日葉酢媛命のこと

垂仁天皇の皇后である日葉酢媛命については、
父は丹波道主王、母は丹波之河上之麻須郎女と言い、
その表記については、
『古事記』 「氷羽州比売命」、「比婆須比売命」
『日本書紀』 「日葉酢媛命」、「日葉酢根命」、「日葉洲媛命」
となっており、読みは「ひはすひめのみこと」「ひばすひめのみこと」の二通りがあるが、ほとんどのルビーは「ひば」と濁ってふられている。母堂の名前の語義は「麻須(ます)」にあるようで、日葉酢媛命の語義も「葉酢(はす)」にあるのであろうか。一応、「ます」も「はす」も地名用語あるいは地形用語としてあるようで、多くの人名が地名にその起源を有するように、日葉酢媛命の語義も地名によるものかとも思う。また、比婆須比売命とあるので古事記に出てくる伊弉冉尊の埋葬地「比婆の山」の「比婆」を連想される向きもあろうかと思われる。あるいは、若い方なら比婆道後帝釈国定公園を連想するかもしれない。
ここで視点を変えて「ひはす」を「ひ・はす」と分けて見ると「ひ」は「日=太陽神」、もしくは「霊(ひ)=霊妙」の意味と解し、「はす」は植物の「蓮」と解してみる。無論、蓮は古代では「はちす」と言われ「はす」は後世の言葉とされる。万葉集でも「蓮」と書かれることが多く、これに蓮葉(はちすは)とか蓮(はちす)と読みをつけているようだ。「はすのは」とか「はす」という読みは皆無である。探し方が足りないのか万葉仮名表記は見られないようだ。但し、「古事記」雄略・赤猪子に「久佐迦延能 伊理延能波知須 波那婆知須」(日下江の 入江の蓮 花蓮)とあり、波知須は蓮と言うもののようである。しかし、「ハチ」のつく地名は海岸沿いに多く、この場合の波知須が蓮(はす)を意味するかは一考を要する。あるいは、最初の蓮(はちす)は花蓮が咲いている場所を言い、例として、池(高津池あるいは高石池か。記は高津池、紀は高石池で、いずれかが誤写で両者は同一のものという説がある)ないし干潟があるところ、飜って現代的に言うと釧路湿原のようなところ、後の花蓮(はなはちす)はそこに咲いている蓮(ハス)の花を言ったものか。換言すれば、蓮(はちす)という地名の土地に蓮(はちす・花)が自生ないし栽培されての命名か。まあ、日下江の入江は風光明媚な美しいところであったようだ。「ハチス」(正)と「ハス」(俗)が混用されたのは平安時代になってからのようで、「ハチス」(奈良)、「ハス」(京都)と言う言語圏の違いか。はじめから「ハス」と言ったという説もある。あるいは、「ハス」の語源は「端州」で、「水辺に咲く花」くらいの意味だったか。これを「ハシス」と言ったところでは「ハチス」となり、「ハス」と言ったところではそのまま「ハス」となったか。もっとも、日本語はまず発音があってそれを漢字等に表記したものであるから本末転倒のそしりは免れないか。順序としては、はしす(はちす)→端州→はす、となろうかと思うが、蓮(はちす)の地名は古代にもあったようで、おおむね扇状地などが川などでいったん途切れたりした、その川沿いの扇状地の端に多いようだ。また、現在では蓮(はす)のつく地名は兵庫県より以東に多いようで、これも何らかの人の移動ないし平安時代以降の仏教伝播と関係があるのであろうか。鎌倉や江戸が事実上の首都だったのも影響が大きかったのかもしれない。奈良、京都、鎌倉、江戸には大寺院が多い。
「蓮」はインド原産でインド発祥の宗教と関係が深い。ヒンドゥー教や仏教では特徴的なシンボルとなり、聖花のごときもののようだ。もし、日葉酢媛命の「葉酢」が「蓮」に起因するものなら、インド的発想であり、高貴な女性を意味したのではないか。あるいは、実際の日葉酢媛命はインド系の血を引く美人だったかもしれない。また、ご丁寧にも別名に「日葉酢根命」とあり、「葉酢根」=「蓮根」を連想させる。蓮の種は大賀博士の「大賀ハス」(2000年くらい前のものという)や埼玉県行田市の行田ハス(1400年から3000年くらい前のものという)があり、それなりに古くから日本に入ってきたようである。(日本列島にまだ人類が存在しない頃の蓮の化石があると言うが、除外する)無論、蓮の種がサイクロンにでも飛ばされて日本に渡ってきたと言うことも考えられるが、一応、日本には人と共に入ってきたと考えるのが妥当ではないか。但し、蓮根(レンコン)を食用にするものと食べられないもの(いわゆる、東大阪市日下の原始蓮)があるようで、いくら物好きな当時の外国人といえども日本に持参したのは食用蓮根の方かと思う。話を元に戻すと、そうとすれば、古代にあっても日本にヒンドゥー教または仏教的思想を持った人がいたと言うことである。今となっては「それはどこだ」などと詮索しても始まらないのであって、一応、西日本にやって来たのではないかと思う。当然、丹後半島も有力な候補地と思う。それなら、「丹波ハス」なるハスも発見されていいのではないかと思われるが、今のところ、丹波(丹後)やその隣接地である但馬や因幡でそういう話は聞かない。
次いで、日葉酢媛命の陵墓であるが、「古事記」には「またその大后比婆須比売命の時、石棺作を定め、また土師部を定めたまいき。この后は、狭木の寺間の陵に葬りまつりき」とあり、日本書紀には野見宿祢の献策「今より以後、是の土物を以て生人に更易えて、陵墓に樹てて、後葉の法則とせん」を垂仁天皇が採用し、「その土物を、始めて日葉酢媛命の墓に立つ」とある。このように、日葉酢媛命の陵墓には文献的には多くの変革が加えられたことが載っている。もし、所謂、「箸墓」が陵墓変革の端緒とするなら、箸墓は日葉酢媛命の陵墓であってもいいはずである。ところが、「日本書紀」では倭迹迹日百襲姫命の墓という。しからば、古事記が言う「狭木の寺間の陵」とはどこなのであろうか。嘉承元年(1106)「菅家御伝記」では「日葉酢媛命狭城墓」の註記に「今狭城盾列池前陵是也」と。その後不明かどうかはわからないが記録がない。江戸時代になり現日葉酢媛命陵(狭木之寺間陵)は元禄から幕末までは神功皇后陵であったが、明治8年(1875)教部省は現日葉酢媛命陵を狭木之寺間陵と治定した。同陵は大正5年(1916)盗掘にあい、復旧工事を行った。その際、・・・石室を覆って方丘を築き、方丘上には笠形埴輪が7、8基あったという。墳上に笠形を立てる発想はインドの仏塔ストゥーパのうちで、サーンチーにある紀元前1世紀から紀元2世紀造立の伏鉢塔と共通する。円丘上に方丘をのせる形はこの伏鉢塔ストゥーパの伏鉢(ふしばち)と平頭(へいとう)の関係と共通し、墳丘を囲繞する埴輪列の配置も、ストゥーパの欄楯の配置と共通する、と。・・・要するに、狭木之寺間陵の後円部はインドの仏塔ストゥーパをお手本にしたものだと言うことなのだろう。

まとめ

端的に言って、日葉酢媛命のこのインド臭さは何なのだと言うことである。日本の記録では古代にインド人が大量に難民としてあるいは移民としてやって来たなどという記録はない。考えられるとしたら、中国人がいったんインドの仏教を継受し、中国人が日本に持ち込んだと言うことなのだろうか。紀元2世紀を起点として、インドから中国に移入されるのに100年、中国から日本に移入されるのに100年かかったとすると、丁度、日本には4世紀の頃にやって来た中国人が持ち込んだと言うことである。また、その頃に狭木之寺間陵は築造されたと言うことか。狭木之寺間陵自体も、その後、陵墓の何らかのメルクマールになったのか。

次いで、丹波国の近隣関係なのだが、いわば壁一つを隔てた隣家同士なのに丹波と但馬との争いは文献には出てこない。「播磨国風土記」で天日槍命が伊和大神や葦原志挙乎命とあちこちでいざこざを起こしているのに丹波道主王とは没交渉な感じだ。出石神社の社伝に「谿羽道主命と多遅麻比那良岐とが相謀って天日槍命を祀った」とあるので、単に天日槍命と丹波道主王とは世代が違うと言うことなのか。しかし、谿羽道主命と多遅麻比那良岐とのお付き合いから見て、但馬と丹波は同種(インド系中国人同士とか中国人の仏教徒同士とか)の隣人だったのか。一説に奈良時代に朝廷に「赤米」を献上するのは丹波国と但馬国だけだそうで、(平城京跡から出た木簡1.但馬国養父郡老左郷赤米五斗 村長語部広麻呂 天平勝宝七歳(755)五月2.氷上郡井原郷上里赤搗米五斗 上五戸語部身、を根拠とするらしいが、赤米は他の国もおくっている)この赤米は中国の福建省あたりでは常食米という。やはり丹波や但馬の人はその先祖が中国からやって来たのか。また、大和国は非常に早い段階(紀元1世紀とか2世紀頃か)で丹波国と但馬国をその支配下に入れているという。但馬が軍事的主導権を握りながら丹波のように後宮に人を入れなかったのはなぜなのだろう。もっとも、丹波、丹後、但馬は元一国で但馬が白鳳年間、丹後が713年に各々丹波より分離したという。しかし、遺跡的には但馬(豊岡市)と丹後(京丹後市)は別の共同体と思われるのだが。垂仁記でも旦波国と多遅麻国に分かれている。

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日葉酢媛命のこと への3件のフィードバック

  1. 門林光治 より:

    日葉酢姫は景行天皇(ゲルマニクス・カエサル)の御子ドルスス・カエサル(二代目景行天皇)の妻で、オウス・カエサル、オオウス・カエサル(ヤマトタケル双子)の母で、垂仁天皇(グナテウス・ドミテウス)ローマ執行官で、景行天皇の娘(小アグリッピナ)卑弥呼=倭姫を皇后に迎える。垂仁天皇の兄は、下野古代国の豊城入彦王(グナテウス・ドミテウス兄)です。日本縄文民族からシュメール人・紀元前2300年アッカドの家系ガドの末裔タバオト・エリオト(イザナミ・イザナギ)の叔父アリエルのローマ帝国ロムス・ロームス双子の家系からカエサル・ジュリアス・シーザーの末裔に景行天皇=ゲルマニクス・カエサルと繋がります。

    • tytsmed より:

      門林光治さん、こんにちは!!

      「>日葉酢姫は景行天皇(ゲルマニクス・カエサル)の御子ドルスス・カエサル(二代目景行天皇)の妻で、」とかありますが、日本人、ことに景行天皇がどうしてローマ人につながるのか解りません。例え、人類がアダムとイブから始まるとしても、日本人とローマ人は遠く離れており(少なくとも2000年以上か)、歴史学上議論の対象とはならないと思います。

      • 門林光治 より:

        景行天皇(ゲルマニクス・カエサル)は、西暦17年古代ローマから家族同伴で東ヘ、(古代ローマ史)の記述と海洋ローマ船の能力(紀元前42年にジュリアス・シーザー(開化・孝元・崇神)がフイリピンの戦い・甲斐北杜市逸見(速水)村の起こり。(頭なしA遺跡)剣・青ガラス破片の出土弥生中期発掘調査報告書)出土と北杜市史・八代竹居町誌(上の平遺跡鉄の楔)ローマエトルリア鋳造技術=オト・マルクス(ローマ皇帝二代目(忍山宿弥)遺跡亀山。ローマ海運能力18000kmを20kmで150日有れば、海洋シルクロード(ユーラシア大陸海岸線)を寸取虫の様、航海に出ては、港ヘこれは、紀元前5000年シュメール人海洋交易の神国縄文民族の海洋技術です。この交易が、神国日本縄文民族シュメールからアダム・アッガド・ガド(菊の紋章)私のご先祖14000年のご先祖の足跡です。紀元前12000年宮崎神代河内・三重粥見井尻・東近江相谷熊原・信州白馬三山飯守山・甲斐釈迦堂・栃木藤岡・千葉鹿縄文民族の家系ガ、伊豆から丸木舟で小笠原からフイリピン北部・マレー・インドから中東ヘ海洋交易でアダム紀元前4000年神の誕生(旧約聖書)家系に繋がりガド族40500人(紀元前1560年エジプトヒクソス王朝15・16・17代を共に建国。後ヨルダンから古代トルコで、西洋はしばみを植林。黒曜石を磨く鏡信仰と燈明(後の住吉大社(神功皇后=ユリア・ドナム)のカエサル・マルクス末裔のローマ皇帝と皇后の兼務。世界遺産仁徳・応神の母・祖母まで神国日本縄文民族海洋交易拡大の地中海ローマ帝国・倭国邪馬台国は、神国日本縄文民族の末裔。世界地図・海洋交易学会連携の世界遺産仁徳御陵(カリヌス)ローマ皇帝天皇兼務の世界の遺産は神国縄文民族シュメール旧約聖書から古代トルコ古代ローマ全て日本の縄文遺伝子が繋がります。

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