根の国のこと

 古事記では「黄泉の国」と「根の国」の共通項として「黄泉比良坂(よもつひらさか)-黄泉国と現実の世界との境界-」があるので、まず、古事記に記載されている黄泉国(よもつくに)の内容を見てみると

1.伊邪那美神は火の神を生みしによりて、遂に神避(かむさ)りましき。

2.神避りし伊邪那美神は出雲国と伯伎国との堺の比婆の山に葬りき。

3.伊邪那岐神は妹伊邪那美命を相見むと欲ひて、黄泉国に追ひ往きき。

 3.は現代流に言うと伊邪那岐が伊邪那美の墓参りをしたと言うことで、黄泉国とは畢竟するに墓の中(石室)の世界と言うことになろう。ざっくばらんにいうと、墓参りで余計なものをみてしまったと言うことかと思う。この墓は天然洞窟だったのか、支石墓だったのか、単なる人造の円墳ないし方墳だったのか、不明ではあるが、黄泉国では「蛆(うじ)」が根の国では「蜈蚣(むかで)」や「蛇」が出てくるので、じめじめした天然洞窟ないし支石墓のうち天井板を地面に置いてその下を掘って四方に支石を建てる方式の墓が連想される。ほかに、支石墓には地表に箱形の支石を置き、その上に天井板を載せる方式がある。但し、日本の支石墓は九州北部にしかない由。

黄泉国とは

1.殿の縢戸(さしど)(家の閉ざした戸口・古墳の入口が連想されるという)

2.黄泉の戸喫(へぐい)(黄泉国の竈で煮炊きしたものを食べること。黄泉国から抜け出せなくなる)

3.一つ火燭(ひとも)して入り見たまひし時、蛆(うじ)たかれころろきて(墓の中の遺骸の腐敗が進んでいた)

4.八柱の雷神(いかづちがみ)成り居りき

5.黄泉醜女(死の穢れの擬人化)

6.黒御蔓を投げると葡萄の実、櫛を投げると竹の子が生じた(類似呪術)

7.八柱の雷神に千五百の黄泉軍(よもついくさ)を副えて追わしめき(悪霊邪鬼の擬人化)

8.黄泉比良坂の坂本に到りし時、その坂本にある桃子(もものみ)三箇をとりて、待ち撃てば悉に逃げ返りき(桃の実が悪霊邪鬼を祓うという中国思想)

9.千引の石をその黄泉比良坂に引き塞へて、(岩石は悪霊邪鬼の侵入を防ぐもの)

10.黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜(いふや)坂という。

 以上より、黄泉国とは後世の大型古墳より連想された古墳の内部を描いたものという雰囲気が強い。おそらく、古墳の中に入った時の驚きと戻ってからの妄想や呪術などの知識が加わったものかと思われる。日本に自然発生したもので、ギリシャ神話等に関連づける見解もあるが如何なものか。その意味では、古代における日本の死後の世界というものはすこぶる現実的で、天国と地獄や極楽浄土、冥府、輪廻などという概念はまったくないのである。高山植物が咲き乱れる高地の探検譚は記紀編纂時の奈良の都まで届かなかったのでしょう。

 次に、伊邪那岐は黄泉比良坂を経て「筑紫の日向の小門の阿波岐原に到りまして、禊ぎ祓いたまいき」とあり、いわゆる三貴子の誕生後、それぞれの貴子に統治の範囲を示したところ、

建速須佐之男命は「僕は妣(はは)の国根の堅州国に罷らんと欲ふ。故、哭くなり」と。

 伊邪那岐大御神は「然らば汝は、この国に住むべからず」と神逐らひに逐らひたまいき、と。なお、伊邪那岐大御神は古事記では淡海の多賀に坐すなり、となっている。日本書紀では淡路の幽宮に隠れたと言う。これだけでは「根の堅州国」の実体は分からないが、古事記では大国主命の段でも「根の堅州国」が出現する。即ち、

 庶兄弟達である八十神に迫害された大国主命に母神が「汝、此間にあらば、遂に八十神のために滅ぼさえなむ、といいて、すなわち木国の大屋毘古神の御所へ違へ遣りき」と。しかし、ここにも八十神が追いかけてきたので、木の俣より漏き逃がして「須佐能男命の坐します根の堅州国に参向ふべし。必ずその大神、議りたまひなむ」と。いわれるままに、大国主命は須佐能男命の坐します根の堅州国へ行き、須佐能男命に喚び入れられたのであるが、須佐能男命はまず、

1.「蛇の室に寝しめたまいき」次に「呉公(むかで)と蜂との室にいれたまひし」と命じたが、いずれも須勢理毘売が、蛇の比礼、呉公と蜂の比礼を与えて大国主命は難を逃れた。

2.「鳴鏑を大野の中に射入れて、その矢を採らしめたまひき」「野に入りし時、すなわち火をもちてその野を廻し焼きき」しかし、鼠の援助により難を逃れ、矢も無事持ち帰った。

3.「八田間の大室に喚び入れて、その頭の虱(しらみ)(実は呉公のこと)を取らしめたまいき」と命ぜられたが、須勢理毘売が「牟久の木の実と赤土」を準備し、須勢理毘売から呉公を食いちぎって吐きだしているように見せかける方法を教えられ難を逃れた。

 須佐能男命が寝ている間に、その髪を柱や垂木に縛り、須佐能男命の生太刀、生弓矢、天の詔琴を奪い、須勢理毘売を連れて根の国から脱出した。

 以上より「根の国」を考察するに、根の国には軍隊もなければ、人民もいない、ただただ主(あるじ)の須佐能男命と娘の須勢理毘売がいるだけである。これって今流にいうと、須佐能男命の私邸ないし別荘のことではないのか。「八田間の大室」なんて聞くと何やら古代豪族の大リビングルームが連想される。また、伊邪那岐神が黄泉国から逃れる時も大国主命が根の国から逃れる時も黄泉比良坂を下っているので黄泉国も根の国も同じものと解する見解もあるが、古事記の文面では異なったものと解せざるを得ない。すなわち、黄泉国は現在の島根県安来市界隈かも知れないが、「根の国」ないし「根の堅州国」の根は地中のこと(但し、彦根、山根等の言葉もあり、これは山や高地の麓と解されている。根は嶺のこととする一意的見解もあるが、同じ意味の言葉を重ねる地名は余り聞かないのでここは麓でいいのではないか。ちなみに、山と彦の違いは山容の違いで山は三角形(日本の山の多数)、彦は台形(岩山に多い)を言うもののようである。彦は山より頂上が凹んでいるからか。彦の語源を凹(ヘコ)とする説あり)であり、堅州は今の石灰石のことか。砂が堅くなったものの意味かとも思う。すなわち、鍾乳洞のことを言ったのではないか。須佐能男命が福岡県宗像市に関係のある人と仮定すると、この鍾乳洞は山口県の秋芳洞となるのではないか。そもそも、素戔嗚尊は今の宗像市から山口県の旧防長両国を勢力圏にもつ古代豪族で隣国の出雲とは小競り合いを繰り返していたのではないか。この根国の話は老いぼれじじいの素戔嗚尊が青年出雲国主大国主命に負けた時の説話ではないか。上記に、「野に入りし時、すなわち火をもちてその野を廻し焼きき」とあるのも、何やら現代の秋吉台の山焼き、野焼きを連想させる。秋芳洞の発見は1354年と言っているが、それよりも前に発見されていたのではないか。野焼きの話も日本にはまず焼き畑農業が導入され野を焼くと言うことは縄文、弥生の時代よりあったのではないか。鼠が出てくるのも鼠の語源が「根棲み」(多数説)で、根はこの場合地中の意味で洞窟・洞穴を指し秋芳洞を言ったものか。鼠は洞窟・洞穴を知悉していると考えられたのだろう。また、虱や蜈蚣の虫類が出てくるが、石灰岩がある地域は虫の化石が多いという。この虫の話は虫の化石の影響か。「八田間の大室」というのも秋芳洞には大きな空間があるという。それを想起したものか。「鳴鏑を大野の中に射入れて、その矢を採らしめたまひき」とあるのも、古代社会にあっては神事の前に弓を射るというのは一般的なことであろう。山焼きや野焼きが神事と見なされていたのか。但し、素戔嗚尊が大国主命に射た矢を拾ってこいと命じているのは一般的だったかどうかは分からない。あるいは、素戔嗚尊は古代版エコロジストだったのかも知れない。

 次いで、日本書紀であるが巻第一神代上第七段に素戔嗚尊が

 「吾更に昇来る所以は、衆神、我を根国に処く、今当に就去りなむとす。・・・・・当に衆神の意の随に、此より永に根国に帰りなむ」とあって、次の第八段冒頭では「素戔嗚尊、天より出雲国の簸の川上に降到ります」となっているので、多数説は「根の国」とは出雲国と解している。記紀では勝者敗者の観念がはっきりしていて、勝者(大和国)は高天原に、敗者(出雲国)は根国ないし黄泉国に、勝者への協力者(後世の筑紫国)は葦原中国に、それぞれ比定したものか。なお、日本書紀にはこのほかにも「根国」「底根の国」という言葉が十カ所ほど出てくるが、みんな断片的でどこのことを言っているものか皆目分からない。その形容するところは1.「吾は、母に根国に従はん」、2.「遠き根国」、3.「根国に就る」、4.「下して根国を治む」、5.「底根国」、6.「根国に帰る」等、古事記よりは具体性に乏しいようである。

 また、日本書紀で黄泉国に関して言えば、一番具体的なのは神代上第5段一書に曰く(第十)の以下の文では

 「但し親ら泉国を見たり。此既に不祥し。故、其の穢悪を濯ぎ除はむと欲して・・・・・」と言うことは、古事記の墓の中を見たということと同じで、古事記のような脚色はなく事実をそのまま伝えているだけである。日本書紀の編纂者は、じめじめした暗い来世の話は嫌いで意図的に日本書紀からは遠ざけたのではないか。いずれにせよ、これらの黄泉国や根国の説話には照明がない時代に洞窟に入った人の話が原話になっているのではないか。ほかに日本書紀に一書の話として伊弉冉尊の墓が「紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる」とあるのも、紀伊半島には海水の浸食等により洞窟が多い。その洞窟の探検譚が残っていたのではなかろうか。中でも素戔嗚尊の根の堅洲国の話が一番内容豊富に残っていたので記紀に取り上げられたのではないか。

 最後に、はなはだこじつけで恐縮だが、根の堅州国とは「美祢の堅州国」すなわち現代的に言うと「美祢の鍾乳洞」のことだったのではないか。国とあるも現代的に言うと集落の意味かと思う。あるいは、堅州は片瀬 → 片州で本来は片瀬だったか。ちなみに、当該地で「瀬」がつく地名を拾ってみると、桂木山(瀬羽戸、但し、迫戸の可能性大。陸地の瀬戸の地名は迫戸・狭戸の義とする説あり)、綾木村(現美祢市美東町綾木)(瀬瀬川、九瀬原、四ノ瀬)、秋吉村(美祢市秋芳町秋吉)(瀬戸)、於福村(美祢市於福町)(七瀬川)、大嶺村(美祢市大嶺町)(祖父ヶ瀬・おじがせ)等で今の秋吉台を囲むようになっている。片瀬の地名は見当たらない。おそらく、この片瀬は「潟瀬」のことで、俗説によれば、往古、台麓は湖沼地帯でアシやヨシが生えていて「アシヨシ」と言っていたが、康永年間(1342-1345)に田畑が開かれ、穀物が良く実るように、と言うことで、「秋吉」となったという。湖沼地帯だった(これが「潟」か)と言いその地形(厚東川がある。これが「瀬」か)から判断すると潟瀬ないし潟州の地名が残っても良さそうなものだが、なぜか秋吉となっている。当時、荘園の名前に秋吉(庄)と名付けるのが流行したと言う人もあり、そのせいか。秋吉別府が文献での初見で、そちらには後発ながら堅田という地名もある。        

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根の国のこと への2件のフィードバック

  1. ルーツ鋼 より:

     島根県安来市に古墳時代前期に出来た、大成古墳という全国最大級の方墳があります。ここらあたりは古墳群や弥生大型墳丘墓があり、古代出雲王陵の丘として整備されています。これら考古学的な成果から考えると根の国はやはりここだったのかという思いが出てきます。

    • tytsmed より:

      ルーツ鋼さん、こんにちは。

       早速ですが、小生はパソコンに疎く、折角投稿を頂いても何を
      していいか分かりませんでした。
      お説の島根県安来市界隈は古代出雲の一方の雄がいたところとは
      思いますが、こちらにおられた豪族は素戔嗚尊や大国主命よりは
      少し後の時代(卑弥呼女王の頃かその後)の豪族であり、それ以前の
      人と思われる素戔嗚尊や大国主命(西暦でいうと100年代から200年
      代初頭か)とは関係がないのではと存じます。あるいは、投馬国を
      出雲国とするなら彌彌や彌彌那利あたりの人かとも思います。
      いずれも素人考えで申し訳ございません。余り真剣にならずに
      お読み頂ければと存じます。

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