邪馬台国と狗奴国の紛争の結末は

★はじめに

「魏志倭人伝」の偉大な女王〈卑弥呼〉については、やれ殺害されたとか、不慮の事故死、覚悟の自殺など、何か非業の死を遂げたようなことを言う人がいる。すこぶる物騒な話で、少しばかり検討をすると、まず、卑弥呼が亡くなる前に狗奴国と戦争をしていたのであり、その部分を「魏志倭人伝」から抜粋すると、
「倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を爲してこれを告喩す。」と。
当時の日本で両雄が雌雄を決するようなことがあったのか、はたまた、「両雄並び立たず」で、「両雄は、必ず争う習なれば、互に威勢を競う」の状況で、いつかはどちらかが倒れる運命にあったのか。とにもかくにも、当時は些細なことがきっかけで動乱などが起きたようである。(男王支配の七、八十年の末期に動乱があったらしい。その結果、卑弥呼女王が立てられた。)「魏志倭人伝」では、邪馬台国の女王卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼の戦争の結末は解らない。上記の「(張政が)檄を爲してこれを告喩す。」以降は両国の抗争は記されていないからである。したがって、張政の檄文が功を奏して戦争は終わったと解する向きが多い。しかし、張政の檄文は中国語で書かれたものと思われ、しかも、読み上げた相手は難升米だったのではないか。「檄」は、敵を威嚇し説得するために用いられたのが起源といい、敵の罪悪とわが方の正義を明らかにして、大衆の心をつかむことが肝要とされる、とあるが、難升米さんならいざ知らず、当時の倭国の大衆が中国語を理解し、張政さんの文章に感服したかはまったくもって疑問だ。即ち、そんな紙切れ一枚の文章で雌雄が決したとは思われない。論者によっては「今使訳通ずる所三十國」を取り上げて、邪馬台国も狗奴国も「魏」の属国で、いずれの王も「魏」の王の言うことは絶対的であったと言うが、「魏」の使節が狗奴国に行っていないところを見ると狗奴国が、直接、「魏」へ朝貢を行っていたとは考えられない。即ち、狗奴国は「魏」の朝貢国ではないのである。したがって、張政が狗奴国に停戦を働きかけたとか、両国の調停を行ったとかはまったく考えられない。せいぜい、「詔書・黄幢を齎し、檄を爲してこれを告喩す。」と言うほどのもので、これは邪馬台国に対するだけのものであって、狗奴国には何の関係もないものである。

★邪馬台国と狗奴国の紛争の原因は何か。

邪馬台国女王卑弥呼と狗奴国男王卑弥弓呼の不仲は以前からのものであろうが、武力を用いた紛争に発展したのは近時のことであろう。そこで、元々の不仲の原因を思料すると、
卑弥呼女王は 1.婢千人を以て自ら侍せしむ、とか 2.宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す、とあり、女王の権威を示そうとしたのか、多勢豪壮といった感じだ。後世の「大奥」はいかばかりぞだが、千人もの人間がいれば宮室も一棟ではなく大型の建物が複数あったのではないか。後にも大型土木工事が好きな女帝が現れているので卑弥呼女王のDNAは皇室につながっているのだろうか。ところで、工事関係は一回限りのものかも知れないが「婢千人」はどのようにして養っていたのであろうか。当然、卑弥呼女王以下の人々は直接生産活動に携わるわけではなく、「婢千人」はその半数が「巫女」であるという説もある。残りの半数(500人)で雑用などをこなしていたら、とても農業生産に従事なんて考えられない。そこで、租税の登場と言うことになるのであるが、卑弥呼女王の増税要求に対して男王卑弥弓呼はきっぱりと断った。今で言えば「行政改革」が先にだろう、と言うことだろう。どうも邪馬台国は傘下の国が多くなるにつれ行政機構も肥大化したようだ。袂を分かった両者は狗奴国が徐々に邪馬台国の領土を侵食し始めたのではないか。そして、ある日突然双方の前線は発火点に達し開戦になったと思う。場所は現在の「阪神間」(私見の勝手な推測で邪馬台国は大和国、狗奴国は吉備国とする)ではなかったかと思う。双方の前線の主将は伊和大神(狗奴国・吉備国)と天日槍命(邪馬台国・大和国)ではなかったか。おそらく天日槍命は軍務の経験はなかったであろうが、張政をはじめ中国(魏)サイドと意思の疎通が図れると言うことで任命されたものであろう。「播磨国風土記」では伊和大神が天日槍命を但馬国へ追いやったようなことを言っているが、おそらく事実は天日槍命が伊和大神を伊和の地に押し込めたと思う。ちなみに、天日槍命の名前もこの戦いに勝利してから後の名前でその前は「ソナカシチ(蘇那葛叱智)」とか「ツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等)」と言ったのかも知れない。しかしながら、ここでも旧来の邪馬台国の重臣(官に伊支馬あり、次を彌馬升といい、次を彌馬獲支といい、次を奴佳堤(革偏に是)という)はあまり役に立たなかったようである。勝手な推測だが、形勢不利とみた卑弥呼女王が「大和決戦やむなし」と決断し、彌馬獲支(崇神天皇か)に武器庫(後の石上神宮か)建設とその管理を命じたところ、彌馬獲支はこんなところで倉庫番をしていては出世に影響するとばかりに物部十千根に丸投げし、十千根は十千根でこんなところは人の住むところではないとばかりに地元の小豪族「石上氏」に押し込んだのではないか。石上氏はもう下請けに出すところはない。ことほどさように、邪馬台国の役人・軍人はダメ人間ばかりであった。世上よく言う「石上氏」は「物部氏」の後継というのも怪しい。

★戦争の結末

「魏志倭人伝」は戦争の結末は書かず、「卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。徑百余歩、徇葬する者、奴婢百余人」と記している。おそらく老衰か感染症の自然死であろう。この女王の死の報に接し喜んだのは何も狗奴国の将軍だけではない。邪馬台国の将軍もこの〈金食い虫〉の老女王の逝去を聞いてほくそ笑んだことだろう。そこで和平協定となるのだが伊和大神の援軍のためにやって来ていた吉備氏一族(こちらは分家の吉備氏で、総本家の氏長者は現在の岡山県総社市にいたかと思う)と天日槍命で和平が成立したものと考える。その和平の一項目に邪馬台国、狗奴国が協力して偉大な女王「卑弥呼」の墓を築造するという条文があったか。もしその墓が言われているような「箸墓」だったら、埴輪列はまだ存在していないが宮山型特殊器台・特殊壺、最古の埴輪である都月型円筒埴輪などが採集されている、岡山市付近から運ばれたと推測できる特殊器台・特殊壺が後円部上でのみ認められるのに対して底部に孔を開けた二重口縁の壺形土師器は前方部上で採集されており、器種によって置く位置が区別されていた、などから将に協定に基づく邪馬台国と狗奴国の合作の墳墓だったのだろう。

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