箸墓を考える

★はじめに

『箸墓』は正史である「日本書紀」にも出てくる言葉だが、宮内庁が『大市墓』を採用しているせいかインターネットはともかく紙の書籍は『大市墓』と書くことが多いようである。換言すれば、天皇家の遺跡を管理する宮内庁は「箸」などという品のない言葉は天皇家にはふさわしくないとでも思っているのか。或いは、「時人(ときのひと)」=庶民が名付けたものなので採るに足らず、と考えたのか。Wikipediaでは「箸墓古墳」となっているので、ここでは『箸墓』を使うことにする。
『箸墓』は 1.被葬者 2.築造年代について学説が別れ、未だ定説を見ない。最近は情報公開により過去に宮内庁が補修したときなどの資料が公開されているが、あくまでも大きな「熊」の背中をなでたような資料でとても結論が出るような代物ではない。物騒な話だが、「阪神・淡路大震災」クラスの地震があって大規模補修の機会でもなければ、庶民が見ることはなかなか出来ないようだ。ことほどさように「古墳」は頑丈に出来ているともとれる。
『箸墓』のルーツも諸説あるようだが、もっとも有力なのは吉備国起源説で、現在の岡山県総社市三輪にある三輪山には90基ほどの墳墓や古墳があり三輪山古墳群と言われている。このうち宮山墳墓群の「宮山墳丘墓」は弥生墓と古墳の境目に当たる墳墓という。形は円丘と細長く低い前方部状の張り出しからなると言う。また、特殊器台形土器を伴っているようでこれが次の『箸墓古墳』や『西殿塚古墳』(臺與の墓説あり)の特殊器台形埴輪へと変化していくと説く。また、この説は宮山墳丘墓の被葬者と箸墓古墳の被葬者は親縁な関係にあると言う人が多く、吉備国と大和国は早くからつながっていたとも考えられる。親縁な関係と言っても親子、兄妹くらいで、おそらく『宮山墳丘墓』の方は父親で、『箸墓古墳』の方は娘か。そうなれば、「日本書紀」に言う倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)は吉備国の人か。大和国と吉備国の類似性は三輪山のほか高梁川を挟んだ対岸に神(みわ)神社がある。いずれも偶然の一致なのだろうか。

★箸墓は誰が作ったのか

「日本書紀」には、「是の墓は、日は人作り、夜は神作る。故、大坂山の石を運びて造る。即ち山より墓に至るまでに、人民相踵ぎて、手逓伝(たごし)にして運ぶ」とある。そういうこともあったかも知れないが、こういう大工事では組織的に人間が動かなくてはしっかりした完成品にはならない。指揮をした人としては、まず吉備の人があげられ、次いで大和の人があげられると思うが、私見では大和の人で天日槍命配下の但馬国から来た人と考えたい。「魏志倭人伝」にも都市牛利とか伊聲耆とか土木工事や石材工事に関係あるような名前が書かれている。それに、「日本書紀」に出てくる野見宿祢も土師氏の祖というように何やら古墳築造に活躍したのではないか。やはり「箸墓」作りを主導したのは大和系の山陰方面の人だったようである。当然、墓の形に関しても大和国、吉備国系の円形と山陰系の方形が対立したはずであり、総指揮者(都市牛利か)は頭を抱えたことであろう。おそらく当時の墓は竪穴式で葬儀は墳上で行われたもののようである。方墳の場合は墳上に上るのもさほど問題ではないだろうが、円墳の場合は上るのも大変だし、墳上に儀式のスペースが十分にとれなかったのではないか。そこで、吉備国では早々と墳上での葬儀はやめて墳の裾で行うようにしたのではないか。前方後円墳の初期の状態は、「細長く低い前方部状の張り出し」とか、「前方部と後方部との比高が顕著」などと言うことから、前方部は「墓(円丘・死の世界)と人間界を繋ぐ陸橋として墳丘と一体化した」と言う見解もある。この場合は元来は「橋墓」で「箸墓」は後世の誤解か。誤解が誤解を生み余計な挿話を挿んだため宮内庁に不採用となったのか。しかし、私見では「箸墓」築造の主導権は前述したように但馬国、因幡国などの日本海側の人(日本書紀では出雲国の野見宿祢となっている)がとったと思われ(それまでの円墳の技術だけでは箸墓のような大型の古墳は出来ないと思う。外部からの技術導入が必要だったか。當麻蹶速流ではダメと言うこと)、方墳が一顧だにされなかったとは考えづらい。畿内・山陽の円墳圏と山陰の方墳圏の妥協の産物が前方後円墳ではなかったか。或いは、但馬の天日槍一族は中国系と思われるので中国の道教などの影響を受けているのかも知れない。何か円丘は頭で、方丘はくびれの部分が首で、その下は胴体という、人をイメージしたとも思われる。俗に言う、「てるてる坊主」の形である。それに、箸墓の場合は前方部はあとから築造されたと言う見解をどこかで読んだような気がする。前方部も埋葬施設なのか。

★古事記・日本書紀の墳墓築造改革

古事記・日本書紀にも墳墓築造改革が書かれており、
「古事記」では垂仁天皇の最後段に「またその大后比婆須比売命の時、石棺作を定め、また土師部を定めたまひき」とあり、
「日本書紀」にも垂仁三十二年秋七月甲戌朔己卯 皇后日葉酢媛命【一に云はく、日葉酢根命なりという】薨りましぬ。臨葬らむとすること日有り。天皇、群卿に詔して曰はく、「死に從ふ道、前に可からずといふことを知れり。今此の行の葬に、奈之爲何む」とのたまふ。是に、野見宿禰、進みて曰さく、「夫れ君王の陵墓に生人を埋み立つるは、是不良し。豈後葉に傳ふること得む。願はくは今便事を議りて奏さむ」とまうす。則ち、使者を遣して、出雲國の土部壹佰人を喚し上げて、自ら土部等を領ひて、埴を取りて人・馬及種種の物の形を造作りて、天皇に獻りて曰さく、「今より以後、是の土物を以て生たる人に更易へて、陵墓に樹てて、後葉の法則とせむ」とまうす。天皇、是に、大きに喜びたまひて、野見宿禰に詔して曰はく、「汝が便議、寔に朕が心に洽へり」とのたまふ。則ち、その土物を、始めて日葉酢媛命之墓に立つ。仍りて是の土物を號けて埴輪謂ふ。亦は立物と名く」とある。

いずれの書でも「日葉酢媛命」の時に古墳築造に際し改革があったことを記している。即ち、「古事記」では古墳建造者を専門化、組織化したことであり、「日本書紀」では殉死のような悪習をやめさせて埴輪が考案されたことである。特に、「古事記」では日葉酢媛命が改革を主導したともとれるような文章だ。「日本書紀」の野見宿祢の埴輪についても、実際は、「特殊器台形埴輪」や「特殊壺形埴輪」だったのではないか。それに「日本書紀」の著者が余計な装飾を施したものだから後世の人に揚げ足を取られ踏んだり蹴ったりになった。
ところで「日葉酢媛命」とはどのような人であったのであろうか。丹波から嫁いだと言うので大和の人でないことは間違いないと思う。当時、大和以外から嫁いで来る可能性のある地域としては、東国、丹波、吉備が考えられる。東国からは崇神天皇に御間城姫が、丹波からは垂仁天皇に日葉酢媛命が、それぞれ嫁いでいる。吉備からは景行天皇の時に若建吉備津日子の子女という播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)が嫁いでいるが、若建吉備津日子は吉備津彦命の弟でいわば播磨の分家の子女である。考古学でその親縁な関係を説かれる「宮山墳丘墓」の被葬者と「箸墓古墳」の被葬者とは関係がないようだ。
よくよく考えると箸墓の被葬者は「日葉酢媛命」の確率が高いのではないかとは思う。例えば、少しくどいが、「ヒバスヒメ」→「ヒハスヒメ」→「ハスヒメ」→「ハスハカ」→「ハシハカ」と変化したものか。難点は、箸墓の被葬者が吉備国の人である確率が高く、また、特殊器台形埴輪などが出ていてこれまた吉備国に起源を発するという。或いは、「日葉酢媛命」は本当は吉備国の出身だったか。日葉酢媛命の「日葉」は現在の岡山県総社市日羽(備中国賀夜郡日羽郷)のことではないのか。また、日葉酢の「酢」は「洲」のことで、日羽郷の高梁川流域には川部とか川人部とか言う有力な川の漁師がいて、高梁川は大河ではないが漁獲高の高い川だったという。この場合の「洲」は段丘の上を指したものか。但し、川部の文献初出は「古事記・允恭天皇段」という。要するに、日葉酢媛命は吉備の王と川部氏の息女との間に生まれたものか。丹波国の出身というのは疑問だ。稗田阿礼の暗誦が間違っていたか。それにしても、箸墓の被葬者は、倭迹迹日百襲媛命にせよ、卑弥呼にせよ、日葉酢媛命にせよ、みんな女性である。女性がこんな巨大な権力を持つ社会ってどんな社会だったのだろう。

まとめ

箸墓が古墳時代の先駆けになったことは間違いないようだ。それが国家統一につながり、前方後円墳が全国に拡散した。しかし、その中枢の部分がはっきりしないことに、もどかしさがある。一応、古墳の築造責任者は土師氏であることは記録にある。その上祖も野見宿祢となっている。野見宿祢は言われているような出雲国出身ではなく、上古の墳墓築造に大きな影響があった但馬国か因幡国の人であろう。おそらく、箸墓の築造に際してもある部分の現場監督であったことは間違いないようだ。野見宿祢の出身地の一つに因幡国高草郡野見郷があり、今に大野見宿祢命神社がある。また、因幡国一宮の宮司家は「伊福部」姓を名乗り、伊福部とは本来石材業者を言ったものではないか。したがって、箸墓の築造には全国からその道の専門家が集められたので誰が総監督になったかは決めがたいが、やはり但馬の「都市牛利」ではなかったか。旧来の日本的技法は大型の古墳を築造するには不向きであったと思う。無論、総社市の三輪山には箸墓の前段階の規模で築造された墳墓があるが、箸墓はそれとも違ったかと思う。それ故、土師氏の祖は「都市牛利」であり、野見宿祢は何かほかに枢要なことをしたのでその名が残ったのではないか。
箸墓の築造年代がふらふらするのも気がかりなところだ。宮内庁がきちんとした調査をさせてくれないからと言うのは半分は正解で半分は言い訳ととれる。宮内庁も今まで自分たちが調査や補修をした結果や過程を全部公開してくれたならもっと精度の高い築造年代が算出出来るのではないか。
被葬者の特定は一番いいのは石棺の中を検めることだが、それは無理なようなので、築造年代を正確に推測し、それより人物を特定したり推測するより方法はないと思う。

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