出雲国の製鉄

はじめに

世の中「古代出雲ファン」が多いと見えて、インターネットを見ていると中には東の横綱「素戔嗚尊」、西の横綱「大国主命」と言わんばかりの書き方をしている人がいる。出雲国には現在の出雲市を中心とする勢力と安来市を中心とする勢力があって出雲市の方は青銅器を安来市の方は鉄器を使用していたらしい。使用時期が重なると言う説もあり、双方の文化圏は対立していたのかとも思われる。そこで我がブログに寄せられる鉄、鉄、鉄の信奉者たちは素戔嗚尊が安来の王で「鉄鋼王」と考えているようだ。しかし、出雲国の最大の地域社会は「意宇郡」であり、そこの王は今の国造家と考えられている。能義郡は後世平安時代に意宇郡から分離されたもので、古代の野城大神は熊野大神(意宇郡)が対大和国対策に設置した前線基地の将軍ではなかったか。能義神社界隈の遺跡からは鉄にまつわる遺物は発見されていない。そこで、出雲国と言おうか島根県と言おうか、素戔嗚尊ファンの期待に応えてみることにする。

文献資料

★日本書紀巻第一「神代上」第五段一書(第二)

『・・・次に素戔嗚尊を生みたまふ。この神性悪しく、常に哭き恚むことを好む。国民多に死に、青山を枯に為す。故、その父母勅して曰わく、「仮使汝此の国を治らさば、必ず残傷る所多けむ。故、汝は以ちて極めて遠き根国を馭らすべし」とのたまふ。・・・』 以上の文章をぼけーっとして読むと、伊弉諾、伊弉冉夫妻が現今で言う台風か何かの洪水被害を不良息子の素戔嗚尊に当たり散らしているのかと思うが、少し角度を変えて読んでみると、 「常に哭き恚むことを好む」は、川に大量の水を流している、しかも、「国民多に死に」は、流域の人々がたくさん亡くなっている。以上を考え合わせるなら、素戔嗚尊が後世の「鉄穴流し(かんなながし)」のような方法で砂鉄を採取し、鉱毒を含んだ水を川に排水し、その水を飲用した下流域の人々が大勢亡くなった。しかも、「青山を枯に為す」とは、木炭ないし薪を取るために自分の山でもないのに木々を伐採して青山を枯れ山にしてしまった。いつの世もこんな不良息子の迷惑行為に対しては親元に苦情が寄せられるもので、伊弉諾・伊弉冉夫妻はカンカンになって息子をしかりつけただろう。根国へ行けと言っている根国は今の関東地方のことか。関東には根岸、根津、根本など根のつく地名が多い。関東地方くらいまで行けば親も不良息子から解放されると思ったのだろうか。上記の神話が製鉄の話とするなら造られた鉄は時代的に見て現在の鳥取県の妻木晩田遺跡や青谷上寺地遺跡に供給されたものなのであろうか。

★日本書紀巻第三「神武天皇即位前記」庚申年九月

『媛蹈鞴五十鈴媛命を納れて、正妃としたまふ』 媛蹈鞴五十鈴媛命は一般に事代主命の子とされるが、日本書紀巻一神代上第八段では大三輪神の子とする。事代主命と大三輪神はともども「出雲の神」説や「大和の神」説があるが、一応、「出雲の神」説に従う。媛蹈鞴五十鈴媛命の蹈鞴(タタラ)の意味も諸説あるが、「タタラ」とか「タタ」という語は大陸の方ではおおむね「熱」を意味する語らしく、日本的に解釈をすると「火」を扱う人と言うことになろうかと思う。当時、「火」を扱う職業としては製鉄業(鍛冶業を含む)や製陶業が考えられ、神武天皇は現代流に言うなら事代製鉄株式会社(本社・出雲)の社長の娘を奥さんにしたと言うことか。このことは神武天皇が出雲国を平定し、そこの王の娘を正妻にしたと言うことである。神武天皇の最大のイベントは出雲平定にあったのだろう。また、「タタ」では、大田田根子という人がいたと言い、茅渟県(ちぬのあがた)の「陶邑」(すえむら)の人と言う。「陶」は言うまでもなく「須恵器」のことで大田田根子は草創期(古墳時代)の須恵器制作者かと思われる。 それにしても、同じ「火」を取り扱うのだから製鉄業(鍛冶業)の遺跡と製陶業の遺跡が併存していても良さそうなものだが、そういう遺跡はないようである。

★出雲国風土記(733)

仁多郡 三処郷、布勢郷、三沢郷、横田郷 『以上の諸の郷より出づる鉄は堅くして尤も雑の具を造るに堪ふ』

飯石郡 『波多の小川、飯石の小川 各々鉄あり』

★金屋子神社  「出雲国風土記」(733)および「延喜式神名帳」(927)にも記載無し。文献初見不明。 元々金屋子神社神主家の氏神社という説もあり、鎌倉、室町の頃に創建されたものか。

発掘資料

島根県の最古の発掘遺跡としては石見国山間部の今佐屋山(いまさややま)遺跡Ⅰ区(旧瑞穂町、現島根県邑智郡邑南町市木)で調査された六世紀後半(550~600)の製鉄炉が最古のものである、と言う。

結 論

1.我が国のたたら製鉄の元祖は岡山県というのが通説のようで「真金吹く吉備」と言われたが、その分資源の枯渇も早く、出雲国のように江戸時代が最盛期とはならなかったようである。ところで、鳥取県の妻木晩田遺跡や青谷上寺地遺跡から出土したおびただしい弥生時代の鉄器遺物はどこから来たのか、と言われそうだが、最近の発掘調査などから島根県安来市から鳥取県妻木晩田遺跡一帯を一つの地域ととらえる見方も有力だ。しかし、鉄の生産となると出雲のたたら製鉄は『江戸時代の中期以降に「大だたら」が盛んになったから』と言う見解もあり、それまでは今佐屋山遺跡にしてもその生産性は著しく低かったと考えられている。従って、日本海側にある弥生時代の鉄器遺物は、大国主命やその先達が此の地域を交易圏(商圏)とした産物ではないか。

2.年代不明の「野だたら」であるが、こんなのは数カ所をピックアップして島根大学や日立金属が鑑定すれば解ることと思うのだが、文献的に見ると金屋子神社の創建が比較的新しいと思われるので(信者がいなくては民間神社は成り立たない)、また、安来市のある能義郡は「出雲国風土記」では意宇郡の一部であり、平安時代に建てられたと考えると、おそらく平安遷都で鉄の需要が高まったのに農業専科の出雲国国造は鉄増産要請に応じず、よって能義郡郡司に鉄の増産をさせたのではないか。こんな国造は今なら差し詰め「明日から出仕に及ばず」というところだろうが、当時の中央政府は減俸に次ぐ減俸で、今なら賃金のカット、カット、カットと言ったところか。国造の経済基盤であった「神戸」が10世紀初頭には一ヶ所になったという。その頃国造廃業を決めたものか。たくさんの「野だたら」のあとはその時の能義郡司の夢のあとか。従って、年代不明の「野だたら」は早くて平安時代、場合によっては、今時大戦の軍刀が必要だとか何とか言って玉鋼を生産した痕跡かも知れない。

3.鉄で名を成す「吉備国」や「出雲国」は先史時代、古代においてその原材料や素材の卸元として存在意義を有していたことは間違いない。例えば、淡路島の鍛冶遺跡「五斗長垣内遺跡」の素材提供者は吉備国ではなかったか。また、日本海沿岸の国々や大和国に鉄素材を卸していたのも出雲国ではなかったか。特に、出雲国では素戔嗚尊が朝鮮半島からやって来た製鉄業者という見解もある。あるいは、「スサ」とは朝鮮語で砂鉄を意味する、と言う説もある。とは言え、素戔嗚尊ご一家が現在の島根県大田市五十猛町に上陸したという話はいかがなものか。「イソタケ」の「イソ」が「イサ」に通じ伊弉諾・伊弉冉神話の発祥の地とはなり得ても素戔嗚尊とは関係がないのでは。須佐の地名も島根県では一ヶ所。それも地形からの命名で砂鉄とは関係ないのではないか。そもそも、素戔嗚尊の「出雲国風土記」出演回数が四回と言うのもいかにも慌ててとってつけたような話だ。

4.安来市の本格的な繁栄も江戸時代に入ってからではないか。安来市内の竹ヶ崎遺跡・柳遺跡では弥生時代かの大量の鉄器の半製品が発掘されている、と言うが、「出雲国風土記」には鉄の話は出てこない。鉄、鉄、鉄はいいのだが、どのように利用されたかが問題だ。鉄は発見当初は今のアクセサリーのように利用されていたという説もあり、古墳時代にはもっぱら古墳の副葬品に利用されていたという説もある。武器にするには量産技術や修復技術が確立されていることが必要とのことで、弥生時代にはそのような技術はなかったというのが大方の見方である。「魏志倭人伝」にも「・・・竹箭は或は鐵鏃、或は骨鏃なり」とあり、鐵族が当時の最先端の鐵武器だったのか。おそらく安来市界隈は古墳が多く奈良時代頃は出雲国造一族の奥津城所(墓地)だったのではないか。

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