出雲と武蔵

はじめに

統計の仕方にもよるだろうが、現在の日本にある神社の祭神は8割がたが出雲系の神であるという。よくまあこんなにも全国に広がったものだと感心するが、古代にあっては出雲の勢力は日本海側(九州北部、山陰、北陸など)や関東、畿内などにも拡がったようである。日本海側や畿内などは通商圏としても関東とはこれいかにという感じがしないでもない。一般には、武蔵國造は出雲国出身と言われその人について来た人々が関東を開発したとも言われている。そこで、氷川神社を始めとする出雲の神々が関東に祀られるようになったのか検討してみる。

氷川神社

氷川神社は元々見沼の「水の精」を祀ったのが発端とされ、今の祭神「須佐之男命」「奇稲田姫命」「大己貴命」が祀られるようになったのは、江戸時代後期からか。平安時代の「延喜式神名帳」では一座として記載されている。したがって、氷川神社の原祭神はこれらの三柱の神々であったかは甚だ疑わしいものである。「国造本紀」によれば、景行天皇の代に出雲の氏族が須佐之男命を奉じてこの地に移住したという。ここで敷衍すれば、古代出雲国は三勢力が鼎立し、その本拠は1、出雲郡 2、大原郡 3、意宇郡にあったようで、まず、出雲郡出身の王が神武天皇に征服され、次いで、大原郡出身の王が景行天皇に敗れ(記紀では倭建命と出雲建、あるいは、崇神天皇の時代の出雲振根の話)、最後に、意宇郡出身の王が残ったということかと思う。「国造本紀」の話は景行天皇に敗れた大原郡の王(当時は既に國造だったと思う)ないし関係者が関東に追いやられたことを言っているかと思われるが、氏族が奉じた「須佐之男命」とは須我神社の祭神(勝手な私見では、須佐之男命ではないと思う)で、今で言うと敗残者が都落ちして武蔵国見沼を開拓したと言うことではないのか。見沼に落ち延びた人がどのくらいかはわからないが、ここから関東一円に拡がっていったと思われる。大原郡では主に今で言う鉱工業が盛んだったようであるが、関東で農業ができたのか知らん。また、「いづも(いつま)」という言葉と「あづま(あつま)」と言う言葉ができたのもこの頃で、大和から見て近いほうが「いつま」遠いほうが「あつま」となったのであろう。「つま」は「魏志倭人伝」の「投馬国」のことかと思う。「魏志倭人伝」の頃は出雲国はまだ「投馬国(つまこく)」だったのだろう。語源は島根半島を「つま」といったかと思うが、そんな大きな土地が地名の語源にはなりえず、と言う見解もあるのでなんとも言えない。ちなみに、「あつま」の「つま」は房総半島で、「さつま」の「つま」は薩摩半島のことか。

出雲国の勢力圏

記紀からも大国主命が奴奈川姫(ヌナカワヒメ)を高志国まで行って妻問いをしたとか、いずれも九州北部の人と思われる宗像三女神の一柱である多紀理毘売命(記・たぎりひめ、紀では田心姫命とも)とか神屋楯姫との間に子供がいるとか、日本海側の広範囲にわたって足跡を残している。もっとも、これらを土地の有力豪族と大国主命を関連付けただけと言ってしまえば「身も蓋もない」話になるのであるが、日本海側では出雲の墓制(四隅突出型墳丘墓など)などが各地に拡散しており、人の移動もあったのではないかと考える。しかし、関東には左様な出雲様式の遺跡はなく、神社ばかりがある。人が移動すれば当然ながら出雲の土器や鉄、木工品などを持ってきてもよさそうなものだが、今のところそんな発掘の話はあまり聞かない。関東といっても武蔵国が中心となるので、後世、武蔵國造と毛野國造は同族という見解もあるが、武蔵国の出雲族について考察する。

関東の出雲族

関東の古代出雲族としては兄多毛比が著名。彼の子は胸刺と菊麻の國造に任ぜられ関東における出雲族の繁栄をもたらしたと思われる。孫にも関東の國造がいる。ただし、主として偽書とされる「国造本紀」に出てくる人物なので実在の可能性は低いか。また、関東最古の神社という「鷲宮神社」もあまりに古いことを揚言しているので失礼ながら信じがたい。とはいえ、埼玉県久喜市あたりにも出雲族が繁栄していたことは間違いないようだ。ただし、鷲宮神社は別名を「土師の宮(はにしのみや)」と言うとの見解がある。この場合は、出雲とは関係なく、崇神天皇の時代に河内国から東国へ移住した土師氏が創建したものか。そもそも、土師氏の遠祖は魏志倭人伝に出てくる「都市牛利」と思われ、読みは「つしごり」で土師も土(つ)、師(し)と読め、都市牛利が土師氏の始祖ではないか。ツシはまた「土」のことである。本来は「土師」は「ハニシ」と読ませたかったのか。野見宿禰はどうなるのかとなるのであるが、埴輪の元祖としての野見宿禰は否定され、土木業者としても怪しくなると、あとは相撲の起源譚だけか。その他、後世の入間郡も出雲族の繁栄した地域のようで出雲系の神を祀る古社が多い。武蔵国の人と言われる千熊長彦のような我が国草創期の外交官は先祖は出雲国出身であったか。ただし、千熊長彦の話は「百済記」の「職麻那那加比跪(ちくまなながひこ)」を国語風に書き換えただけと言う説も有力だ。それもこれも、天穂日命が神代の昔に東国経営にやってきたといい、兄多毛比が出雲国から追放されて関東開拓団を連れてやってきたといい、何やら関東は先史時代における出雲国の敗者の配流の地といった感じだ。なお、兄多毛比が出雲国造と同じ天穂日命の子孫という見解には賛成できない。意宇郡出身の出雲国造家と大原郡出身の兄多毛比はその出自とするところが違うと思う。

まとめ

関東には出雲国からいろいろな理由によりやってきた多くの人が住み着いたようである。そのことが関東の人材の底上げを測ったのではないか。記録に残るだけでも卑弥呼女王の時代に関東から「魏」に随行員として派遣されているようである。その人々の子や孫が千熊長彦や荒田別、鹿我別につながったのではないか。関東に出雲系祭神が多いのも自然を崇拝するアニミズム信仰が多かったためと考えられる。それに、本格神道の出雲系の宗教しいては出雲の人々がやってきて現在のような形を整えたと思われる。古代においては関東の人が重用されている。これは出雲的交渉、算用、語学に長けていたからか。

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