兵主神について

緒 言

兵主神というのは我が国の神名では余り一般的ではないらしく、文献に現れるのは「三代実録」貞観元年(859)正月27日条に、大和国の「安師兵主神」壱岐島の「兵主神」とあるのが初見らしい。しかし、その後、延長5年(927)官撰の所謂「延喜式神名帳」には兵主神社として19社(21座)が登載されている。短期間の間に伝播したのかとも思われるが、延喜式兵主神社の創祀年代がわかるものを列挙してみると、

★近江国 兵主神社 (祭神)八千矛神 滋賀県野洲市五条
当社は景行天皇の御代、皇子稲背入彦命により大和国穴師(奈良県桜井市)に奉斎されたのを創祀とする。

★丹波国 兵主神社 (祭神)大己貴大神等 兵庫県丹波市春日町黒井
当神社は聖武天平18年(746)に兵庫の守護神として鎮祭された。

★但馬国 大生部兵主神社 (祭神)大己貴命 兵庫県豊岡市奥野字宮
創立年月不詳なれども弘仁元年(814)此地に兵庫を建て在庫の里と云ひ兵主の神を祀りて兵主神社と称せり。

★但馬国 兵主神社2座 (祭神)「速須佐男神」「不詳」 兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城
伝承によると、天平18年(746)12月、佐伯直岸麿によって創祀された。

★播磨国 射楯兵主神社2座 射楯大神と兵主大神(大国主命(大巳貴命))の二柱 兵庫県姫路市総社本町
欽明21年もしくは25年(564?)6月11日、姫路市水尾山に兵主神が祀られ、射楯神はそれ以前に因達里に祀られていた産土神か。
延暦6年(787)、国衙小野江に兵主神を奉遷し、射楯神を合わせ祀ったという。

★播磨国 兵主神社  大己貴命等 兵庫県西脇市黒田庄町岡
延暦3年(784)大和穴師の兵主神を勧請。
「延暦三年甲子六月十四日兵主五社大明神を勧請せり延暦三年十月岡本修理大夫藤原知恒誌す」

以上より見ると、天平、延暦という年号が各々2回出てきており、実年でも40年ほどしか差がないので、あるいはその頃に兵主神社が集中的に創祀されたのかもしれない。兵庫の守護神とする神社も二ヶ所ある。この頃、兵庫が新設される特段の事情でもあったのであろうか。兵庫の語は皇極3年冬11月条に、門の傍に兵庫(つはものぐら)を作る、とあり、蘇我蝦夷、入鹿父子は自宅にまで兵器を蓄えていたようだ。そうなると、兵主神社ももう少し散らばってたくさんあっても良さそうなものだが、地域的な偏りが見られる。即ち、大和2、和泉1、三河1、近江2、丹波1、但馬7、因幡2、播磨2、壱岐1である。摂津国にないのが残念ではある。少し離れている三河と壱岐を除けば、私見的には何か魏志倭人伝の邪馬台国と狗奴国の争い、あるいは、日本史的に言うと「播磨国風土記」の天日槍命と伊和大神ないし葦原志挙乎命の争いが想起される。邪馬台国(大和国)の主将天日槍命あるいはその後継者が邪馬台国(大和国)の防備のため国境に今で言う駐屯地を設営した、兵主神社はその跡地ではないか。何分にも兵主神社は記紀には見えない神社であり、上古よりあったのか、はたまた、奈良時代になって創設されたのか、検討の必要があろうかと思う。
時代が下るので信頼はおけないが、康安元年(1361)の「大国主命分身類社鈔」に大倭神社三座の注記に「左座、八千矛命(亦曰大国主命)神体広矛(兵主伊豆戈神是也)とか応永29年(1422)の「大倭神社注進状」裏書きには、安師神社の項に「両社(上下社)共神体為矛、故云兵主神」とある。これを見ると、兵主神社の祭神として延喜式神名帳に記載されている大己貴命とか速須佐男神とか八千矛命の神名は延喜式神名帳に登載する際、神名が必要とのことで、武器(矛とか剣とか)に縁のある出雲系の神名が採用されたものか。あるいは、天日槍命をはじめとする但馬国系渡来人は神の概念がなく、ただ単に神体である矛や剣を祀っていたか。さすれば、上古においてはそんな施設は日本(倭)では神社の概念に入らなかったのではないか。記紀の原作者にとっては単純に倉庫と思っていたのかもしれない。屯倉の発祥地を但馬国とするならば、考えられ得ることだ。また、天日槍命も本来は天日槍ないし天霊槍という神体のこと(天叢雲剣と発想は似ている)で命(みこと)は後で付け足したものか。天日槍命という神ないし人物はいないという説も有力である。
「兵主」の読みも、読みは「音読也」とことわっている文献もあるが、本当にはじめから「ヒヤウス」ないし「ヒヨウス」と読んでいたのか。皇極紀に「兵庫」を「つはものぐら」と読むなら、「兵主」も何らかの訓読み、即ち「つはもの(ぐら)ぬし」とか読んで、その実態は兵庫の中の主(内容)、換言すれば「武器」のことを言ったのではないか。神体の矛とは矛、戈、鉾などばかりでなく剣、刃や槍、鑓、あるいは弓、矢なども含まれていたのではないか。
兵主神が外来神であるという見解も根強い。1.中国山東地方で祀られていた神。2.天日槍系の人々の斎き祀った外来神。兵主神社の分布と日本書紀の天日槍渡来伝承との間に密接な関係があるという。3.「史記」の「封禅書」にある八神(天主、地主など)のうちの兵主(諸侯の蚩尤(しゆう)のことという)という説など。これって、その後のハイカラー族が考え出した深読みではないか。兵主神社の祭神はみんな日本の神だ、と反論する人もいる。要するに、外来神は関係がないと言うこと。

まとめ

1.多くの兵主神社が神社として創祀されたのは奈良時代から平安時代初頭の頃のようである。あるいは、起源としては天武天皇の国家神道発揚に際し、ローカルな信仰も国家神道に格上げされたものか。記紀に記載のないのは両者が同時進行で進み、記紀編纂時に間に合わなかったか。
2.神社の数が一番多いのは但馬国で7社が延喜式神名帳に登載されている。但馬国が発祥の地か。
3.大和国の穴師坐兵主神社、穴師大兵主神社の創祀者は景行天皇か。近江国の兵主大社は「当社は景行天皇の御代、皇子稲背入彦命により大和国穴師(奈良県桜井市)に奉斎されたのを創祀とする」と宣っている。また、大和国の穴師坐兵主神社においても「当社のすぐ西には 垂仁、景行両天皇皇居跡があり、また少し西北には祟神、景行両天皇陵もある」として、景行天皇と兵主神社の関係を暗に後押しするような感じだ。私見では景行天皇は但馬国の出身で、従って兵主神社の創祀者と言ってもおかしくはない。この系統の兵主神社の祭神は景行天皇で、祀られるべきは景行天皇あるいは但馬国の開拓の祖天日槍命か。なお、穴師坐兵主神社では景行天皇を大和国穴師の生産と平和の神と解しているもののようである。開拓の神は大物主神である。ついでながら、妄想を膨らませれば、景行天皇が皇子稲背入彦命に命じたのは「天日槍命(端的に言うと、【日槍】)を斎祀れ」と言うことで、「日槍」の当て字が「日保子」「飛宝子」などで、推測で恐縮ではあるが、もし「日保子」と書かれたのなら、日はそのままとして、保は「やすんずる」という意味があり「やす」と読み、子は「孔子、孟子」などの子で、神の意と解するなら、「ヒヤスノカミ」と誤読したものか。それが時代が下るとともに「ヒヤウズ」と発音されたか。それに、「兵主」の意味も問題だ。当時はおそらく「兵(つはもの)」は兵器を意味し、「兵庫(つはものぐら)」なら意味がわかるが、「兵主」では何の意味かわからなかったのではないか。即ち、「兵主」は何らかの当て字ではなかったか。もっとも、兵主を中国語と解し、中国の神名や普通名詞からその根源を探ろうとする見解があることは周知の事実だ。
4.兵主神社の元祖としては、兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城の兵主神社2座(祭神)「速須佐男神」「不詳」も考えられる。伝承によると、天平18年(746)12月、佐伯直岸麿によって創祀された、というが、おそらくこの兵主神社は元来は関所で円山川での航行安全や今で言う通関業務を司っていた責任者と外敵(出雲国か)が侵入してきた場合それに即応する責任者の二人が常駐していたのではないか。それが二座となったものか。兵主神社と言っても単一起源とは言い切れないのではないか。無論、「兵庫の守護神として鎮祭された」と言い切る神社もあるのでそのケースが一番多いかとは思う。それにしても、古代天皇家の宗教はまちまちだ。天皇の出身地や血筋で信ずるものが変わる。たとえば、産土教(大和神社か。神武天皇など)、鬼道(呪術。卑弥呼、台与)、出雲教(大神神社。崇神天皇、垂仁天皇)、兵主教(兵主神社。景行天皇)、住吉教(住吉大社。応神天皇、仁徳天皇など)。いつになったら天照大神が出てくるのやら。一説によると、伊勢神宮が国家神道の中核を担うようになったのは、壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)方に陣地を提供した論功行賞によるという。それまでの天照大神や伊勢神宮の説話は何だったのかという感じだ。
5.神体は「矛」とするものが多いようである。祭神は矛や剣が関係する出雲神話系の神がほとんどである。因幡国佐弥乃兵主(サミノヒヤウズ)神社は、「天照大神」を祭神とする。日槍は、日神を招祷する呪具で満蒙の太陽神信仰という説を具現化したものか。ほかに、和泉国兵主神社も現在は天照大神を祭神とする。
6.以上より考察するなら、兵主神社とは邪馬台国軍の総司令官だった但馬国の国造が設置した防衛施設だったかと思う。おそらく、出雲国、吉備国は大和国傘下に入ってもことあるごとに盟主国と対立していたのではないか。特に、出雲国は官名を彌彌とか彌彌那利とか言ったり墓制も大和国とは異なり、曲がりなりにも彦命とか彦と大和国の官名を踏襲している吉備国とは差異があったのではないか。従って、対出雲国ラインは手厚く(但馬国に兵主神社が多いのはこのためか)、対吉備国ラインは手薄になったのではないか。卑弥呼女王時代には手薄であった防衛ラインが吉備国に突破され、摂津国まで侵攻されて、大騒ぎになったのではないか。そして、この種の施設は少なくとも後世の雄略天皇の時代まで続いたと思う。但し、施設自体は今流に言うと軍隊の駐屯地だったり、税関だったり、国境検問所だったりとその施設の目的は多岐に渡っていたのではないか。具体的には、その基地に日槍が「倒(さかしま)に地(つち)に植(つきた)てて」、むき出しの状態で置かれていたものか。
以 上

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兵主神について への2件のフィードバック

  1. 千田 より:

    昔は石上から三輪までが、同じ物部の祭祀だった。兵主とて同じことです。ただ剣を祭ります。玉列では玉。鏡が三輪山そのもの。もう三輪の神社は「無い」んですがね。明治に入って無くなりました。今は新興宗教大神神社が偽の天皇史と出雲教をまもることに必死です。そのうちボロが出ることでしょう。

    • tytsmed より:

      確かに垂仁天皇の時代に物部十千根が石上の神宝を管理することとなりましたが、物部氏は始祖饒速日命が河内国河上哮峰に天降って起こり、物部守屋は河内国衣摺に沈みました。即ち、物部氏の本貫は河内国であり、大和国にあったかは疑わしい。物部守屋が石上神宮に逃げ込んだなんて余り聞いたことはありません。石上神宮は本来は武器庫(兵庫)と言われ、兵主神社はその鎮護のために建てられたのかも知れません。兵主神社が二社あるのはほかにも兵庫があったと言うことかも知れません。大神神社は大和国一宮で新興宗教の概念に当てはまるかは疑問です。

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