根の国のこと(2)

 ブログをご覧になられた方から以下のご意見が寄せられました。どこで答えていいのか分かりませんので、新たに投稿いたします。

 島根県安来市に古墳時代前期に出来た、大成古墳という全国最大級の方墳があります。ここらあたりは古墳群や弥生大型墳丘墓があり、古代出雲王陵の丘として整備されています。これら考古学的な成果から考えると根の国はやはりここだったのかという思いが出てきます。

 ご意見では墓所(今流にいうと、何々霊園とか云々墓地など)を根の国とおっしゃりたいのか、はたまた、安来市あたり一帯を根の国といいたいのかは分かりかねますが、単刀直入にいって、大成古墳のあるあたりは現在の八束郡東出雲町出雲郷(今は「あだかえ」と読む)にいた古代出雲国造一族(意宇氏という説もあり)の奥津城であったのではないか。それに、大成古墳のある荒島古墳群(造山1号、3号墳)と塩津山墳墓群(1号墳)には同型ではあるが大きさで身分の上下関係があるという。もし、投馬国が出雲とするならば文献上身分の上下関係がはっきりしている彌彌一族(荒島古墳群)と彌彌那利一族(塩津山墳墓群)の墳墓ではないか。東出雲町には東出雲町揖屋町と言うところがあり、これは一説に揖屋(いや)とは忌み屋(いみや)のことといい、今で言う霊安所(恐れ多いが、天皇家では殯宮という)のようなもので、一度そこに安置し、その後墳墓に埋葬するという。揖屋は元は「いふや」といったらしく、伊賦夜坂(黄泉比良坂)とともに「黄泉」や「根の国」に結びついたのかも知れません。なお、日本書紀斉明五年是歳条に「狐、於友(意宇)郡の役丁の執れる葛の末を囓ひ断ちて去ぬ」とか「狗、死人の手臂を言屋社に囓ひ置けり」などとあるが、国造の揖屋(忌み屋)の遺体の管理がおざなりになっていたことを言うのであろうが換言すれば国造は先代の葬儀ないし墓の築造もままならなかったと言うことだろう。ちなみに、当該地で水葬の風習があったと言うが、今で言う金が掛からない方法として取り入れたものか。国造も大和朝廷からの度重なる使役でかなり疲弊していたのであろう。出雲国造は最初は熊野大社を祀っていたらしく、祭神を今は素戔嗚尊としているが、通説は櫛御気野命(くしみけぬのみこと)といい、穀霊神としている。素戔嗚尊は余り出雲国とは結びつかない神ではないか。なぜか古代より無理に出雲に結びつけられている。但し、出雲国で祭神として一番多く祀られているのは素戔嗚尊と言う。ほかに、付近には野城(能義)神社があるが、野城とは古墳のことを言う(野城の城と奥津城の城が同じからか)と言う見解もあり、古墳信仰の神社で鉄とは関係ないか。また、野城(のぎ)はイザナギのナギが変化した(イザナミの死後一時的に野城の地に滞在したか)もので野城(古墳)の古墳信仰から石室(四隅突出型墳丘墓なら竪穴か。竪穴式が植物が下に延びると言うことで根の国で、横穴式が黄泉か)が黄泉や根の国となり記紀にある一連の話などが生まれたか。問題は「荒島・塩津山古墳」以前の墳墓と思われる「仲仙寺・宮山墳墓群」(2~3世紀築造か)であるが、仲仙寺古墳群は一つの墳丘に複数の埋葬施設があり、いわゆる家族墓的で出土物も管玉という。宮山4号墓(もっとも新しい四隅突出型墳丘墓と言い、2世紀後半から3世紀前半の築造という)は埋葬施設は一つしかなく鉄刀一振が副葬されていたと言う。安来は鉄(鋼)で有名なところであるがこれじゃあ鉄鋼王とは言えない。いずれも墳丘はそれなりに大きいが出土物は貧弱で被葬者は地域の小豪族と言うところか。但し、通説は当該地域の奥津城は西暦100年頃より同600年頃までの500年間にわたって同一氏族の墳墓というもののようである。しかし、同地域は大和政権により弾圧されているようなので(例、崇神天皇、日本武尊)さような見解は如何なものか。小豪族として考えられるのは、八束水臣津野命、天乃夫比(天穂日)命、天津日子命、布都怒志命、神須佐乃烏命などである。

 黄泉比良坂も「よみのひらさか」となぜ訓じないのか。「よもつひらさか」なら四方津平坂とでも書いた方がいいのではないか。もっとも、黄泉国は「よもつくに」と言い、記紀では「予母、余母、誉母」などの字を当てている。加えて、「よも」には闇黒の意味があるという説もあるが、真偽のほどは不明だ。「よみ」が「よも」に転化したと言う説の方が明解ではないか。平坂の平(ひら)も急勾配の坂や垂直気味の崖をいうと言う見解もあるが、字の通り緩やかな傾斜の坂を意味したのではないか。そのような施設は当時出雲には「四隅突出型墳丘墓」がある。コタツ布団を掛けたような形で四隅の傾斜の一つを墓の上(コタツ板)に上れるように作り(標高1mから5mくらい)、墓の上で儀式等を行ったらしい。その墓の上に上がる坂を黄泉比良坂と言ったのではないか。素戔嗚尊の場合は家が後世の石垣の上にあって、家まで行く坂を黄泉比良坂と言ったのではないか。とにもかくにも、記紀の黄泉比良坂はデフォルメのしすぎではないか。また、突飛な話で恐縮かとは思うが、水葬の話といい、四隅突出型墳丘墓といい、エジプトあたりに起源を有することで、水葬については6、7世紀の古墳の壁画にゴンドラ型の船が描かれており、四隅突出型墳丘墓はやや大げさに言うとピラミッドの矮小化した姿ではないのか。但し、四隅突出型墳丘墓は広島県三次盆地が発祥の地といい、我が国で自然発生したものか。私見によれば、三次盆地の四隅突出型墳丘墓はその初めは共同墓地(所)の敷地で、周りの貼石や列石は現代流に言うと墓域を囲った塀であり、四隅突出部は各人が墓に行くための通路の先で、グロテスクな形になっているのは葬儀や行事の際たくさんの人を墓所の下で待たせないよう混雑緩和のためにああいう形になったのではないか。それが、出雲に行くまでにわずかな人数の家族墓になり、最後に首長墓となったものと思われる。とは言え、四隅突出型墳丘墓は出雲国発祥という説もある由。

 以上より、現安来市界隈には弥生時代後期から古墳時代にかけて傑出した英雄もいなかったようだし、地域的にもそんなに発達していた地域とも思われない。墳墓が若干多いだけで「黄泉」とか「根の国」とかを連想される理由が分からない。安来は鋼の街と言っても、後世のことで古代にはそんな産業はあったのか。風土記にはかろうじて布都怒志命が出てくるだけだ。それに、始祖とも言うべき「八束水臣津野命」の文字を見ても「水」とか「野」の文字が見え、農業に関連した人物とも思えるのだが。あちこちから土地を持ってくるのも何か開墾(切り株や大きな岩の除去、小規模な干拓など)の様子を連想する。交易を生活の糧とした大国主命と農業を生業とした出雲国造(意宇氏)とは少し違いがあったと思う。しかし、出雲国風土記を見ていると「大穴持命」という言葉がやたらと出てくる。一説によるとこれは「大穴貴命(おほあなむちのみこと)」と言い、大穴とは大きな古墳で、貴(むち)はその中に眠る貴人のことで、具体的な人物は解らないとのこと。それでは最初から被葬者は分からないということで、大型古墳のある地域には大穴貴命がいたと言うことである。熊野、佐太、野木、大穴持命(所造天下大神)の四大神はその一例に過ぎないことになる。大型古墳の多い畿内や吉備よりも古墳に固執しており、黄泉、根の国の話も当初は単に竪穴式墳墓の穴の端が根の国であり(底の国、底根の国等という)、横穴式墳墓の穴の端(墳墓ではないが例として、島根県出雲市の猪目洞窟)が黄泉だったのではないか。従って、黄泉が黄泉比良坂で繋がっていると言う説はおかしいかも知れない。原初の黄泉は天然洞窟のようなもので、奥へ行けば行くほど暗くなっていったのではないか。夜見(ヤミ→ヨミ)と変化したものか。すなわち、洞窟の奥はヤミノクニと言い、漢字では夜見国(ヤミノクニ)と書いたが、後世、学のある人が「そんな重箱読みはだめだ。夜見国はヨミノクニと言うのだ」と曰ったのではないか。従って、「根の国」とか「黄泉」とかの概念は出雲国にあったかも知れないが、それが具体的に現在の安来市界隈とか東出雲町の伊賦夜坂とか言うのは如何なものか。それに、夜見ヶ浜も「ヨミガハマ」ではなく「ユミガハマ」(弓ヶ浜)、出雲国風土記の夜見嶋も「ヨミノシマ」ではなく「ユミノシマ」と読むのが優勢かと思われる。但し、現在の米子市の地名は夜見町(ヨミチョウ)となっている。なお、夜を「ゆ」と読むのは、福岡県糟屋郡新宮町夜臼(ゆうす)。従って、余り「夜見ヶ浜」や「夜見嶋」の地名から、黄泉、根の国を結びつけて考えるのはどうか。

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根の国のこと(2) への6件のフィードバック

  1. 金屋子たたら より:

    安本美典著「邪馬台国と出雲神話」によるとここは根の国に値し、記紀によれば
    根の国を統治したのはスサノオだから英雄神が居たことになる。この地域は
    弥生終末期に精巧化した四隅突出墳丘墓という古墳時代を先取りした大型墳丘墓
    の全国一の集積地帯である。さらに、今までの考古学者は単に古墳や墳丘墓の
    面積のみでその権力の強大さを示そうとするが、山陰島根の古墳や墳丘墓は
    丘の上に造営されており、平地に作るよりも大がかりな土木作業が行われたの
    は想像に難くない。そういう視点からもこの地域の早期権力構造の醸成がみてと
    れるのではないだろうか。

    • tytsmed より:

      金屋子たたらさん、こんにちは。

      >記紀によれば根の国を統治したのはスサノオだから
      >英雄神が居たことになる。
       素戔嗚尊は高天原の人であって出雲国ないし根の国
       の人ではありません。記では出雲国の鳥髪(船通山と
       いう説もある)に天降ってきたと言い、有名な「八岐
       大蛇退治」の話があるが、後は、大国主命の「根の国」
       訪問が主なものである。記紀に書かれている根の国
       は殺風景なもので霊園の光景はそんなものと言って
       しまえばそれまでだが、そこに有力な国や人物がい
       たとは思われません。また、素戔嗚尊に関して言う
       と、「出雲国風土記」にも出てくる回数、内容ともに
       貧弱でほかの地方の神(人物)という説もある。

      >この地域は弥生終末期に精巧化した四隅突出墳丘墓と
      >いう古墳時代を先取りした大型墳丘墓(略)
      >山陰島根の古墳や墳丘墓は丘の上に造営されており、
      >平地に作るよりも大がかりな土木作業が行われた
       私は土木技術者ではないので四隅突出墳丘墓の技術
       的精巧性は分かりませんが、一般的には大型墳墓の
       方が人員や物資の動員力が要求されるのではないで
       しょうか。また、現在にその原型を留めているのも
       技術的にすぐれているものと思われるのですが。

  2. 金屋子たたら より:

     日本人のルーツ、古事記の原文を読んでみたら?

    • tytsmed より:

      >日本人のルーツ、古事記の原文を読んでみたら?
       この意味は不明なるも、素戔嗚尊が余り出雲と関係がない
      ことは、別に項を改め「素戔嗚尊は安来の王か」で述べておき
      ました。

  3. 出雲王朝ファン より:

     安来には夥しい数の年代未定の野だたらが山奥にあります。もちろんその先の東出雲にも。また不思議なことに、嘉羅久利神社(カラクリジンジャ)という機械の語源を髣髴させる神社もあります。その神社の祭神の一柱がスサノオノミコトになっております。神社めぐりをするとつくづくスサノオ王権の中心地だったような思いになったことを思い出します。

  4. tytsmed より:

    貴重なご意見どうもありがとうございます。早速ですが、

    >安来には夥しい数の年代未定の野だたらが山奥にあります。

    おそらく、鉄、鉄、鉄の鉄の亡者が前後の見境なく製鉄に精を
    出したことと思われます。そんな人間は比較的時代が新しく
    なってからの人と思われますがいかがでしょうか。

    >嘉羅久利神社(カラクリジンジャ)

    嘉羅久利(カラクリ)は、韓国(カラクニ)の誤記説あり。
    祭神の素戔嗚尊および五十猛命は韓国からやって来たと言う説
    もあり、あまりご執心なさらない方がよろしいのでは。

    >安来がスサノオ王権の中心地だったような

    以前にもさような意見を述べられた方がおられましたが、
    意宇郡出身の現国造家は農業で産を成したのではないでしょうか。
    もっとも、安来は能義郡で、製鉄業、素戔嗚尊と説く見解もあろう
    かと思われますが、おそらくわずかな産出量の鉄がどれほどの
    意味を持ったかははなはだ疑問であります。

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