Y染色体ハプロタイプD2のサマリー

1.Y染色体ハプログループD2はどこから来たか。

a説 中央アジアよりバイカル湖、アムール川、樺太・北海道を経由して日本へ。

b説 現在の中国・東南アジア方面のY染色体O(オー)が来る前にいた先住民。

a説(アリゾナ大学マイケル・F・ハマー説)は、中央アジアでチベット人・日本人のグループとインド・アンダマン諸島オンゲ族が分かれたと言うのであろうか。チベット人と日本人は途中で「けんか別れ」したか「円満に別れた」かは不明であるが、既に中央アジアで別れたのであろう。このときのチベット人、日本人のY染色体ハプロタイプはD1でなかったか。日本列島に進出したハプロタイプD1は朝鮮半島にも出かけたようで、朝鮮人にD1が6%(Karafet等の調査による)(注)いるというのも説明がつくのではないか。また、朝鮮人のハプロタイプにO(オー)が多いのにもかかわらず、語順が日本語と同じS.O.V.と言うのも、まずD1がいてその後にO(オー)が入ってきたと理解すればわかりやすいのではないか。即ち、先史時代(3万年ほど前か)においては日本列島にも韓半島にもほぼ同じ人が住んでいたのかも知れないと言うことである。

b説は日本での多数説のようであるが、ハプロタイプDが中央アジアから来たとしてもどのような足跡で現在の中国や東南アジアへやって来たのであろうか。O(オー)が後ほどやって来てDを東西(日本とチベット)へ追いやったと言っているが、シベリアの方とオーストラリアにいるCはどうなるかと言うことである。常識的にはまずCがいてそれをO(オー)が南北に追いやったと考えるのが普通ではないか。この点に関しては、CとDは常に行動を共にしていたと言う説があるが、CとかDと言っても現在では何のことやらわからないが、当時ははっきりとした区別(一般には、肌の色が違うと言われている)があったのではないか。そんな肌色の違った人達が一緒に行動するとは思われない。動物だって毛色の変わった仲間を排除するように、当時の人類だってまだ動物に毛が生えた程度の段階ではなかったか。それに、C・D同一行動説についてはC・DがO(オー)に追われたときCは南北にDは東西にときっぱりと別れることができるものかはなはだ疑問である。また、Dが現在の中国や東南アジアにいたというのもいかがなものか。日本人は、倭寇や東南アジア方面の日本人町に見られるように東南アジアから中国へ、現在ハプロタイプO(オー)の人が住んでいる地域を囲むようにして進出して来た経緯がある。その人達の子孫もいないと言うことなのであろうか。無論、日本はその後300年の鎖国を行っているので、少子化傾向の強いDは人間(Dの男子)の継続的補給がなかったなら子孫繁栄とは行かなかったのかも知れない。とにかく、O(オー)がアジアへ来たのはCやDはもとよりインドの先住民にも遅れた最後着の住民《O(オー)の言葉の語順がS.V.O.なのはどこかでインド系の人と接触があったからであろう。あるいは、東南アジアの研究家の言う東アジア人の移動は東南アジアから中国へ、中国から日本へ、と言うことで、東南アジアのサンスクリット語が中国に入ったと言うことか。それにしては韓半島や日本にはSVOは入ってこなかった》で、そんな人の居場所は残っていたのか。既存の住民を押しのけると言っても武力などで簡単にできたものなのだろうか。おそらく、彼らが自分たちの生活圏を確保したのはそのバイタリティーで人口増を招き、Cを北(中国への進出)と南(東南アジアへの進出)に追いやったのではないか。こう見ると、O(オー)の最初の落ち着き先は現在のミャンマーか中国雲南省あたりか。

以上より、東アジアへまずやって来たのは中央アジアより日本やチベットのD系統であり、次いでC系統が、最後にやや遅れてO(オー)系統がやって来たのである。一般論でも、D系統はY染色体の中でも非常に古い系統である、と言われている。当時はシベリアのCはまだいなかったかまばらだったと思う。あるいは、C系統が東アジア全体に最初にやって来ていて、我がご先祖様のD系統はデニソワ人とやらに「あっちへ行け」と言われC系統には「こっちに来るな」と言われ、肩身の狭い思いをして我が日本列島にたどり着いたのかも知れません。

2.Y染色体ハプロタイプD2は日本人特有のものか。

インド・アンダマン諸島のオンゲ族を根拠にか、Y染色体ハプロタイプD2の分岐地域をスンダランドとか黄海ランドという人もいるが、正当なのであろうか。よく調査をしなければわからないが、今のところY染色体ハプロタイプD2の人は日本列島にしかいないとされる。さすれば、Y染色体ハプロタイプD2は日本で発生したと考えるのが一般常識ではないか。即ち、Y染色体ハプロタイプD2はY染色体ハプロタイプD1とmtDNA・N9bとの間に生じたものではないか。日本では倭人もアイヌ人も一夫多妻制と言うが、Y-DNAD2とmtDNAN9bの組み合わせが経験則上人口減少等を招いたので一夫多妻制になったのではないか。また、北海道の縄文時代の遺跡で「両足が麻痺した小児麻痺の人が20歳まで生存した」とか北海道や東北の縄文遺跡に多い「赤ちゃんの手形や足形付き土製品」などは少子化社会の象徴ではないのか。

3.日本語はどこから来たのか。

日本列島で人間が組織的に移動したのは北海道の旧石器人(バイカル湖あたりからやって来た人々か)である。稲田孝司著「遊動する旧石器人」では本州の津軽半島(青森県)から出雲地方(島根県)まで徐々に南下した様子が描かれている。また、曰く「北海道の旧石器遺跡では、生活のあり方がとても具体的だ。南西日本(中部地方から南の地方か–筆者の注)とは異質である。・・・メリハリのきいた生活パターンが実際にあってその姿が遺跡に反映したと理解すべきだろう。・・・旧石器時代の南西日本においてはナイフ型石器のように指標となる器種を除けば、そもそも器種の数が少なく、定型化の度合いが弱い。生活そのものにあまり変化ががなかったのではないか」と。そして北海道旧石器人の結末を「・・・本州の西端近くまで植民活動を延ばしたけれども、文化的な純粋さを強く保っていただけに在地の集団からはほとんど孤立した状態であったにちがいない。在地の集団に飲み込まれたのだろうか」と述べておられる。このような人の言語が日本の基幹言語になったかは疑問視する向きもあろうかと思われるが、彼らは今で言う定住(支店を設ける)と出張(支店から旅をする)を組み合わせて湧別技法を拡販しており、慎重にことを運んでいる。その慎重さから彼らの言語が信頼を得て日本の言語になったことは想像に難くない。語彙は一万年もするとすべてが替わってしまうと言う説もあり、今の語彙がどこから来たものかは検討を要する。但し、通説的には「南方的下層の上に北方的上層が覆い被さったところの二重構造言語」と解している。Y染色体ハプロタイプD2が北方から来たものなら北方由来であろうし、南方から来たものなら南方由来の言語となろうかと思うが、Y染色体ハプロタイプO(オー)(現在の日本の人口では60%近くという)が南方系なので語彙的には南方系の語彙が多く、北方起源の語彙はやや少ないのではないかと思う。

(注)「Karafet等の調査」は再確認しようと思ったが確認できなかったので、Hong Shi等の調査(これも他の文献を引いているらしい)に朝鮮人としてD*-M174(4.40%)+D1-M15(2.20%)=YAP+(6.60%)が近似の数値かとも思う。また、Soon-Hee Kimと言う方の調査では日本人、朝鮮人ともにD1はなく、日本人D2(29.30%)、朝鮮人D2(1.58%)となっている。しかし、この調査はそれぞれの国における調査地点が偏っていたり、日本人の調査と朝鮮人の調査に10年の開きがある。

 

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