原 「ハラ」と「ハル」

★はじめに

過般、当ブログをご覧になった方から「ハルが中世以後の「開墾地」である根拠やソースを、どうか教えてください」とあったので、出典を教えてください、と言う意味かと思い、出典を書いておいたのですが、「根拠」とは「筆者の意見を述べよ」と言うことかとも思い、本稿をしたためました。
結論を先に言うと、「ハル」「パル」「バル」の発生は「元寇」に端を発したのではないでしょうか。蒙古撃退の際の恩賞としては僅かな「蒙古合戦勲功賞配分状」によれば、恩賞地は九州それも北部九州に偏っており、或いは、戦を主導した小弐、大友、島津、菊池などの諸将が供出したものか。その中で、「原」のつく地名がでているのは、「弘安四年蒙古合戦勲功賞筑前国早良郡比伊郷地頭職配分事・渋谷平四郎有重遺族宛」で、行武名で「下河原田」、若国名で「河原田」「フツ原」(以上は〈田地〉)、畠地では長淵庄内「元下河原」となっている。何か「河原」という大きな地名があって、それを上下に分け田地は下に「田」の字を付け、畠地はそのままという名付け法である。「河原」は当時なんと読んだものか。現在の福岡県南区柏原の地と言うが今は「かしはら」と読んでいる。おそらく、「原」のつく地名は当時既に九州一円にあったと思われるが、「和名類聚抄」でも「ハル」「パル」「バル」と読む例はなかったのではないか。また、「蒙古合戦勲功賞配分状」には「田地」とか「畠地」とか書いてあるが、本当に田地や畠地であったのか疑わしい。何分にも取り上げられる方としては死活問題だからである。幕府が鎮西探題をもうけて九州の御家人が裁判のため鎌倉に行くのを禁じたのも恩賞が少なかったばかりでなく、恩賞の中身にも問題があったのではないか。そこで「なだめすかし」役の少弐経資は一計を案じ、「原」は「ハラ」というのは未耕作地、「ハル」というのは「既耕作地」(現代流に言えば、耕作放棄地の再開墾の類いか。うまくすれば、初年度から年貢が入ってくるのではないか)などとおかしな理由を付けて「ハル」の普及に努めたのではないか。
ところで、「ハル」「パル」「バル」の意味には 1.開墾地(特に、佐賀県、大分県、鹿児島県の方言という説あり)、 2.台地、の意味の二説が有力である。そこで、佐賀県の例を見てみると、

★佐賀県の原(「ハル」「パル」「バル」)

佐賀県の中心部(佐賀市など)では「ハル」と読むところはほとんどない。川原小路(かわはらくうじ)、柳原ヶ里村(やなぎはらがりむら)など。但し、小城市に晴気(はるけ)という古い地名があり(元暦二年〈1185〉源頼朝の消息文)このハルをどのように解するかは少々問題だ。
唐津市界隈では、熊野原(くまのはら)神社、地名では熊原(唐津市西寺町)、石原(いしはら)村(唐津市枝去木〈えざるぎ〉)、目付佐原(めつけさはら)村(唐津市大良〈だいら〉)、梶原(かじわら)村、原(はる)村・西原(にしはる)村・中原(なかばる)村は原村が文献的に建武元年(1334)条に初出。西原村および中原村は豊臣秀吉に追放された波多親の旧臣を寺沢広高(唐津藩初代藩主、志摩守とも)が郷組足軽に取り立てる際に給地のためなどに開墾したところ。地名を西原(にしはる)や中原(なかばる)と読むのは原(はる)に習ったものか。唐津市界隈でも「ハラ」が本則で「ハル」読みは少ない。
伊万里市界隈では、中野原(なかのはる)村(伊万里市松浦町中野原)天文七戌二月(1538)、久原(くばら)村(伊万里市山代町久原)、川原(かわばる)村(伊万里市大川町川原)、平原(ひらばる)村(伊万里市南波多町谷口)など。こちらは俄然「ハル」の読みが多くなる。
以上より判断するならば、佐賀県では佐賀市や唐津市のような旧来から開けた土地は開発の余地はなく、伊万里のような後発の地域に恩賞地を割り当てたものか。

★沖縄県の原(「ハル」「パル」「バル」)

例は少ないが、以下の一例を挙げる。

沖縄県島尻郡南風原町は、

1.真珠湊碑(首里城前にあったと言う)には、嘉靖元年(1522)四月九日の年紀があり、「はへはら」となっている。
2.「やらさもりくすく碑文」(那覇市垣花)には、嘉靖三十三年(1554)六月の年紀があり、「はゑはら」となっている。
3.首里王府から摩文仁(親方安恒)宛知行目録には、慶長十八年(1613)十二月十五日付けで、「はへ原間切兼城村」となっている。
4.正保国絵図(1655~1658)では、「南風原間切」(はえばるまきり)とある。
以上より判断するならば、沖縄の「原」は、古来、「ハラ」と読んでいたものであり、1609年「島津氏の琉球侵攻」により沖縄が薩摩化されて「ハル」「パル」「バル」と読むようになったのではないか。即ち、沖縄の「ハル」「パル」「バル」は江戸時代に入ってからであり、こんな漢字の読みにまでいちゃもんを付けるのは薩摩藩の琉球王府に対する余計な干渉ではなかったか。

★結論

このような原を「ハラ」から「ハル」に読み替えたのは、単に一権力者の読み間違えなどではなく、大きな社会現象があったのではないか。少なくとも平安時代までは「ハラ」と読んでいたのであり、鎌倉時代後期になって突然「ハル」を併用するのは日本が「伸るか反るか」の実戦をしいられた「元寇」以外には考えられない。九州にしかないというのも九州が元寇の舞台であり、参加した御家人は九州の御家人が主であり、彼らが恩賞地として九州を希望したのは当然と言えば当然である。こんな漢字の読みまでを変えて恩賞の意義を強調すると言う姑息な方法は、鎌倉幕府ないし現地の上層部の疲弊感がものすごく強かったのだろう。恩賞地捻出のため元寇の戦いに功があった者の領地や官位を取り上げるというのも幕府の弱体化に拍車をかけたのではないか。

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