6000年前の中国

★はじめに

最新の日本における稲作の年代について6000年前というのが最古のようでその内容を列記すると、

1.岡山市彦崎貝塚では6000年前の陸稲のプラントオパールが大量に発見された。

2.岡山市朝寝鼻貝塚の6000年前の地層からイネプラントオパールが発見された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。

3.岡山県真庭市美甘(みかも)姫笹原遺跡の4500年前の土器にもイネプラントオパールが発見された。

地域は岡山県に偏っているものの6000年前の二地点からイネのプラントオパールが発見されている。無論、稲や麦は日本に自生していたものではなく(中国の漁師が食料として持っていた稲籾が何かの拍子で海に流れそれが日本にたどり着いて自生した、と言う見解もあるようだが、我が国では戦後になっても「貧乏人は麦を食え」などと言い放った政治家もおり、いくら中国が稲作先進国であっても6000年前に白米であったか赤米であったかはわからないが、米を食べることができた人は王侯貴族など一部の特権階級(当時は母系氏族社会で貧富の差がない平等な社会であったなどという見解もあるが、似たような我が国の吉野ヶ里遺跡を見てもさような見解は疑問である)ではなかったか。但し、唐の時代になるまで華北・中原では粟が主食で、米は雑穀の類いだった、という見解もある)、中国の稲作農民とともに日本に入ってきたのではないか。麦についても中国に麦が入ってきたのは紀元前1世紀の前漢の頃とするのが一般的だが、6000年前に栄えていた仰韶文化では粟が主力穀物ではあったが、米や麦も栽培されていたと言う見解もある。紀元前1世紀と今から6000年前というのはあまりにも開きが大きすぎるので検討の余地は大いにある。 そこで問題になるのは、中国農民はどうして稲籾(陸稲)や小麦、鳩麦(現在の鳩麦は朝鮮原産のようである)の種子を日本に持参したのかと言うことである。よくある「日本で一旗揚げて故国に錦を飾る」なんて発想はなかったのではないでしょうか。何か切羽詰まった事情があって日本にやって来たのではないだろうか。当時にあっても日本と中国とは「一衣帯水」の隣国ではあってもそう簡単に行き来のできる国同士ではなかったと思います。そこで検討すべきは当時の中国の状況ではないだろうか。

★6000年前の中国の状況

当時の中国は有史時代ではなく、先史時代で、遺跡の解析や状況判断が重要になる。同一傾向にある遺跡をひとくくりにして「何々文化」と言うもののようである。当時は黄河中流域の仰韶文化、黄河下流域の大汶口文化、長江中流域の大渓文化が対立していたという。

河姆渡(かぼと)文化(B.C.5000頃~B.C.3500頃) 長江下流域(現在の寧波から杭州にかけての地域)にあった。B.C.5000(7000年前)の地層から栽培稲の稲束が発見された。世界最古の水稲栽培の例(但し、水田遺構がないので河姆渡の稲は水稲か陸稲か判然としないという見解もある)で、栽培の元になった野生稲である「ルフィポゴン」も見つかったと言う。ここが水稲の栽培発祥の地であるかとも言われている。但し、江西省や湖南省で1万年以上前に遡る稲籾が発見されており、これらは陸稲と言われている。

仰韶(ぎょうしょう)文化(B.C.5000頃~B.C.3000頃) 黄河中流域(現在の河南省、陝西省および山西省)にあった。仰韶、大汶口、大渓の三文化の中では勢力、勢力範囲、文化などで他を圧倒した。特徴としては、粟を耕作していたが、一部では麦や米を耕作していたと言う。焼畑農業か永続的な農地での集約農業かは不明。豚や牛、羊、山羊を飼養していたが、肉の大部分は狩猟で得ていたらしい。養蚕も行われていたようだ。石器は研磨され用途により専門化していた。土器は彩陶であったが作成にはロクロは使用しなかった。集落は完全に環濠で取り囲まれていた。西安に近い半坡村の半坡遺跡では半坡文字と呼ばれる文字に近い記号も発見されている。

大汶口(だいぶんこう)文化(B.C.4100年頃~B.C.2600年頃) 黄河下流域(現在の山東省、江蘇省北部、黄海沿岸・渤海南岸から魯西平原の東部、淮河北岸の一帯)にあった。粟を中心とした農業経済が主で、豚・犬・牛・羊を飼育して、狩猟・漁業も行っていた。習俗としては、後頭骨を人工的に変形させたり、成年が上の門歯を抜歯したり、亀甲を死者に載せたり(?)、死者の手にキバノロ(鹿の一種)の牙(成獣の雄は犬歯が発達し、牙のようになる)を握らせる等、大汶口文化に特有な一種の習俗の痕跡としてある。また、遺跡からはトルコ石・ヒスイ・象牙などでできた加工品および陶器が多く発見されている。末期の陶器作成にはロクロの使用もあった。

大渓(だいけい)文化(B.C.5000年頃~B.C.3000年頃) 長江中流域(現在の重慶市及び湖北省から湖南省の三峡周辺及び両湖平原)にあった。稲の栽培が大規模に行われていた。竹編みの泥壁のある家屋や環濠集落なども発見されている。土器は紅陶が主で、晩期になるほど紅陶が減少する。次で灰陶・黒陶で、ごく少量の白陶と薄手の橙黄陶がある。いずれも手びねりで成形された。

★以上の考察

1.内陸にある仰韶文化と大渓文化の遺跡では環濠集落が見られる。当然ながら外部からの侵入を押さえるために環濠が張り巡らされたものと思われる。一説に、当時の気象変化(寒冷化、乾燥化)のためトルコ族、モンゴル族、 ツングース族等が南下したとする。また、チベット高原の人達(後世、羌〈きょう〉族とか氐〈てい〉族とか言われる)が周りの民族の移動から自然とチベット高原から押し出され、黄河流域に住み始めたという。いずれにせよこれらの周辺民族の移動は、いくら環濠をめぐらした集落に住んだとしても、黄河流域や長江流域の人に何らかの影響を与えたかと思われる。当然、玉突き現象が起きて中原の人の移動もあったと思う。 2.大汶口文化の習俗が日本の古代習俗と似ているようにも思われる。頭蓋変形は鹿児島県南種子町所在の史跡「広田遺跡」出土の人骨にあり、広田人は後頭部が偏平であり、いわゆる絶壁頭と呼ばれるもので意図的に頭蓋骨を変形させる習俗があったと考えられている。但し、日本ではこの習俗が認められるのは広田人のみである。抜歯は土井ヶ浜遺跡に顕著である。亀甲は日本では卜占に使われたが、墓には入れられなかったようである。動物の牙に到っては発掘例も少ないようである。せいぜい装飾品に加工されて使われたのみか。 3.仰韶、大汶口文化圏では主要穀物は粟で米の栽培は少なかったようである。これに対し、大渓文化圏では稲の栽培が大規模に行われていたようである。日本では粟の栽培が先行していたと思われるが、現今のマスコミでは稲ばかりが報道されている。粟は日本に原産種はなく大陸から縄文時代に伝わったとされる。

★結論

1.日本列島には6000年前の中国大陸における民族移動の結果、華北・中原にいた漢民族の一部(仰韶文化と大汶口文化の担い手か)が朝鮮半島を経由して日本列島にやって来た。おそらく、日本に逃れたのは、粟、米、小麦を栽培していた人達(日本では岡山市朝寝鼻貝塚の住人か)のほんの一部で、その多くは当時半島に住んでいたY染色体ハプロタイプD2(日本人男性と同じ)を半ば駆逐し、半島の人種構成を変えてしまったのではないか。その頃に、今の「日本人と朝鮮人」や「日本語と朝鮮語」の原形ができあがったと思われる。もっとも、日本にやって来た人は極々少数だったので当時の日本に与えた仰韶文化や大汶口文化の影響は少なかったのではないか。日本は旧石器時代は肉食が主体の国で、穀物が入ってきても粟よりも米であり、大汶口の習俗も日本全土に広がったとは言いがたい。ここでの結論は陸稲、粟、小麦の導入先は中国の華北からであり、その経路は朝鮮半島を経由したものと思われる。日本人と朝鮮人はこの頃袂を分かった。 2.環濠をめぐらした集落は日本の遺跡でも多々見受けられるが、これも中国からもたらされたものなのであろうか。時代が大幅に違うので双方で自然発生的に発生したものなのだろうか。日本では弥生時代に入ってからの吉野ヶ里遺跡環濠が有名であるが、6000年前の仰韶文化等とはかなりの開きがある。やはり日本と中国の環濠は別々のものなのだろう。 3.養蚕、畜産、漁業なども中国では6000年前には行われていたようであるが、日本にははるか後世(弥生時代が主)に伝わった。但し、漁業は日本でも旧石器時代から行われていたという見解もある。狩猟と同一視されていたのだろう。

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