欠史八代の天皇は存在したのか

はじめに

「古事記」「日本書紀」には、《欠史八代》と称する、系譜(帝紀)の部分は存在するがその事績(旧辞)の部分が欠落している第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までの八人の天皇のことが記載されている。言うまでもなく、この八人の天皇については「実在説」と「非実在説」が存在する。現在の多数説は「非実在説」のようで諸々の理由によりこれら八人の天皇は架空の人物と結論づけているようである。非実在説はおおむね初代の神武天皇も非実在であり、崇神天皇が系譜上の初代天皇と考えているようである。その主な理由としては、1.天皇陵が崇神天皇陵から大型で、考古学の年代観とほぼ一致する。2.「日本書紀」では、崇神天皇は 御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられ、これは初代天皇のことである、など。
つらつら考えるに、天皇家の系図は、埼玉県稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣に、「意富比危(土偏に危)」(記紀にいう四道将軍大彦命との説あり)が刻まれているが、第八代孝元天皇への言及はないので、雄略天皇の頃でも天皇家には系図がなかったのか。はたまた、大彦命は天皇家とは何の関係もない東国の大王で孝元天皇の長男などというのは後世の創作か。即ち、大彦とは「欠史八代」の天皇名にもある、磯城津彦とか大日本彦とか観松彦とか、これら彦の上に立つ者の意で関西の大王に相当した語ではなかったか。稲荷山古墳の被葬者が誇らしげに上祖に大彦を持ってきたのは関東の大王(天皇)即ち大彦の子孫であると言いたかったのではないか。そもそも、大王(おほきみ)と言うのは当時においてどのような役割を果たしていたのか。それに、関東の大豪族であった大彦や丹波の大豪族であった丹波道主命、吉備の大豪族であった吉備津彦命は大和の天皇家にも匹敵する支配者だったと思われるが、大和朝廷傘下に入ったら天皇家の系図に組み込むと言うのはどんな神経なのだろうか。

「欠史八代」天皇の概観

欠史八代の天皇を列記してみると、
第二代 綏靖天皇 – 神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)
第三代 安寧天皇 – 磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)
第四代 懿徳天皇 – 大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)
第五代 孝昭天皇 – 観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)
第六代 孝安天皇 – 日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)
第七代 孝霊天皇 – 大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)
第八代 孝元天皇 – 大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)
第九代 開化天皇 – 稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおびびのすめらみこと)

和名諡号というのか本来の天皇名では「耳」の尊称のつく人が一名、「彦」の尊称がつく人が七名いる。「耳」とか「彦」というのは、いわゆる、「魏志倭人伝」で地方官の官名として用いられており、「耳」は投馬国の官で、「彦」は対馬国、壱岐国の官名である。敷衍すれば、「耳」は日本海沿岸の官名ないし尊称となり、「彦」は九州辺境の地の官名ないし尊称かとも思われる。「神渟名川耳」は渟名川を現在の新潟県糸魚川市にある姫川とするとこの「耳」は日本海沿岸の官名ないし尊称と合致し、すんなりと受け入れられるが、「彦」の方ははっきりしない。本来の名ともとれる、玉手看(たまてみ)、耜友(すきとも)、香殖稲(かえしね)、国押人(くにおしひと)、太瓊(ふとに)、国牽(くにくる)、大日日(おおびび)が何を意味するかは不明である。或いは、九州地方の古方言かも知れないが、今となってはその意味を解読することはほとんど不可能である。
そこで、これらの天皇と位置づけられている人はどのような人だったのだろうか。まず、第二代神渟名川耳天皇を抽象的な「川の神」という見解もあるが、いかがなものか。「神渟名川」となっているので人間ではないと言うのであろうか。初代天皇(神武天皇)も「神日本磐余彦尊」と「神」の美称ないし尊称がついているので問題にする必要はないのではないか。そもそも、「神」とか「大日本」とか「稚日本」とかの装飾語は後世に付けられたものではないか。考えられるのは、尊称などの種類が「耳」とか「彦」とか非常に少ない時代というのはあまり身分制度もはっきりせず、或いは、卑弥呼女王以前の日本の状態だったのではないか。「彦」は或いは九州辺境ばかりではなく狗奴国にも「狗古智卑狗」とか「卑弥弓呼」とかの人名や官名があるようなので全国的な尊称だったのかも知れない。それに対して、「耳」は日本海沿岸のローカルな尊称だったようだ。したがって、「耳」とか「彦」の尊称を持つ豪族はあまたいただろうし、第二代から第九代までと位置づけられている天皇はたまたま名が残ったその他大勢の豪族で、元々事績なんかはほとんどなかったのではないか。端的に言うと、書きたくとも書けなかったと言うのが真実だと思う。ざっくばらんに言うと、倭国草創期には天皇家といえども奈良盆地で「彦」の尊称を持つその他大勢の一豪族であったのであり、大きく飛躍したのは神武天皇や卑弥呼女王(倭姫命か)の時ではなかったか。当然のことながら、初代の神武天皇と欠史八代の天皇とは何の関係もなく、神武天皇の系譜はおそらく邪馬台国の卑弥呼女王や台与女王につながったのであろうが、独身女性ばかりでは家系は持たず、崇神朝となりこれまた初代天皇となったと思われる。但し、この三輪王朝なるものには疑問がある。また、卑弥呼女王は今は独身かも知れないが、かって夫や子供がいたかも知れないとか、姉と弟は結婚をしないと言う中国の固定概念で結論を下している、などの見方もある。

結 論

我が国は、おそらく、弥生時代に入る前は無文字時代であり、弥生時代以降も文字より口承が重きをなし、十分な記録が残らなかったと思う。天皇家の記録とて同様で確固たるものは残されていなかったと考える。当然、時代が古くなればなるほど記憶や記録があやふやで、かつ、内容も貧弱になることは避けられない。それが我が国では「欠史八代」に相当するものである。「旧辞」に相当するものがない、と言われても、おそらくはじめからなかったのであり、その頃は「帝紀」に記載(記憶)されていることを残すことが精一杯ではなかったか。また、王の階級制度として「彦」と「耳」しかなかったのも当時の時代背景を考えると十分にうなづけることだ。未だ未発達の段階でこのような痕跡を残せたことは賞賛に値すると思う。「欠史八代の天皇」と言われる人は存在した。しかし、それは現在の皇統はおろか、初代の神武天皇にも結びつかないことは間違いないと思う。

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