伊弉諾神と伊弉冉神

はじめに

伊弉諾・伊弉冉と言えば、失礼ながら訳のわからぬ「別天神」(五柱)とか「神世七代」(但し、伊弉諾・伊弉冉は神世七代の五組ある男女対偶の神のうち最後の神)とかあるなかで初めての具体的な夫婦神である。別天神五柱は独神と言うから今流に言うと独身で妹(妻ことに彼の姉妹)神がいなかったのであろう。但し、独神とは男女の性別のない神という見解があるが疑問。これは、とりもなおさず、我が国においては地位や家系の継承が原初は血筋ではなく、適宜の人物にあてがわれたことを意味しているのであろうか。別天神五柱は単に天神とも言われ、合議を持って伊弉諾・伊弉冉の神に詔している(古事記) 。天神は、まず、『「この漂へる國を修(おさ)め理(つく)り固め成せ」と詔りて、天の沼矛を賜いて・・・』とあり、伊弉諾・伊弉冉は淤能碁呂島(おのごろじま)を生成するのだが、この部分を「ノアの箱舟」などの洪水伝説で洪水が引いた後の状態を言う、と説く見解がある。現今で言えば、大津波の引いた後か、とも思うが、にわかに信じがたいお説と思われる。あるいは、水田を作るための湿地帯を言ったのかも知れない。即ち、国土の修理固成とは湿地帯の水田開墾の話か。記紀ともどもに葦牙(あしかび)なんて言葉も出てくるほどだから稲作に関わることかと思われる。ちなみに、葦牙とは「葦の芽」を言うとするのが通説である。沼矛というのも沼から水を引く、あるいは、畦を作るときに使う農機具のようだ。何分にも日本は「お米」の国で、じめじめしたところが好きらしい。 次いで、二人は淤能碁呂島で結婚して、長子水蛭子(ひるこ)、次子淡島(あはしま)を生んだが、二人に障害があったのか「子の例(たぐひ)には入れざりき」とある。これは、通説では伊弉諾・伊弉冉は兄妹で近親婚の弊害が出たものと解している。古い時代にあっては人口も少なく近親婚は当たり前のことであったようだ。近親婚がなければ人口は増えなかったと思われる。先史時代の遺跡を見ても大型の集落は少なく、人を増やすとなると近親婚しかなかったかと思う。これは日本だけでなく世界的なもののようだ。 次に、大八島国の生成となるのだが、生成の順序は1.淡道の穂の狭別島(淡路島)2.伊豫の二名島(四国)3.隠岐の三子の島(隠岐島)4.筑紫島(九州)5.伊伎島(壱岐島)6.津島(対馬島)7.佐度島(佐渡島)8.大倭豊秋津島、である。

伊弉諾・伊弉冉の神名の語源

最大公約数的意見としては、「いざなぎ」は、感動詞「いざ」に連体格助詞「な」を介して男性を表す「き」が接したもの、と言うものだが、区切り型としては、いさーなぎ、いさーなみがまず考えられる。この場合の「いさ」は、いそ(磯)、あるいは、いさご(砂)と考えられ、なぎ(凪)、なみ(波)とするなら、海岸の波がある時とない時を表現したものか。また、誘う男、誘う女、と言う意味に解する説もあるが、一説に誘う(いざなう)とは感動詞「いざ」に接尾語「なふ」がついて出来た語という見解もある。この場合、いざなーぎ、いざなーみ、と区切るのは不自然ではないか。「いさな」は魚(鯨、小魚)を意味する語か、あるいは、砂(す=洲、な)と同じ意味で(いさ=砂、な)か。いずれにせよ、海岸、あるいは、砂があるところを意識した名前のようである。ところで、「いざなき」、「いざなみ」の「き」と「み」だが、「き」と「み」を合体したら『きみ=君、公、天皇の初めの敬称(大王=おほきみ)』となり、我が国の当初の男女による統治形態を表しているのではないか。魏志倭人伝でも卑弥呼女王には「有男弟佐治國」とあり、男女の共同統治がにじみ出ているようだ。この場合は祭政一致の統治体制で女性は「祭」、男性は「政」を担っていたのだろう。卑弥呼女王の遙か前の人と考えられる伊弉諾・伊弉冉は男女共同統治者であっても何らおかしくない。二人が一体となって「キミ」だったのではないか。

伊弉諾・伊弉冉の出身地、あるいは、伝承地はどこか

多数説は、1.大八洲国生成の第一位に淡道の穂の狭別島(淡路島)があること2.淡路島には現在も伊弉諾神宮があること、を理由に、奈良時代当時は、淡路島は朝廷に魚類を提供しており、淡路島の海人族(漁師)に伝わった淡路島生成の伝承にその他の島々を敷衍して「大八洲国の生成」の神話を作成した、と。淤能碁呂島も淡路島あるいはその近隣にあった島の製塩所の様子を描写したものか。塩の精製法も塩田や釜で海水を煮詰めたりするのではなく、甕などに海水を入れ上からぽとぽとと落とし、落ちている間に水分をある程度蒸発させ下の受け皿で回収する方法か。大和国まで魚を運ぶには塩は必需品かと思う。滋賀県の多賀大社は淡路島の海人族が琵琶湖に進出した際に伊弉諾神宮を分社したものか。
「古事記」には他に、1.「伊邪那美神は出雲国と伯伎国との堺の比婆の山に葬りき」とか、2.「黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂と謂う」とか、3.「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到りまして、禊ぎ祓ひたまひき」などとあり、出雲神話にも同じ神名が出てくるようだ。そこで、古事記の原作者は双方の話を一体化して一つの神話としたようだがそこが問題だ。おそらく、淡路島生成の話と神々の生成の話とはまったく関係のないものだろう。あるいは、出雲神話にも天地創造的な神話があったかも知れないが、大和から遠いので割愛されたかも知れない。日本神話が語られ始めたのは2500年ほど前の水田稲作が始まった頃で、水田稲作とともに「呉」(春秋時代)からもたらされたものではなかったか。場所は水田稲作の先進地である九州北部と思われる。即ち、現在の唐津湾から博多湾にかけての白砂青松の地が国土の修理固成の地ではなかったか。そもそも、出雲神話に九州北部の地が出てくるのは出雲が九州北部を支配していた時期があり、その時採集されてものであろう。その後、大国主命一族は神武天皇に負けて大和の地に移されたのであろうが、なぜか出雲神話は多氏(おおのうじ)に保管されていたようである。「日本書紀」編纂の際には傍証に過ぎぬと言うことで採用されなかったのであろうが、太安万侶が天武天皇に泣きついて、天武天皇もうるさいので「それじゃあ、お前も書きなさい」となったのではないか。もっとも、大和国界隈には大神神社、大物主大神、大田田根子命と「大」のつく出雲系の神が並び、あるいは、多氏は神八井耳命の子孫などではなく出雲から来た人かも知れない。さすれば、多氏が出雲神話の保管者であっても何らおかしくはない。但し、太安万侶が「古事記」編纂の指示を受けたのは元明天皇からで和銅四年九月という。

結 論

伊邪那岐、伊邪那美の「伊邪(いさ)」は「伊蘇(いそ)」と母音交替し、これが伊覩(いと)国になったか(仲哀紀)。即ち、旧筑前国怡土郡がこの神話の元々の発祥地か。初期の水田遺跡がないようなので稲作との関連を結びつけることは難しいかも知れないが、漁業に関係した海人族であったようである。伊覩国は元々交易港として発展したと思うが、古事記の神功皇后新羅征討の段には「筑紫国の伊斗村」とあり、伊覩国と伊斗村が同じところとするとその凋落ぶりには驚かされる。また、「天の御柱を見立て」とか、「八尋殿を見立て」とか言っている。「天の御柱」とは一般には天上におられる神が地上に降り立つときに目印とする神木と思いきや、単に家屋の「大黒柱」とか神社の「真の御柱」のことのようである。日本は開闢以来大黒柱を持つ家が主流だったようだ。

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