日本に稲作を伝えた人

《はじめに》

最近は考古発掘の進歩のためか日本の稲作は6000年前だとか7000年前だとか言われており、以前の朝鮮半島渡来説や大陸からの直接渡来説、南島経由説などはどこかへ吹き飛ばされたような感じだ。しかし、いずれの遺跡から発見された稲はいわゆる焼畑農業による陸稲とのことで、量産化した水稲とは違うようである。このことを持って日本には6000年前から既に稲作が始まっていたというのはいかがなものか。もちろん、稲作は陸稲、水稲ともに現在も行われており、それに難癖をつけるものではないが、やはり稲作と言えば現在主流の水稲であり、先史時代、古代にあっても水稲が導入されてからは、稲作とは水稲を言うのではないか。 そこで、稲の検出された遺跡を見てみると、

陸 稲 1.島根県飯石郡飯南町志津見の板屋Ⅲ遺跡から縄文時代草創期(約7000~9000年前か)の地層(アカホヤ火山灰層の上下)で稲のプラント・オパール(ほかにヒョウタンとキビのプラントオパール)が検出された。但し、稲の存在が肉眼で確認できるのは晩期後半の稲圧痕の土器である。(平成13年度調査、平成15年3月発表)

2.岡山市津島東の縄文時代の朝寝鼻(あさねばな)貝塚で、約6000年前の縄文前期の土壌から、栽培されたとみられる稲の細胞に含まれるプラント・オパール(ジャポニカ(短粒種)と見られる)が見つかった。また、稲のほか小麦とハトムギのプラント・オパールも見つかった。(平成11年4月21日発表)

3.岡山県美甘村「姫笹原遺跡」で縄文時代中期中葉(約4500年前)の稲のプラント・オパールを検出。(平成6年)

4.岡山県総社市南満手遺跡から縄文時代後期(約3000年前)の籾の痕のついた土器および土器の土の中からプラント・オパールが発見された。(平成4年年3月)ほかに約3500年前の縄文時代後期中葉の土器片からも稲のプラント・オパールが発見されていたと言う。

水 稲 1.佐賀県唐津市菜畑字松円寺の菜畑遺跡。縄文時代後期、今から2500年から2600年前ぐらいに日本で初めて水田耕作による稲作農業が行われていた。

2.福岡市博多区板付の板付遺跡。縄文晩期か弥生早期で評価は定まっていないようである。

水田の草創期の遺跡は九州北部に多いようである。今から2500年から2600年前は中国では春秋戦国時代に当たり混乱から日本列島に逃れてきた人が水田稲作方法を籾、農機具、水張り等のノウハウをワンセットで持ち込んだのではないかとされる。 以上より日本には稲の祖先型野生種は存在しないと言うことで、陸稲、水稲のいずれにせよ外国から持ち込まれたものという。もっとも、中国における稲作は陸稲では江西省や湖南省で1万年以上前に遡る籾がたくさん発見されており、古いものは1万2000年前のものという。また、最古の水田遺跡は、約6000年前の揚子江下流江蘇省呉県の草鞋山遺跡で見つかっていると言い、いずれも日本の稲作発祥よりかなり先行しているようだ。

《稲作の言葉》

どう見ても日本の稲作は中国から伝来したようで、中国人が持ち込んだものか、はたまた、日本人が先方で学んだものか今ひとつはっきりしない。多数説は中国人が来日時に持参したものと解しているようである。そこで、日本人が稲作に使う用語はどのようなものであるかを見てみると、

田(た)  田の音は今はデンとかテンとかティエンなどと言うようだが、古くは「チン」とか「タン」とか言ったようである。特に、「タン」は、近時(と言っても20年以上前)、中国新疆ウイグル自治区のホータンが漢字で「和田」と表示されるようになった。この「タン」は坦の意味で平坦のことと言う。水田は水を張る構造上平坦でなかったらだめなのであろう。そこで、この「タン」を日本語に置き換えてみると「タン」→「タニ」→「タ」と変化したのではないか。タニは谷、タは田となったのではないかと考える。「タニ」であるが今のように渓谷などを言うのではなく、田に水を引く灌漑溝を言ったものか。なお、長野県以東は沢(さは)、富山県以西は谷(たに)と言うので、谷は弥生人が大陸から持ってきた言葉、沢は縄文以来の言葉という見解もある。但し、稲作は川沿いの小盆地、小川谷平野から始まったという見解もある。また、日本語の水田を意味する田(タ)は中国語の田(タン)が日本語化されたものだろう。

土(つち)  土(つち)の語源は、土(tu)地(ti)である、と言う説もある。大和言葉では「ナ」と言ったか。日本語にはこの種の言葉がある。例として、土筆・筑紫(つくし)–但し、土筆は突杭と書くべきとの説あり–、鶴・津留(つる)、津軽(つがる)、露(つゆ)など。これらの「つ」には土の漢字を当てるべきなのだろうか。

畦(あぜ)  畦を意味する日本語は「ア」、「クロ」、「アゼ」の順に変化しているらしい。そこで、最初に使われたであろう「ア」の語源を見てみると、「ア」はタ(田)の界(かい)とあり、中国では日本の畦に相当する語は「界」であったようである。即ち、日本の畦を意味する最初の語「ア」は中国語「界」の「カ」音の「K」音が欠落したものか。但し、界の呉音は「ケ」という。

米(こめ) 御米(ごめ)の清音化したものか。しかし、発音はともかく、日本では誰に対してでも使う「御」は中国では古来より天子専用接頭語だったらしい。そんな高貴な人の側仕えの人が未だ先史時代とはいえ日本に逃げてきたかは疑問ではある。但し、「倭人は泰伯(太白)の後を自称した(「魏略」ほか)」ともあり、あるいは、春秋時代の「呉」や三国時代の「呉」の重臣が今の上海から直接長崎県や佐賀県に亡命したことも考えられる。常識的には一般庶民の亡命者が700年近くにわたって自分たちの祖先の名前を覚えているとは思われない。春秋時代の呉の滅亡が西暦・前473年と言われ、日本の水田稲作の起源が2500年前と言うなら、あるいは水田稲作は呉の亡命者がもたらしたものか。現今の「コメの語源」の通説は大和言葉から発生したもので「籠める」の意味だという。しかし、後述の中国の古音を伝えるという客家の人は米をMIもしくはMAIと言うらしい。イとエの区別がつかないのは何も日本人だけでなくどこにでもあることである。(例、meミーとmemoメモ En.)また、AIもエと発音することも珍しいことではない。(例、MAISONメゾン Fr.)従って、米(こめ)を意味するMIやMAIがME(め)と発音されることは大いに有りうることだと思う。万葉仮名でも「米」は「め・乙」となっている。すなわち、米の発音は中国人にあっても「め」で現在の米の意味であり、「こめ」の「こ」は何らかの形容詞か接頭語であったのではないか。あるいは、古辞書では「米」の訓として「ヨネ」が、「穀」の訓として「コメ」が多いという。これなら、脱穀精米したものをヨネ、穀(もみ、籾は国字)付きがコメともとれる。そこで、渡来中国人は穀米と書いて一昔前の沖縄方言のようにKUMIとかKUMEとか発音したのではないか。漢和辞典には穀の字にローマ字でKUKとかKUと書いてあるものがある。この「クミ」ないし「クメ」がその後「クマ」(出雲大社宮司さんに寄れば、神に捧げる神聖な供物という意味とか)と「コメ」に分岐したものか。

稲(いね) 稲や種、米(よね)などの「ね」は土の下を意味する大和言葉と思われる。さような意味で稲は大和言葉であろう。しからば、稲の「い」や米(よね)の「よ」は何を表すのであろうか。「い」は「いひ(飯)」の「い」のことと言い(大言海)、「よ」は「よ(節)」のことを言うか。あるいは、yong(ヨン)→ヨニ→ヨネと変化した元中国語か。さすれば、稲(イネ)も中国語の音がなまった可能性も否定できない。あるいは、地形用語で「イナ」とは砂を古く「ヨナ(ヨネ)」と言ったものの転、という説もあり、例として、イナ(伊奈、引佐、因幡、印南など)、ヨナ(ヨネ)(夜梨、米生、米田、与禰など)がある。「ヨネ」は日本海側に広く分布する地名で「砂地」のこと、と。「イ(yi)」と「ヨ(yo)」は何か音韻交替したものか。

客家(族)のこと 中国にまつわる映画などを見ていると、時折、客家(ハッカ)という言葉が出てくる。漢民族で広東省などの華南に多く住んでいるらしい。日本語で言うと戦争難民とかボートピープルと言われる人だ。中国は何度も王朝が代わりそのたびにこの種の人が出てくるようである。客家は言語や生活様式などで中国の古式を伝えていると言い、たとえば、一部の客家は、稲のことを「YONG」(日本語のヨネに相当する言葉か)と言い、米のことを「MI」または「MAI」(日本語のコメの「メ」に相当する言葉か)と言っているという。

以上より見ると日本語の稲作用語には何やら中国語の影が見え隠れする。よく稲の起源は東南アジアと言い東南アジアの言葉を列挙する人がいるが、水稲は中国が発祥の地とすると中国語が日本にも東南アジアにも伝播しアジアの広範囲で似たような言葉が使われているのではないか。

《結 論》

まず、日本の陸稲が水稲に変異し、日本で稲作水田が考案されたというのは首肯しがたい。水田稲作は中国がかなり先行しており、中国から技術導入したと考えるのが常識的ではないか。

次いで、日本人が先方に赴き技術習得して水田稲作を始めたと言うのも、環境の違い等を勘案すればリスクが高すぎるような気がする。また、先方がそうやすやすと農具やノウハウを譲ったり教えたりはしないだろう。また、日本の水田稲作の遺跡から勘案し、水田稲作の草創期は2500年から2600年前のこととされるが、その頃、九州北部と朝鮮半島は交易をしていたと言い、日本人(倭人)が見よう見まねで水田稲作をマスターし、菜畑遺跡や板付遺跡で縄文人が水田稲作を開始したというのも賛成しがたい。もっとも、菜畑も板付も朝鮮半島に面しており、両遺跡が日本の稲作の前線基地でそこから朝鮮半島に移植したものか、はたまた、両遺跡が朝鮮半島からの稲作技術の受け入れ地だったのかはにわかに決めがたいと思われる。もっとも、稲の種類は中国、朝鮮の方が多いと言うことで、日本が当時の任那に水田稲作を広めた、というなら、朝鮮半島の稲は1000回の中国の侵略(真偽のほどは定かでない)で徐々に半島に入ってきたと言うべきか。また、朝鮮半島の稲作遺跡地図を見ていると面積比では朝鮮半島の方が中国華北地方より遺跡数では多いような気がする。朝鮮半島にも華南から稲が入ってきたのであろうか、はたまた、日本からなのであろうか。

最後に、先方(中国人)が必要に迫られて日本にやって来て水田稲作を始めた。上海と九州北部(長崎県、佐賀県)は春に南風に乗って数日程度で日本に来られるという。九州北部に水田稲作の遺跡が多いのも朝鮮半島から来た人が開墾したのではなく中国の戦争難民(客家)が開いたものではないか。前述のように日本の稲の種類は中国や韓国から比べると極端に少ないという。これはおそらく客家の人が持参した籾は食料として持参したものであり、稲作を念頭にはしていなかったと思う。日本の事情がわからなかったため生きんがための方策であろうかと思われる。無論、量も少なかったと思う。しかし、日本で明日を生きるためには「一粒万倍」の水田稲作が必要だったのだろう。彼らはそれに果敢に挑戦し、成功した。最初は二期作で生産性を上げたのかも知れない。当時の九州と華南はそんなに気候が違わなかったのではないか。農具も手法も日本で徐々に開発し、日本独自の稲作農業を展開したのではないか。従って、日本には稲作普及のため大量の農業技術者が来たわけでもなく、初期には小型の水田が多いのも少人数で細々と始めたからではないのか。せいぜい客家の数家族がやって来て、在来の縄文人と必要品を物々交換(客家は米、縄文人はその他の生活用品すべて)して、数年もすれば言葉も覚え、九州北部では農業革命が起こったことは間違いがない。

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