素戔嗚尊と事代主命

「古事記」「日本書紀」には素戔嗚尊と事代主命は出雲神話の中に登場するが、「出雲国風土記」では素戔嗚尊は記紀にあるような「八岐大蛇退治」とか「大已貴神に試練を与える話」のような雄大な説話はなく、また、事代主命にいたってはまったく「出雲国風土記」には出てこない。従って、この二神は出雲とは無関係で「後世に付会されたのでは」というのが現今の有力説になっているようである。

そこで、二神の共通点であるが、二神はともに現在の福岡県宗像市の出身である。「古事記」でその事跡をたどってみると、

まず、素戔嗚尊は天照大神との「天の安の河の誓約」で、いわゆる、宗像三女神を化生した。それが素戔嗚尊の宗像出身とどういう関係があるのだ、と問われれば、彼が宗像の人だったから宗像の神と結合した説話が生まれたのではないか。しかし、日本書紀では伊弉諾尊と伊弉冉尊の間の子とされ、おそらく伊都国(伊覩県)で生まれ、母の死後面倒を見きれない父により不弥国(宗像)に放逐されたものの様である。また、その後の神話でも素戔嗚尊には「須勢理毘売命」とか「大屋津姫命」とか「抓津(つまつ)姫命」とか(但し、後の二者は日本書紀の一書等)、娘上位の子供構成が出てくる。勿論、素戔嗚尊のスサについては、出雲の須佐郷(島根県出雲市佐田町須佐)、山口県萩市須佐が候補に上がり、筑前国宗像郡は地名から言っても根拠薄弱かも知れないが、スサとは地名には関係がなく、「荒れすさぶ」の意とか「進む」の意とか説く向きもある。「後漢書」に出てくる「倭王帥升」も素戔嗚尊と論ずる説が有力で、その場合の倭国所在地を九州北部とするのがほとんどだ。魏志倭人伝的に言うと、末慮国、伊都国、奴国、不弥国の内のいずれかの国であろうが、末慮国(唐津市)、伊都国(糸島市)、奴国(福岡市)、不弥国(宗像市)に比定すると倭王帥升(素戔嗚尊)の国も主要四ヶ国の内に入っている。即ち、不弥国(宗像市)である。素戔嗚尊はその後日中の文献には急に出てこなくなる。中国では「後漢書」の一行のみであり、古事記では大国主命の「根の国訪問」以降は出てこない。おそらく素戔嗚尊(倭王帥升)は漢より帰国後追放されてしまったのだろう。追放された所は根の国で具体的には後の防長(周防、長門)二国のいずれかであろう。倭王帥升は同位者の代表として奴国王や伊都国王共々160人の生口を連れて中国へ行ったものの見るべき成果も上げられず帰国した。しかも、この160人の生口は無為徒食の輩などではなく高度な漁業技術を持った漁師で、漁業の遅れていた中国では喉から手が出るほど必要としていた人ではなかったか。それに対し、そんな人をごそっと持って行かれた倭国では産業の一時的衰退、生活基盤の破壊などで素戔嗚尊(倭王帥升)なんて帰国したら「即・根の国・追放」(素戔嗚尊が高天原から追放される説話のモデルか)となったのではないか。その後も素戔嗚尊一族は不弥国に弱いながらも影響力を持ち続けたようである。例として、山口県周南市竹島御家老屋敷古墳出土の三角縁神獣鏡。根の国と言っても何も地中の国ではなく、具体的には海向こう(関門海峡の彼方)の下関市、現山陽小野田市や防府市あたりだったと思うが、あるいは一足飛びに出雲の須佐の地だったか。「根」とは、方角を表す言葉か、はたまた、漠然と遠くの方を表す言葉のようにも思われる。しかも、素戔嗚尊の後任には娘婿の大国主命が就任し、奴国王以下もそれを承認して、やや大げさに言うと素戔嗚尊は大過なく追放を乗り切ったと言うべきであろう。その後の素戔嗚尊は「根の国」で悠々自適の生活を送ったとするのが記紀の本意のようである。

次いで、事代主命であるが、大国主命の神裔の中で、「胸形の奥津宮に坐す神、多紀理比売を娶して生める子は、阿遅鉏高日子根神、・・・・・また神屋楯比売命を娶して生める子は事代主神」とあり、大国主命には今の宗像市に複数の妻がいたことがうかがえ、生活の本拠もかなりの割合が九州北部にあったようである。もっとも、大国主命の頃の出雲は今流に言うと都市国家の集まりで、大国主命もほかに大穴牟遅神、葦原色許男神、八千矛神、宇都志国玉神と言われ、おそらくこれらの神々は別神で大国主命即ち多国主(多くの国の王)という言葉で一本化されたものであろう。(出雲国風土記では大穴持(おおあなもち)命に統一し、佐太大神のこととするもののようである。狭田国、佐太国の首長)佐太国は今の佐太神社(島根県松江市鹿島町佐陀宮内)のあるところで、同大神は加賀の神埼の窟(加賀の潜戸・松江市島根町加賀)で生まれたという。母神も古事記に言う「刺国若比売命」ではなく「枳佐加(きさか)比売命もしくは支佐加比売命」である。しかし、ここで出雲国風土記が「穴」を「洞窟」と解しているのは如何なものか。「穴」は、<穴(場)>とか<掘り出し物>とか言う言葉があるように何か経済的価値のあるものではないか。ちなみに、刺国とは佐志武(さしむ)神社(島根県出雲市湖陵町差海)のあるところか。大国主命が佐太国出身か、刺国出身かは判断尽きかねるが出雲国の出身で出雲を統一したと言うことであろう。素戔嗚尊が宗像出身としても須佐国の首長一族に関わりのあった神で、事代主命は少年時代を宗像で過ごし、出雲に来てほどなくして大和へ行ってしまった、と言う、誠に出雲にとっては縁の薄い人だったのではないか。(日本書紀にある「・・・海中に、八重蒼柴籬を造りて、船枻を踏みて避りぬ。・・・」というのは、どこかへ行ったのであろうが、宗像か大和か。私見では大和と思う)事代主命に関しては、高市県で祀られていた飛鳥地方の土着の国津神とか、コトは<言>、シロは<知る>の意で、天皇を守護する託宣の神とか、葛城地方の田の神とか、大和国の国津神で、国津神の総帥である大国主命の御子神に包摂された、とするのが現今の通説のようである。★出雲国造神駕詞では、大和の宇奈堤(うなて、奈良県橿原市雲梯町)に皇孫命(すめみまのみこと)の近き守り神として祀られた、と曰っている。★これでは、神武天皇の宮殿の隣に引っ越してきた、とも聞こえる。とは言え、皇室の守護神とか軍神とか言われている割には、事代主命が神武天皇と出撃したとか、その種の話は記紀には全くない。やはり事代主命は他国(出雲)の人で大和に敗者の将として連れてこられたと言うのが真実に近いのではないか。大和の傘下に入った諸国の王を大和へ連れてくるのはいいのだが、その後の大和朝廷の面倒見はすこぶる悪い。大和における邸宅の建設はもとより、衣食住のすべてに渡って諸王に手当をさせたのではないか。奈良県に諸国の名が付いた地名が多いのも、その多くは奈良に都があった奈良時代に起源を有するものかと思うが、中には野見宿禰との縁起を説くものもある。まるで魏志倭人伝の女王国より以北の旁国を以下より選べと言う感じのようだ。そこで、主なものを列記すると、高取町下土佐(土佐村)、高取町薩摩(薩摩村)、桜井市吉備(吉備村)、桜井市出雲(出雲村)、桜井市桜井小字能登(能登火葬場)、明日香村越(越村、あるいは<おち>と読むか)、橿原市上飛騨町(飛騨村)、三宅町石見(岩見村)、三宅町但馬(但馬村)、大和郡山市筒井町東丹波、西丹波(丹波庄)、大和郡山市伊豆七条町(伊豆七条村、伊豆庄、七条庄)、大和郡山市美濃庄町(美濃庄)、天理市丹波市町(丹波庄、丹波市村)、天理市稲葉町(稲葉村)、天理市武蔵町(武蔵村)など。ちなみに、畿内の国名は見当たらない、薩摩のような明らかに後世の国名もある、国名が上下、前中後に分かれていない、地方名の地域が一定地域にあるなどの特徴がある。これらの地名を見ていると、奈良に集まった諸王は当初は必要に応じて国元から物資を取り寄せていたが、何分にも第五夫人まで抱えている人たち故、費用が莫大になり、朝廷との交渉の結果、郊外の遊休地に後世の荘園のごときものを建てたのではないか。その筆頭は出雲の事代主命で、言われているような橿原市雲梯町ではなく三輪山麓(現在の桜井市三輪あたりか)に出雲の匠が豪邸を建て、大和国に出雲文化をせっせと移植したのではないか。一体に他の諸王が大和国に来て武人としてならしたのに対し、事代主命は異色の文人として活躍したようである。そもそも大国主命も医療(因幡の白兎の説話)とか、厄除け(素戔嗚尊の試練の説話)とか、土木建設(少彦名命との国土建設の説話)とか、総じて民生主導の神であり、軍事には縁がなかったと思う。従って、息子の事代主命にも同じような帝王教育を施したのではないか。お陰で、大和国には医術、農業、林業、土木建設などの民生技術が大幅に導入された。それに付帯して出雲の宗教もやって来て、出雲系神を祀る有力神社がやたらと多い。即ち、当初は大和国には宗教のごときものはなく、唯々、卑弥呼女王の鬼道とか、卜占とか、広い意味での占術呪術の類のものしかなかったのか。換言すれば、大和の宗教とはその場限りのもので、神を祀るような、あるいは、後世の年中行事的発想は事代主命が持ち込んだものか。

★事代主命の名前を分析してみると、<事>は琴浦(岡山県倉敷市児島)、琴神丘(「播磨風土記」飾磨郡・同伊和里の14丘では琴丘とあるが、本文の琴神丘が正と思う)の琴は「片」の転化したもので、孤立した状態を表すという。片浦(孤立した入浦)、片神丘(平地の中で孤立した丘。古代ではこういう丘に神は依り憑くとされる)。琴弾原(「景行紀」、類似の地名では琴引川、琴引坂、琴弾山など)、琴坂(「播磨風土記」揖保郡)の琴は緩傾斜を意味するという。<代>は区域を意味するという。苗代とか田代とか代掻きの言葉から田に限定する説もあるが原義はある一定区域の土地などを言ったもののようである。従って、事代主命とは本国(出雲・国王は大国主命)から離れた分国(宗像)の主(国王)の意味か。近時の学説が大和地方の神に固執するのは疑問だ。なお、事代(琴代)の地名が見当たらないが、福井県大飯郡高浜町事代とあるも、同町には佐伎治神社という式内社がありその出雲信仰に由来する地名か。明治6年、町名改称によりそれまでの「本(ほん)町」が「事代」に代わったという。理由は不明。また、苗字にも事代ないし事代堂という稀少姓が広島県にあるようだが、これも事代主命との関わりを疑う人がいる。事代と似た発想の地名としては福島県河沼郡湯川村湊にかって「殊島(ことしま)村」と言う地名があったという。代も島も区域を表す言葉なので同じ意味だったのか。しつこいようだが、敷衍して言うと、「事」は「異」や「殊」にも通じ「別の」の意味もある。事(別の)代(国の)主(王)と言うことで、その生まれからして出雲国の皇太子であるとともに宗像地方(魏志倭人伝に言う不弥国)の王ではなかったか。

★いわゆる記紀にある「三輪山伝承」は、事代主命が三輪山の麓に邸宅を構えたことを伝えているのではないか。また、崇神天皇が疫病の終息を大物主神を祀って行ったことも、出雲系の人(神)が医術に長けていたことが元になっているのではなかろうか。即ち、崇神天皇は大物主神が大和の神ではなく出雲の神であることを認識していた。なお、やや唐突に日本書紀に出てくる倭迹迹日百襲姫命の箸墓伝説はほかの伝承が紛れ込んだものではないか。

結 論

「安帝永初元年(107年) 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」と言う「後漢書」の一文が統一倭国出現のメルクマールだと思う。その時期に活躍した倭人としては素戔嗚尊、大国主命、事代主命及び畿内の神武天皇、大久米命、道臣命が上げられよう。後漢書にもそれまでの倭○×国から単に倭国となり、また統一による国力の充実からか生口の数も160人と破格のものになっている。そうして、この大和から出雲、九州北部の統一をどのようにまとめるかは大きな課題だと思う。そこで、これらの人の世代を見比べてみると、第一世代は素戔嗚尊、第二世代は大国主命、神武天皇、第三世代は事代主命となるのでしょうか。日本書紀で神武天皇が事代主命の娘を皇后としているのは古事記にもある前妻(こなみ)、後妻(うはなり)の後妻(若い妻)のことであろう。とは言え、これらの人々が無関係に存在したとは思われない。即ち、記紀の伝承は筑紫、出雲、大和の伝承を個々に集めて合体したものではなく、当初よりそれら建国説話の根幹は一連のものとして存在し、記紀の中でぎこちなくなっているのは後世の記紀の編纂者が至らなかったからか。倭国の繁栄は筑紫、出雲、大和へとその中心を移したが、そのことと記紀の「神武東征」に代表される「九州勢力が大和を征服した」とする諸々の説は符合するものなのであろうか。

まず、中国の史書と日本の記紀を比較検討してみると、「後漢書」の建武中元二年(西暦57年)にある光武帝が倭奴国の使者に印綬を下賜している。その印文は「漢(改行)倭奴(改行)国王」となっており、倭奴を「倭(わ)の奴(な)」と読むのか「倭奴(いと)」と読むのか、見解が分かれている。もし、「倭奴(いと)」説が正ならば、この倭奴国王は記紀に出てくる「伊邪那岐」の可能性がかなり高い。即ち、「伊邪那岐」の「伊邪」は後世には「伊覩(いと)」に変化すると言う見解(もっとも、倭奴をイトと読むなら当時既にイトと読まれていたのであり、イザないしイサはおかしいと言う見解も成り立つ)もあり、記紀の伊邪那岐も倭国のあちこちをまわっているようであり外国へ目を向けてもおかしくない、伊邪那岐の本拠地も「魏志倭人伝」に言う伊都国ないし奴国であったらしい、などによる。しかし、「委奴」をイトと読むことには反対説が多数だ。とは言え、「委の奴」と読む見解にも何やらもやもやした反論がある。素人がこんなことを言うのも何だが、昨今のsvgファイルで印文をみていると「漢」と「国王」の文字は誰がみても異論は出ないだろうが、真ん中の通説が「委奴」と読む部分が判然としない。幾多の先人には申し訳ないが、今一度、日中の専門家に鑑定してもらっては如何なものか。その後の中国の史書に「倭奴国」とあるので「委奴」で問題ないのかも。「委奴」を「委(わ)の奴(な)」と読むなら委奴国王の比定は非常に難しくなる。日本の記録には奴国(儺縣、那珂郡等)の記録がほとんどないからである。名神大社は二社ある。筥崎宮と住吉神社(若久住吉神社か博多の住吉神社のいずれか)で、住吉神社は祭神こそ住吉三神だが、開闢は伊邪那岐である。何か九州北部の中心が伊覩縣から儺縣に移ったような雰囲気だ。

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