「カバネ」について

はじめに

「カバネ」の語が日本の文献に初出するのは、延暦16年(797年)に完成した「続日本紀」のようで、その「続日本紀巻第廿九・神護景雲三年(七六九)五月丙申の詔に「丈部姉女乎波内都奴止爲弖冠位舉給比『根可婆禰』改給比治賜伎」とか「一等降弖其等我『根可婆禰』替弖遠流罪爾治賜布」とかある。この場合の「根」は尊称などという人もいるが、おそらくその意味するところは「本来の」「元々の」「初めからの」とか言う形容詞的に使われたもので(現代の使用例で近似のものは「根抵当権」)『可婆禰』が本体の言葉であろう。そこで、『可婆禰』の語が奈良時代から使われ出したようなので我が国の学説は新羅かぶれの奈良朝役人に倣ってか、『新羅の社会制度で上下を示すとき、「骨品」という語を用いたので、「骨」に当たるカバネが用いられた』と言うのが多数説のようである。即ち、カバネ(屍)、カバネ(骸骨)の同根の言葉だという。外国語を日本語に翻訳した言葉は今でもあるが、何やらおいそれとは信じがたい説だ。ほかに国語的解釈として、カブネ(頭根、株根)もしくはカブナ(頭名、株名)の転化したもの、と言う説もある。また、カバネの起源も「大化の改新」以後とするのが通説のようだが、後述するように人が集まり組織が出来れば職種や役職が出来るのは当然であり、単に古事記・日本書紀に書かれていないからと言ってそのような制度がなかったとは言いきれないと思う。簡易構造か、重厚構造かの違いかと思う。

「カバネ」の語源は

「カバネ」の語源が翻訳語でもかまわないのであるが、我が国にも「貧富の差」や「能力の差」が現れ出すと、いわゆる、「尊称」とか「敬称」とか言われる類いのものが現れだしたようである。「魏志倭人伝」にも後世のカバネと思わしき官名がいくつか並んでいる。中には大官の称号が同じ国もあり、名称に地域差があっても邪馬台国に統一された「倭国」と言ったイメージが強い。「魏志倭人伝」がしきりと”官””官”と言っているところを見ると、やはり邪馬台国はかなりの組織体であったことが解る。ところで、当時の「彦」とか「姫」「玉」「耳」とかを講学上「原始的カバネ」と言っているようである。当時の人は「原始的カバネ」を何と言っていたのであろうか。無論、一族の全員が「彦」とか「姫」「玉」「耳」などの尊称を付けて呼ばれていたのなら、その「原始的カバネ」(尊称)に名前を付すことなどはあまり意味のないことと思われるが、特定の人だけが付けるものならおそらく呼び名があったのではないか。記紀にはほとんどの人名に「彦命」とか「姫命」の尊称があるので或いはみんなが尊称を付けて呼ばれていたのかとも思われるが、記紀に出てこない「その他大勢の人」はどうだったのかは解らないのでやはり尊称を付けて呼ばれていた人は一部の限られた人々でなかったか。
そこで、「尊称ありの人」と「尊称なしの人」とがいれば、その尊称にはなにがしかの名が付けられたことであろう。その名とは今となっては解らないが、後世の言葉と思われる「カバネ」から類推するとそんなにかけ離れた言葉ではなかったのではないか。「カバネ」の語源説には上記二説のほかいろいろな説があり原初の言葉が何と発音されたかに関しては不明と言うほかない。そこで、私見としては近い音を採って、
「カラ(柄)」「ハネ(羽)」だったと解したい。
「ハネ(羽)」は植物の「葉(ハ)にせよ動物の「羽(ハネ)」にせよ、何か本体(植物なら幹や枝、動物なら胴体)があってその本体に付属しているものである。「カラ(柄)」「ハネ(羽)」の場合であるが、「カラ(柄)」はこの場合は本体で「氏(ウジ)」と同じ意味になろうかと思う。「ハネ(羽)」は「カラ(柄)」(本体)に付帯した尊称で狭義の「カバネ(姓)」ではなかったか。「氏」とは原初は各地の酋長や部族長が支配した地名を言うとある。例として、磯城彦とか熊襲梟帥(たける)、山背根子など。よって、私見では「カバネ」は「カラハネ」→「カハネ」→「カバネ」と変化したものではないかと思う。また、「原始的カバネ」は後世の制度的カバネとは異なり、「魏志倭人伝」などでは人名の一部とみられるものも「官」と称している。人によっては「氏」名がカバネになっていたようである。但し、「ハネ(羽)」は「ホネ(骨)」と解するのが一般的で「骨品」説が通説的立場にあることは前述した。

「カバネ」の種類

★原始的カバネ

彦(ひこ)、姫(ひめ)、梟帥(たける)、戸畔(とべ)、耳(みみ)、玉(たま)、主(ぬし)、守(もり)、根子(ねこ)、君(きみ)、別(わけ)、祝(はふり)、積(つみ)

★古代カバネ

*出自によるもの

公(きみ)、別(わけ)、臣(おみ)、連(むらじ)

*官職によるもの

造(みやっこ)、直(あたえ)、首(おびと)、稲置(いなぎ)、阿比古(あひこ)、国造(くにのみやっこ)、県主(あがたぬし)、画師(えし)、薬師(くすし)、史(ふひと)、曰佐(おさ)、神主(かんぬし)、祝(はふり)、吉士(きし)、村主(すぐり)、勝(すぐり)

以上を概括してみると、「原始的カバネ」で「古代カバネ」に残っているものは、「君(公)(きみ)」と「別(わけ)」くらいなもので、「君(きみ)」は大和国特に「天皇家」モノポリーの「カバネ」ではなかったか。「大王」と書いて「オホキミ」と訓じている。「別(わけ)」は吉備国の「カバネ」ではなかったか。和気清麻呂は有名だし、今も岡山県和気郡がある。即ち、邪馬台国と狗奴国の争いで残ったのは大和国と吉備国でこれは邪馬台国(大和国)と狗奴国(吉備国)と思われる。
臣・連が出来たのも景行天皇の時か。臣は有名な武内宿禰がおり、棟梁之臣とか大臣(大臣武内宿禰)とか言われている。連の方は不明だがおそらく大伴武日(景行紀に「吉備武彦與大伴武日連」)か物部十千根(「新撰姓氏録」で止智尼大連)が最初か。「連」カバネは垂仁朝にはなかったらしく(古代カバネの発祥は五世紀という説もある)、大伴氏では大伴武持(武日の子と言われる)が本格的に「連」のカバネを賜った(仲哀紀に「中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部膽咋連・大伴武以連」、公卿補任で仲哀天皇即位の年「大連」を賜る)らしい。景行天皇は現在の関東地方から鹿児島県を除く九州を平定し、中央の国家制度の確立が焦眉の急だったのではないか。いわゆる官僚制度の確立には氏姓制度が採用されたのであろう。

古代カバネの起源

古事記には鏡作連(神代)、日下部連(開化記)、三宅連(垂仁記)、など、日本書紀には三宅連(垂仁紀)などが記されているが、これは一般に後世のカバネであり、上記の「連」は当該時代にあったものではないと解されている。一応、人名にカバネらしきものが本格的に記載されるのは景行天皇の頃であり、どの程度カバネを名乗っていた人がいたかは不明だが、おそらく、天武天皇の「八色の姓」では天皇は自分との親疎でランク付けを行ったという見解もあり、景行天皇も自分との親縁の人を高官としたのではないか。当時は「魏志倭人伝」でもそれなりの国家の組織化が行われていたことが解るのであるが、おそらく、景行天皇は組織の簡略化を図り「臣」は武内宿禰一人、「連」は物部十千根、大伴武日、吉備武彦(播磨国の吉備氏。分家で吉備氏本流とは違う)の三人ではなかったか。或いは、「臣」姓の有力者は後世武内宿禰の子孫で、かつ、大和国の地名(波多、巨勢、蘇我、平群、紀、葛城など)を氏名(うじな)としているので武内宿禰は和歌山市の「内」(和歌山市宇治××の地か)出身ではなく、大和国宇智郡(奈良県五條市)の出身で、旧体制(崇神、垂仁など)の人か。これに対し、物部(河内国)、大伴(摂津国)、吉備(播磨国)の諸氏は景行天皇側近の人か。「臣」の意味も文字通り臣下、家来の意味で武内宿禰は景行天皇と親族関係はなかったのではないか。「連」は「連枝」などと言う言葉もあるように、景行天皇と親族関係にあった人と思う。即ち、景行天皇の時代は「臣」と「連」は地位が後世とは違い、「連」がやや上位で「臣」はその下にあったのではないか。いずれにせよ国政は景行天皇と四人の重臣により決定されていたのではないか。「魏志倭人伝」の邪馬台国の官も「官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳提」と四人なので当時の執政官としてはこのくらいの人数が最適であったのかも知れない。とにもかくにも、当時は天皇と親縁な関係にある人が厚遇されたのであり、その意味では武内宿禰は少し心細かったのかも。臣とか連という漢字を用いているところを見ると景行天皇の周りには中国出身の者がいたのではないか。但し、後述のように、後世、朝鮮系事務官が翻訳した説が多数かと思う。
何分にも古代にあっては日本人(当時は倭人)は漢字の読み書きが出来ず、事務系の仕事は朝鮮半島出身者が担っていたという説もある。古代カバネの「吉士(きし)」とか「村主(すぐり)」は新羅の制度を継受したものという。とは言え、日本の氏姓制度が允恭、雄略朝あたりに新羅の官位十七等の制度をお手本にして創設されたとは思われない。したがって、それぞれのカバネを表す名の語源も一部を除いて朝鮮半島由来のものとは思われず、日本で独自に発想されたものではないか。但し、日本には朝鮮語に熟達した学者が多く何事にも朝鮮語起源を説く学者がいる。ここでは朝鮮語語源説は割愛し、かつ、有力説を紹介する。
臣(おみ) 1.大身(おみ)説 2.キミ(君)に対応する語 3.御身説
大身、御身説には「身」の発音は乙類で、臣(意美)の「美」の発音は甲類の発音なので語源説としては不適当との非難がなされている。但し、大身説は多数説か。残るは「キミ(君)に対応する語」説なのだが、この説は「大見」説で大所高所から物事を判断する人の意味か。私見は、景行天皇は語学堪能なお方のようなので日常的にどの方言を使用していたかは不明と判断し、大身説を支持したい。大身とは即ち勢力のある者の意。
連(むらじ) 1.ムラは村で、ジはアルジ(主)、トジ(刀自)、ヌシ(主)のジ・シに通じる説 2.村主(むらぬし)説 3.群れの中の主で群主(むらじ)説 4.群大人(むらうし)説 5.朝鮮語翻訳説
諸説を要約すると村もしくは群の中心人物という感じがする。私見を補足すれば、当時の豪族は地域完結型社会即ち自己の支配地域で農業、蚕糸業、製陶業等を営んでいたと思うのでその村の長(おさ)と言うことであろう。但し、景行天皇が吉備武彦以下を「ムラジ」と言っていたとは思われない。おそらく、「ウガラ」とか「トモガラ」とか「ヤカラ」など自分と親族関係にあることを意味する言葉を使ったのではないか。「ムラジ」はもう少し後世の言葉かと思う。天皇家の品部集団(群)を管理していたから「ムラジ」となったか。但し、雰囲気としては「連枝」(天皇の兄弟。吉備武彦以下は景行天皇の義兄弟ではなかったか)の湯桶読みの感がないわけでもない。即ち、後世、連(ムラ、ムレ)と枝(シ)と読まれ、これがムラシないしムレシとなり、「ムラジ」となったものか。漢字の方は「枝」がカットされてしまった。国家の中枢にいる人に「村」はないような気もする。但し、一説によると、「連」や「大連」は記紀の世界のことだけで金石文には一切見られない。したがって、「連」「大連」は存在しないと否定する説もある。
臣と連の区別については諸説がある。1.臣姓の氏族は氏の名に地名を帯びた者多し。連姓の氏族は氏の名に職業名を帯びた者多し。よって、臣姓を称する豪族はかって天皇氏とともに大和連合政権を形成していた。また、連姓は品部(天皇家の品部か)を統率した有力な伴造氏族である。2.臣を称する氏の多くは神武天皇から孝元天皇までの皇裔諸氏であり、公(きみ)を称する氏は開化天皇以後の皇裔諸氏である。連を称する氏は神武天皇以前の神々の子孫と言うことになっている、など。但し、臣姓も職業カバネでその職業が「政治」という高度な判断を要求される職業と解する向きもある。3.臣は元天皇家の同僚豪族、連は天皇家の家臣豪族とする説もある。

まとめ

「カバネ」の制度は一種の身分制度で内容は時代とともに変質している。原始的カバネは尊称であり、倭国統一の頃は天皇の助言者(旧憲法下の枢密顧問官的なもの)兼執政官の称号であり、諸豪族が朝廷の元に組織づけられると現在の官僚制度のような上下関係を示す称号として機能したものであろう。一応、大化の改新の頃までは実質的な機能を有していたのであろうが、その後は中国に倣った律令制により衰退したようである。天武天皇の「八色の姓」もあまり意味がなかったようだ。姓の制度は日本固有のもので、他の東アジアの国にはない、と言う見解もあるが、国家があれば必然的に身分制度は生ずるものであり、類似の制度は他国にもあったと思われる。日本に自然発生したのが「カバネ」の制度だったのである。おそらく、国の制度として確立したのは允恭天皇の「盟神探湯」(允恭四年415年)の実施後であろう。その後、天武天皇が天武13年(684年)に新しく制定した「八色の姓」まで300年近くにわたって実質的に機能した。

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