などという言葉も見えるが住吉三神のほかにそんな神がいたのか。所々に住吉大社とは関係のない住吉神社(例として、京都島原、島原住吉神社、住吉屋太兵衛の創祀による)もあるようだが、この文章はそういう次元の話ではない。

筑後国三井郡の豊比咩とは

筑後国三井郡の豊比咩神社は名神大社ではあるものの、その祭神の由緒来歴は解らない。一説に神功皇后の御妹豊比咩命とも言うが明らかではない。また一説に高良玉垂命と豊比咩は夫婦神とも言う。前述のように「文徳天皇実録」天安二年(858)五月十四日条によると、「比咩神は高良玉垂宮の正殿とともに失火にあった」と言うので、高良大社、豊比咩神社とも高良山にあり、並んで建っていたのではないかと想像される。それが両神が夫婦神と言う根拠になっているのではないかと思われるが、高良玉垂命の妻ならどこからか嫁いできたのであり、その詮索も必要だ。なお、高良山の豊比咩神社の祭神は一般に豊玉姫命とされ、ほかに豊姫とか豊受大御神と言う説もある。しかし、いずれも神代の神であったり、神代と人皇の間の人であったり、人皇第十二代景行天皇と同世代の高良玉垂命とは時代が合わない。よって、豊比咩は現在の福岡県のどこからか嫁いできたと思われる。それはどこか、となると、豊前国田川郡鹿春郷(福岡県田川郡香春町)が有力だ。何分にも両名の名前が同じ「豊比咩」と言い、「鼻垂」と「玉垂」の古代カバネと思われる「垂」も同じ、双方は内陸山間部に本拠を構えていたなど、共通点が多い。

まとめ

当時の九州の情勢を見るに、景行天皇は熊襲討伐と称して九州へ下向したものの、骨っぽい豪族(宗像、阿曇、筑紫など)がいる筑紫は避けて豊から日向に向かったようである。豊の国は中小豪族が主体で中には神夏磯姫などという女性首長もいたようだ。名前の出てくる「鼻垂」、「耳垂」、「麻剝(あさはぎ)」、「土折猪折(つちおりいおり)」なども「和名類聚抄」に言う「郷」程度の領主だったらしい。筑紫の高良玉垂命と言えば後世の筑前にあたる福岡市界隈の諸豪族に圧迫されて助力が必要だっただろう。遠交近攻(えんこうきんこう)とか合従連衡(がっしょうれんこう)とか言うのは何も中国の専売特許ではなく日本でも古くから必要とされたものであろう。玉垂は筑前勢力の背後を突いてもらおうと豊前の勢力と手を結んだのではないか。同盟の証として婚姻関係を結ぶことはよくあることで、玉垂も鼻垂もしくは麻剝一族と親族関係になったのではないか。そこで豊比咩命神社と豊比咩神社だが未婚の豊比咩命神社は延喜式では小社だが結婚してからの豊比咩神社では名神大社と格段の昇格を果たしている。鼻垂、耳垂、麻剝、土折猪折は景行天皇に一掃され、玉垂命も高良大社の祭神としてその名を残すのみだが、豊比咩命は香春神社では三ノ岳豊比咩命神社の祭神として、高良山では豊比咩神社の祭神として人によっては夫婦神としてその名を刻んでいる。

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