杉山神社

はじめに

神奈川県横浜市並びに川崎市界隈には「杉山神社」という神社が集中して存在する。古記録はほとんどなく口伝ないし口碑が主なる由緒来歴を知る手がかりである。延喜式神名帳に武蔵国都筑郡一座小として杉山神社がある。この神社が現存するどの神社を指すのか、あまたの論社と言われる神社が並べ立てられている。解説文の中には多いところでは10社ほどが列挙されている。杉山神社の多くは創建年代不詳であり、記述があっても当てにならないと取り上げられず、時代が下って記録が豊富になってくる江戸時代の創建と推測するところが多いようだ。そこで創建年代の古いものから拾ってみると、
1.鶴見神社(杉山大明神) 推古天皇の時代(593~628) 鶴見区鶴見中央
2.戸部杉山神社     伝白雉3年(652)      西区中央
3.茅ヶ崎杉山神社    白鳳3年(674)9月      都筑区茅ヶ崎中央
以上は曲がりなりにも「延喜式」施行以前に創建されたとあるので、延喜式神名帳の有力な論社となることは間違いないと思う。ほかに創建年代があやふやではあるが可能性の高いものとして、
4.吉田杉山神社 「都筑郡吉田と云うに杉山という小地名」とか「千年に渡る旧家がある」都筑区新吉田町
5.星川杉山神社 「下星川村にあり。延喜式内の神社にして」(江戸名所図会)保土ヶ谷区星川

有力三論社を検討する

鶴見神社
武蔵国橘樹郡鶴見村(都筑郡ではない)に鎮座 現・鶴見区鶴見中央
昭和37年(1962)弥生時代後期の土器や古墳時代の土師器、鎌倉時代に至る祭祀遺跡を発見
鎌倉時代より伝えられた神事芸能「田遊び」がある(黒川春村「杉山神社神寿歌釋」)
仁治2年(1241)鎌倉将軍・藤原頼経が奉納したと伝えられる欅や富士塚がある
全国的にも非常に古い神社と思われるが「延喜式」の編纂が始まった頃にはほかにも「杉山神社」と称する神社があったかと思う。古いだけで「延喜式神名帳」に登載されたかは疑問である。

戸部杉山神社
武蔵国久良岐郡戸部村(都筑郡ではない)に鎮座 現・西区中央
白雉3年(652)、杉山一族が出雲大社の大己貴命の分霊を塩田の浜に祀ったと言う。
神社名の起源は地名ではなく人名(姓)か。ちなみに、杉山姓の発祥地の一つに神奈川県湯河原町があり神奈川県で38位、静岡県で5位の多さを誇るという調査もある。
祭神も「大己貴命」で、多くの杉山神社が「五十猛命」もしくは「日本武尊」を祭神とするのとは趣を異にする。
戸部村は往古は漁村であったらしく、西戸部町に縄文時代後期の「池ノ坂貝塚」がある。

茅ヶ崎杉山神社
武蔵国都筑郡茅ヶ崎村に鎮座 現・都筑区茅ヶ崎中央
大正9年10月13日神社合祀記録碑より(原文は「安房忌部家系之図」か)
勅願所式内武蔵國都筑郡之一座當國三ノ宮枌山神社祭神由布津命 傅記云由布津命ハ天日鷲命之孫也 天武天皇白鳳三年九月堅田主命二十代ノ孫忌部勝麻呂依御霊而奏天朝武蔵國枌山乃國ニ立神籬右大神ヲ奉リ枌山社ト號シ奉ル 勝麻呂ノ弟義麻呂祭主トシテ奉仕 麻ノ貢ヲ奉リキ仁明天皇承和五年預宮幣ニ嘉祥九年五月授従五位下封田ヲ寄玉フ 遥後元暦二年正月廿一日依御願而従鎌倉殿御奉幣有之タリ鎮座記元一千二百十余年也
上記由緒書では「祭神由布津命」となっているが、現在は五十猛命である。枌山乃國ともあるので神社名は地名より名付けられたと思う。天武天皇の頃は国家神道発揚の時代なので言われてみれば「そうかな」とも思うが、全体的にほかに間違いもあり失礼ながらうさんくさい文章だ。それに、枌山乃國と言っているのも本来は吉田杉山神社のことか。

まとめ

杉山一族は出雲国からやって来た産鉄の民とする見解もあるが、いかがなものであろうか。杉山氏は武相発祥の一族ではなかったか。産鉄と言うが都筑郡で鉄がとれたのか。都筑郡には鉄(くろがね)村(現・青葉区鉄町)があったが、製鉄遺跡などはあるのであろうか。一説によると「たたら遺構」は「矢崎山遺跡」(都筑区荏田南町)と「西ノ谷遺跡」(都筑区南山田)からの出土のみであると言う。矢崎山遺跡は古墳時代のものと言い渡来人が招来したものではないかという。西ノ谷遺跡は「10世紀に大溝が掘られ、竪穴形の鍛冶工房(かじこうぼう)が形成されます」とあり、かなり後世のものである。おそらく、産鉄と杉山神社ないし杉山一族は結びつかないのではないか。
「続日本後紀」の第7巻、承和5年(838)2月庚戌の条「武藏國都筑郡枌山神社預之官幣。以靈驗也」の霊験が鉄の玉一個の献上を意味するものか。矢崎山遺跡(5世紀の後半ごろに開かれ、6世紀中頃まで)では各住戸にカマドが備え付けられ、鉄製の農具や武具を製作する鍛冶技術を有していたと言う。長続きしなかったのは鉄の産出がなかったからではないのか。
橘樹郡、都筑郡、久良岐郡などでは9世紀になると突如として台地や山間の集落が出現し、10世紀後半を待たずして終焉を迎えている。これは杉山神社の立地条件と重なり合うものがある。一応、国司の収奪に耐えきれない人々に地元の郡司階層の人が開墾の鉄製農具や種籾などを貸し与え不毛の地であった台地や山間に新しい村々を広げていったのではないかと言われている。その新しい村々の鎮守が杉山神社だったか。もっとも、9世紀頃の杉山神社は1社ないし数社しかなかっただろうから新しい村々の全部に杉山神社が創建されたとは思われない。
そもそも、9世紀や10世紀の橘樹郡や都筑郡、久良岐郡は今で言えば過疎地帯で納税額も少なかったのではないか。それが延喜式神名帳に登載されるとなるとやはり多額納税者がいてその者の尽力により神名帳登載となったと思う。その者は誰かとなると、都筑郡あたりの郡司階層の人ではなかったか。都筑郡の郡司は「地方の有力豪族であるが、具体的には不明である」と言うのが通説で詳細はわからない。よく出てくる、杉山一族であるが、戸部杉山神社の方の杉山氏は漁師(網元)ではなかったか、また大熊町杉山神社では出雲族である杉山一族が、この地に移住したとの伝承があると言う人もいるが産鉄の民とは信じがたい。「霊験の故に官幣に預る」などと言っているのも、現代流に言うと贈り物攻勢のことなのではないか。官位の売買を栄爵という。後述の無位から従五位下になるのも典型的な栄爵だ。武蔵国の片田舎に都にないような特産物なんてあり得ない。もっとも、栄爵の話に乗ったのは都筑郡(茅ヶ崎杉山神社)の郡司だけで、橘樹郡(鶴見神社)や久良岐郡(戸部杉山神社)の郡司は乗らなかったようだ。後世、茅ヶ崎杉山神社が延喜式で官社に登載されたので鶴見や戸部の神社は官社並みの待遇を狙って神社名を「杉山」へすり寄せたか。
祭神であるが日本武尊と五十猛命が半々の由。日本武尊は開拓の神であり、五十猛命は林業の神である。いずれの神も当該地では必要であっただろう。従って、杉山神社が分霊し始めたのも平安時代に入ってからのことと思う。
個々の神社に文字の記録が伝わらないのも奉斎者が文字を知らなかったか今で言う文具がなかったからであろうが、中央の公的記録にはわずかながら残っている。
主な公的記録
1.続日本後紀 承和5年(838年)2月庚戌の条「武藏國都筑郡枌山神社預之官幣。以靈驗也」
2. 同、   承和15年(848年、嘉祥元年)5月庚辰の条 「奉授武藏國无位枌山名神從五位下」
3.延喜式神名帳 「都筑郡一座 小 杉山神社」
以上より推察するなら平安時代の杉山神社は1社あるいは数社があるのみだったか。茅ヶ崎杉山神社の由緒書も神道の知識に長けていた忌部勝麻呂に都筑郡の郡司がそれらしきものを作文してもらったものと思う。従って、茅ヶ崎杉山神社が始原の地というのもあながち否定できない。但し、文章自体は「安房忌部家系之図」の中にある。おそらく、都筑郡の郡司が朝廷から神社の由緒来歴を文章で提出することを求められ慌てふためいて提出したか。
文献がほとんどなく何事も推測の域を出ないのが「杉山神社」かも知れないが、延喜式でも小社となっており、昔もそんな大仰なものではなかったようだ。勝手な推測を働かせるなら、杉山神社が台頭し始めたのは鎌倉時代に入ってからで鎌倉に国の首都機能が置かれるようになって都市建設のための木材需要が急騰したのではないだろうか。武相両国でその需要をまかなったかと思うが、武蔵国の三郡はその主なる供給地だったのではないか。神社が川沿いに多いというのも材木の輸送の便宜のためであり、台地にあるというのも森林そのものであり、林業従事者が自分の占有地に祠を作り祀ったものと思う。その創建の主旨からしても文字の記録なんてあり得なかったようだ。

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