武内宿禰を増広、潤色したのは誰か

はじめに

武内宿禰については、享年がやれ295歳だの312歳だのといろいろ言われているが、これは後世の人が記紀を読んで加算したり逆算したりした結果であって、「日本書紀」では五代(神功皇后を加えると六代)の天皇に仕え、初出は景行天皇25年で、最後に出てくるのは仁徳天皇50年となっている。この期間を加算するとおおむね260年あまりになり、これに幼少期や最晩年期を加え300年近くと算出されているようである。当然のことながらこんなことは自然界ではあり得ないことで、どこかに狂いがあることは間違いない。一般には、平均百歳を超す天皇の年齢や架空の天皇の存在を問題視する見解が多い。近年の在位年数、明治時代44年、大正時代14年、昭和時代62年を平均すると40年となり、これに五代の在位数を掛けると200年くらいになり古代と変わらなくなる。しかし、武内宿禰の時代にあっては人々の平均寿命も現在の半分くらいと推量され平均在位年数20年としても五代の天皇ともなると100年くらいになる。そこで、次に問題になるのは皇統譜である。記紀では景行→成務→仲哀→応神→仁徳と繋いでいるが、一説によるとこの内「仁徳天皇」以外は架空の天皇という説もある。もしその説を正とするならば、天皇の数の水増しもかなりのものになる。しかし、その理由に景行、成務、仲哀の三天皇の称号に「オホタラシヒコ(大足彦)」とあるのは後世の舒明天皇(在位629年~641年・息長足日広額天皇)や皇極(重祚・斉明)天皇(天豊財重日足姫天皇)の「足日」や「足姫」の称号を真似たものという見解があるが、本当か。大足彦の「大」も「足」も「彦」もおそらく原始カバネで、「大」と「彦」は説明を要しないであろうが、「足」は「日本書紀」景行天皇12年条に出てくる「耳垂」とか「鼻垂」という人物の「垂」で、現在の北九州市小倉北区乃至小倉南区あたりにいた王かとも思われる。この「垂」も原始カバネの一種であろうか。とにかく、景行天皇は「原始カバネ」の収集マニアだったのではないか。また、「垂」も高良大社の祭神は高良玉垂命といい、「垂」のカバネは古代にあっては九州北部一帯に広がっていたようだ。但し、この耳垂、鼻垂を王位の象徴としての耳飾りや鼻飾りと解する説には賛成できない。この場合の耳、鼻或いは玉は地形もしくは地名であって、カバネである「垂」の原意は1.武具を腰にぶら下げること(例として「日本書紀」武烈前記、大太刀を 垂れ佩き立ちて)、2.後世の「訓示を垂れる」などと同じで上のものが下のものに一席ぶつことか。そこで、景行、成務、仲哀の三天皇のうちで景行天皇が架空というのは考えづらい話ではないか。景行天皇は遠征地の状況をしっかりと把握し、当該地の文物を我が身にはっしとすり込んだのではないか。特に、九州の臭いぷんぷんの人物で神武天皇のモデルもこの天皇ではなかったか。そうなると、成務、仲哀(神功皇后も)の二天皇を架空と位置づけて、景行、応神、仁徳の三天皇となり武内宿禰の長寿の説話も理解できるのではないか。但し、武内宿禰が長寿の忠臣というのも彼の実在を認めたとしても大いに疑問ではある。そこで、武内宿禰神話が創作神話であるにせよⅠ.誰が何のために創作したのか。Ⅱ.武内宿禰の実像を検討してみることにする。

作為の人物

一般に武内宿禰は実在した人物としても実像とはかけ離れた「作為の人物」と思われている。「作為」には「作為」の理由があるというが、これは「嘘も方便」という類いの話ではある。ある人にとっては他の人が信じてくれるとありがたいかも知れないが、他の人にとっては迷惑千万な話ではある。武内宿禰もその種の人ではなかったか。
Ⅰ.武内宿禰神話の創作時期 1.記紀作成時説 2.蘇我氏隆盛時説 3.蘇我氏草創時説の三説ほどがある。
1.記紀作成時説 この説が主流かとも思うが、過去の豪族である蘇我氏をここまで書き立てる必要性があったのであろうか。関係者としては平群子首か。
2.蘇我氏隆盛時説 蘇我馬子をモデルに6世紀末前後に作られたとする説。蘇我氏がその権勢を示すため過去に大臣の伝承を持つ配下の豪族(大和国南西部を本貫とする豪族が多い)を武内宿禰で一括りにした。しかし、葛城襲津彦が応神朝に日朝で活躍しているのに武内宿禰との関係を示す記事が記紀には見られない。あちこちに散らばっている武内宿禰の話は後世の付会か。おそらく「武内宿禰」なんて中央政界で活躍した人は、或いは景行朝を除いては、いなかったのであろう。ほかに藤原鎌足モデル説もある。
3.蘇我氏草創時説 草創時と言っても蘇我稲目の時代だが、稲目は宣化天皇に大伴金村大連の対抗馬として大臣として抜擢されたものの何分にもそれまでは朝鮮半島で何かがあった時の派兵要員(先祖に、満知とか韓子とか高麗の名がある)の家柄で、特に、満知は百済からやって来た「木満致」のことではないかと言う説(門脇禎二説。支持者も多い)もある。当然のことながら、大伴氏のような神代に遡るような系図もなく宣化天皇にその出自を尋ねられたとき返答に窮したのではないか。そこで彼は一計を案じ祖先探しを行ったわけである。まず、候補としては「歴史に名だたる人」はダメで無名もしくは稲目以外には知らない人が最適だっただろう。著名人は大伴金村や物部麁鹿火に「それは違う」と一蹴されるのが落ちであるからである。とかく、蘇我氏は古記録の収集に熱心だったらしく蘇我蝦夷が邸宅に火を放って亡くなるとき多くの記録が焼失したらしい。「日本書紀」は「天皇記」は焼失したが、「国記」は残ったという。武内宿禰を探し当てたのは稲目であろうがそれに子孫27氏などを肉付けしたのは馬子と蝦夷親子か。その収集した資料を稲目、馬子、蝦夷の三代にわたって精査したものか。
おそらく稲目は娘三人を天皇に嫁がせているため早くから「偽系図」作りは進行していたのではないか。よって、3.蘇我氏草創時説が正解と考える。
Ⅱ.武内宿禰の実像
武内宿禰については 1.全くの架空の人物 2.蘇我馬子らをモデルにしての架空の人物 3.複数の人物を重ね合わせた架空の人物 4.集団名など諸説があるが、「公卿補任」に<在官244年春秋295年>なんてあるのを真に受けるのかとしかられるかも知れないが、一応、「武内(建内)」という氏か名もありそうなので実在したと仮定する。
「日本書紀」による武内宿禰の事績
景行25年7月 武内宿禰を遣わし、北陸及び東方の諸国の地形、且、百姓の消息を察しめる。
景行27年2月 武内宿禰、東国より還りて奏言す、東夷の中に、日高見国有り。其国の人、男女、並椎結(ならびにかみをわけ)文身、人と為り勇悍。これをすべて蝦夷と言う。亦、土地沃壤(こえて)曠し。撃ちて取りつべし。
景行51年1月 正月の祝宴の際、稚足彦尊と武内宿禰は出席しなかった。重臣たちが宴にかまけている間に狂った人がことを起こしたら大変なのでそれに備えるためである。
景行51年8月 稚足彦尊を立て、皇太子と為す。是日、武内宿禰に命(みことのり)して、棟梁之臣と為す。
成務3年1月 武内宿禰をもって大臣と為す。初め、天皇と武内宿禰は同日に生れませり。故、異(こと)に寵み賜うこと有り。
仲哀9年2月 皇后及び大臣武内宿禰、天皇の喪を匿めて、天の下に知らしめず。ひそかに天皇の屍を収めて、武内宿禰に付けて海路より穴門に遷る。豊浦宮で殯をして、大臣武内宿禰は穴門より還りて、皇后に復奏する。
仲哀9年3月 皇后、武内宿禰、中臣烏賊津使主とで神のご託宣を聞く。
仲哀9年4月 武内宿禰、剣鏡を捧げて溝に水を通した。
爰伐新羅之明年2月 籠坂王、忍熊王の反乱の際、皇子を懐きて横に南海より出でて、紀伊水門に泊まらしむ。
同3月 武内宿禰、和珥臣の祖武振熊とともに忍熊王を討つ。
神功13年2月 武内宿禰に命じ、太子(後の応神天皇)に從い角鹿笥飯大神に参拝する。
神功47年4月 新羅が百済の倭国への貢物を奪ったので、その対策を武内宿禰が執った。
応神7年9月 武内宿禰に諸韓人等を領いて池を作るよう命じた。
応神9年4月 武内宿禰が筑紫に出張中に弟甘美内宿禰の讒言にあい、上京後、盟神探湯で決着を付けた。
仁徳元年1月 回顧談。仁徳天皇が生まれた日、木菟(ミミズク)が産屋に留まった。同じ日、宿禰にも子供が生まれ鷦鷯(ミソサザイ)が産屋に留まった。
仁徳50年3月 雁が日本で卵を産んだということに関する天皇と武内宿禰の問答歌。
以上の事績に関しては 1.北陸・東国の視察の話はあり得ない 2.籠坂王、忍熊王の反乱の伝承は和珥氏のものであって武内宿禰とは関係がない 3.甘美内宿禰の説話も「日本書紀」にはあるが「古事記」にはない、など、肝心なものはほとんど否定されている。或いは、「溝に水を通した」とか「諸韓人等を領いて池を作った」などの記事があるので土木工事を得意としていたか。神主の真似事のようなこともしていたようだが、当時の豪族は多かれ少なかれそういうことを行っていたのではないか。
そこで、後の人々が潤色する前の「武内宿禰」とはどんな人だったのか。まず、大物ではダメなので小領主且つ武内宿禰は分家というところで、一般的に言う「市井の臣」だったのではないか。おそらく蘇我氏と同じで国内外に「一旦緩急あれば」動員令がかかり、氏長者は鎧兜で身を固め出陣したのではないか。蘇我稲目が大和国から北上して出陣する際、内臣も行動を共にした同僚の可能性は非常に高いと思う。領地も大和国のすぐ側の山城国であったに違いない。山城国には「うち」の地名は豊富だ。山城国宇治郡宇治郷、山城国久世郡宇治郷、山城国綴喜郡有智郷。おそらく、前記いずれかに住んでいた「うち」臣が蘇我氏により武内宿禰に祭り上げられたのであろうが、業績は記紀に書いてあるような中央政府に関するものは少なく、一生涯、後世の一所懸命的発想で我が領地を守ったのではないか。たぶん、山城国の「内」氏は自分たちが武内宿禰のモデルであることなんかはまったく知らなかったであろう。蘇我氏の増広、潤色で得をしたのは誰かと言えば、武内宿禰の子孫と位置づけられた27氏の人々だったか。また、記紀では武内宿禰をあたかも紀伊国の人のように書いてあるがこれはカムフラージュのためか。

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