卑弥呼女王の統治した倭

 いわゆる「魏志倭人伝」では現在の日本と思われる「倭」について、風俗、統治領域、物産、為政者、植生、生息動物などが要領よくまとめられているが、中には植生や生息動物など本格的調査を必要とすることは「魏書」の他国を参照したものと思われると指摘する見解もある。おそらく、当時の魏の帯方郡にいた役人は伊都国には御縁があって何度も行ったが、邪馬台国(大和と仮定する)へは卑弥呼女王に謁見するために出かけたのが初めてではないか。そのために「倭」の風俗が九州的といわれているのだろう。魏の使節団が日本海航路でやってきたと思われるのも、何も使節団のために間に合わせた付け焼き刃的な航路ではなく、古く伊邪那美・伊邪那岐以来の伝統ある航路ではなかったか。その歴史の中で出雲国のような大国が現れたと思われる。但し、瀬戸内海航路がとれなかったのは吉備国が邪魔をしていたからと言う見解もあり、私見のように吉備国を狗奴国に比定するなら二義的には邪馬台国と狗奴国が交戦中だったから、と言うことになる。それに、伊邪那岐の本拠も「筑紫・日向・小戸・橘・檍原」とすると、彼が淡道(淡路島)の多賀に籠もった(日本書紀)というのも、早くから九州北部と畿内は交流があったと言うことだろう。魏志倭人伝に伊都国について「世々王あるも、皆女王国に統属する」というのも伊邪那岐が伊都国の始祖と言うことか。ちなみに、伊邪那岐、伊邪那美の「伊邪(いざ)」は、イザ(イサ) → イソ → イト と変化したと言う見解もある。日本書紀の仲哀紀にある伊蘇
(イソ)が伊覩(イト)に訛ったというのも意外と正鵠を得ていると言うべきか。 
 魏志倭人伝と記紀
 魏志倭人伝では当時の「倭」を卑弥呼という女王(女性)が統治していたことを何の疑いもなく書いているのに、記紀ではさような記述がない。おそらく、盟主が邪馬台国と書かれた頃の倭は、いわゆる、男女共同参画の時代で、記紀を見ても「天照大神」「宗像三女神」少し時代が下るが神功皇后の段「土蜘蛛の田油津媛」など女性統率者が出てくる。しかし、その後、武力統一を行うような強い男王が現れてくるようになると倭の社会もだんだん男系社会と移行したようだ。そこで、卑弥呼や台与のような独身女性が国を統治していたとなると伊藤博文流にいう「万世一系」の天皇なんて全くあり得ないのだ。皇統の断絶、断絶、断絶の歴史では様にならないので奈良官僚を遡る遙か前(私見では崇神天皇と考える)から卑弥呼、台与に相当する人物は歴史の表舞台から裏舞台へ押しやられ、御杖代とか斎王とか言われてかすかに史書に痕跡を留めているのである。具体的には、卑弥呼は倭姫命であり、台与は豊鍬入姫命のことなのであろうが、記紀と魏志倭人伝には少しの違いがある。主なものは、記紀では豊鍬入姫命から倭姫命へ斎王が継がれているが、倭人伝ではおそらく倭姫命から豊鍬入姫命の順で女王が交代した。あるいは、記紀の垂仁天皇の段で倭彦命の埋葬に際し、生前の近習を墓の周りに生き埋めにしたとあるのも、倭人伝には「徇葬する者、奴婢百余人」とある。古事記では倭彦命の時初めて殉死が行われたような記述だが、日本書紀では垂仁天皇が「其れ、古の風」といっている。記紀には殉死の話がこの一件くらいしかないので、この殉死は魏志倭人伝を見て書いたなどという人もいるが、古墳から埴輪が出てくるところを見るとあながちそうとも言えない。ところで、被葬者は倭彦命となっているが、倭姫命の間違いではないか。おそらく此方も倭人伝にいう卑弥呼女王の埋葬の話を伝えたものなのだろうが、男性にすり替わってしまった。また、卑弥呼の男弟については記紀にはっきりとした記載がないので、料理長兼秘書役の男性とともに比定ができないのは残念。しかし、記紀では崇神、垂仁のいわゆる「イリ」王朝になってから、それまでの九代の天 皇に比べ内容が豊富になっていることは魏の使節の来訪を機に大和で漢字の普及、記録メディアの導入等がはかられたのではないか。とにかく、記紀に魏志倭人伝の話を求めるならやはり崇神、垂仁の時代なのか。
 
 卑弥呼の外交
 全国あまた発見されている三角縁神獣鏡で銘文中に魏の年号が記された鏡が4面あるそうで、
1,島根県雲南市加茂町 神原神社古墳 景初三年
2,群馬県高崎市柴崎町蟹沢 蟹沢古墳 正始元年
3,兵庫県豊岡市森尾字市尾 森尾古墳 正始元年
4,山口県周南市 竹島御家老屋敷古墳 正始元年
 これらの地域を権力者の存在と照らし合わせると、島根県雲南市は大国主命、群馬県高崎市は大彦命、兵庫県豊岡市は天日槍命、山口県周南市は素戔嗚尊★が考えられる。そのうち、大彦命と天日槍命は記紀の記載では崇神、垂仁朝に出てくるので少し戸惑うも大国主命と素戔嗚尊は神代の人であり、すっきりとそれらの地域の統治者であった。おそらく、卑弥呼の魏国派遣団の一員としてこれらの地域の長やそれに相当する人が加わっていたのだろうと思われる。日本から派遣された使節団の正使や次使は魏の迎賓館にでも宿泊したのだろうが、それ以下の団員は洛陽の安宿にでも泊まっていたのではないか。
 ここで考えさせられるのは、卑弥呼はどうしてこれらの地域から人材を選抜し派遣団に加えたのだろうか、と言うことである。当時の状況を鑑みれば、派遣団には卑弥呼の周りの官人や但馬在住の中国系の人たちで十分ではなかったかと思われる。また、選抜された地域は有力地域(選抜されなかったほかの有力地域としては、尾張、越、吉備など)ではあろうが、こと、外交に関する限りこれらの国の人が行く必要性はあったのだろうか。特に、毛野国・武蔵国は中国にも、はたまた、大和にも遠い国だが、日本書紀によると神功皇后摂政の時に対新羅外交官として活躍した千熊長彦は武蔵国の人と言い、また、同時代に将軍として活躍した荒田別、鹿我別も毛野国の人という。外国とは余り関係がないと思われる東国の人が外交官や新羅討伐軍の将軍として活躍しているのは、卑弥呼が魏派遣外交団に毛野国や武蔵国の人物を加え人材育成を図ったと言えばそれまでだが、腑に落ちない話ではある。ほかの出雲や但馬、周防の国の人はそれぞれ役割があって使節団に参加したものと思われる。あるいは、東国の人も外交官としてではなく警備担当の武官として参加したのかも知れない。
 卑弥呼の外交目的は一にも二にも魏(中国)に倭を認知させることにあったと思う。いろいろご下賜品や答礼品の贈答があるが、それは外交儀礼的なもので二義的なものではなかったかと思う。また、狗奴国との交戦で援軍要請を行っているやにも思われるが、卑弥呼とて魏からの派兵は無理と思っていただろうし、「親魏倭王」の金印の拝受で第一段階の外交交渉は完了したのではないか。資源の乏しい倭国なので現代流にいう資源外交とか経済外交とかは当時はまだなかったのではないか。
 とは言え、上記魏の年号が記された鏡は、拝領者が魏の皇帝や倭の卑弥呼女王から貰った物ではなく、制作者の陳是ないし陳さんから直接貰った物ではないか。陳さんは洛陽の安宿でノミやシラミに悩まされている団員を哀れに思い、直接手渡したのではないか。陳さんは元日本人でおそらく郷愁の念にかられ贈呈したのでは。臨時の通訳兼(安宿に泊まった倭人の)世話係だったのかも知れない。
 
★素戔嗚尊は出雲国(出雲国と紀伊国に宇佐神社があり素戔嗚尊が祀られている)の人と考えられがちであるが、元々は今の福岡県宗像市から山口県西部(瀬戸内海側は周南市くらい、日本海側は萩市須佐あたりまで、いわゆる「根の国」のことか。後世の防長二ヶ国)を支配していたのではないか。須佐の地名もあるがこれは大分県宇佐市から宇佐八幡宮を分祀した際、宇佐を須佐と間違えて発音した、と言うのが一般的である。但し、長門国阿武郡須佐郷は古い地名(記録では中世の頃から)なので素戔嗚尊と関係があるのではという説もある。(江戸時代後期、出雲国の国学者・千家清主)記紀いずれにも素戔嗚尊の男子の御子(五十猛命など)を記載しているが、実際には素戔嗚尊は子供は女子しかいなかったようで、その娘が隣国の大国主命に嫁いだら、領国までも出雲国に併呑されてしまった。大国主命が九州・宗像の地に縁があるのも、そのためであろう。また、素戔嗚尊にまつわる神話も出雲神話に取り込まれ出雲の人となってしまったようだ。このように考えると天照大神、宗像三女神、倭王帥升、魏志倭人伝不弥国などとの関係について検討しなければならないと思うが、課題が膨大になるので割愛する。八岐大蛇退治の出雲神話も検討の余地、大だ。なお、素戔嗚尊を韓(から)人とする説は多く、韓の漁師とか製鉄業者とかいろいろあるが、「古事記」では伊邪那岐命に「汝命は、海原を知らせ」といわれたのは、漁師である父の後を継いで漁師になるようにいわれたのではないか。しかし、彼は「僕は母の国根の堅洲国に罷らんと欲う」と言い、今流にいえば貿易商にでもなりたいと言ったのではないか。即ち、素戔嗚尊の子供の頃は身近に韓や新羅などと交易をしていた人がいたのではないか。しからば、倭人でいいのではないか。敷衍して言えば、私見では伊邪那岐のモデルは伊都国(日本では伊覩県)の漁師であり、素戔嗚尊を放逐したと言っても不弥国(現在の宗像市、当時は「海方」<うみかた>と言っていたと思う)へ今で言うと養子に出したとか、親戚に預けた、と言うことになるのではないか。勿論、伊邪那岐は反対給付として素戔嗚尊の姉(記紀では天照大神)に不弥国から婿をもらったのである。当時の伊都国は魏志倭人伝によると「郡使の往来常に駐まる所なり」とあり、倭国で唯一の国際都市だったのではないか。そういう所で生まれ育った素戔嗚尊が外国にあこがれたとしても不思議ではない。後漢書に「倭国王帥升等が生口160人を献じた」とあるが、これが日本書紀の一書に言う、「素戔嗚尊、その子五十猛神を帥いて、新羅国に降到り、曽尸茂梨の処に居します」に相当するものではないか。おそらく、紀元100年頃は倭国では今の中国は理解の範疇外であったのではないか。宗像三女神と素戔嗚尊の伝承は記紀ともに記されているので素戔嗚尊は現宗像市に在住していたと考えて差し支えないのではないか。倭王帥升が160人もの生口を献じながら何の見返りも書かれていないのはおかしなことだ。即ち、倭王帥升は元祖博多商人(室町時代の肥富の大先輩)として「漢」に今で言う口座開設のために出かけたのではないか。倭国王と理解した先方と帥升には微妙な齟齬があったと思う。また、日本書紀では素戔嗚尊が「此の地は吾居らまく欲せじ」と言っているのは素戔嗚尊と漢の交渉が失敗したと言うことか。あるいは、日本書紀の記載は単に貿易商素戔嗚尊が韓半島へ商売のため渡航したと言うことか。
 
 卑弥呼女王の外交の成果
 卑弥呼女王は魏志倭人伝に「鬼道に事え、能く衆を惑わす」とあるので、何か行き当たりばったり、出任せの手品まがいのことを行い人々を煙に巻いていたかのような表現だが、魏への派遣団には語学堪能者を主に、全国からまんべんなく選抜して派遣しているようだし、「詔恩に答謝す」などと国際儀礼も心得ているようだ。以下、その統治の内容を考察すると、
 
1,文字(漢字)の導入、記録メディアの開発、筆記具の考案
2,朝鮮半島進出の橋頭堡を築く。(加羅に進出か)
  当時、既に鉄資源確保のため倭人が韓半島にいた模様。
3,国軍の創設
   狗奴国と戦争をしている割には軍隊のことについては出てこない。兵には矛、
  楯、木弓を用う、とあるくらいなもの。当時の邪馬台国の国軍の組織は大王(お
  おきみ)直属の軍隊はなく、臣下の者が軍を掌握していたようだ。(例、神武天
  皇と大久米命及び軍人としての久米の子)
   それは、対戦国の狗奴国も大同小異で王の卑彌弓呼と臣下の狗古智卑狗
  及び狗古智卑狗の子と称する兵士がいた。もっとも、狗奴国は元は邪馬台国
  傘下の国で制度が同じでもおかしくはない。前線の軍人にとっては二人に
  重畳的に忠誠を誓わなければならず、また、二人の指揮官では実際の戦いに
  不都合が生じるであろう。
   そこで、卑弥呼は少数ではあるが自前の軍隊を組織したのではないか。
4,技能者の育成、招来
   生口と称する技能者を先方(魏)へ送り出すばかりでは国の発展はあり
  得ないので、国内での育成、帯方郡からの招来を図ったのではないか。
 
 以上は、勝手な私見ではあるが、以下、魏志倭人伝に書かれているものとして、
1,其の会同・坐起には、父子男女別無し。(男女同権の議会があったと言うことか)
2,争訟少なし。(司法制度があったと言うことか)
3,尊卑各々差序あり。(階級社会だった)
4,租賦を収む。(租税制度があった)
5,邸閣あり。(計画的住宅街があったか。あるいは、倉庫★、祈祷所等を見誤ったか)
6,国々市あり、大倭をして之を監せしむ。(公設市場があった、公正取引のための
  場長がいた)
7,一大率を置き、諸国を検察せしむ。(反邪馬台国的国を押さえ込むためか。反乱
  国家として狗奴国)
8,刺史の如き有り。(各々の国には行政監察官がいた)
9,兵を持して守衛す。(単なる守衛のことか、近衛兵の如きものか)
  以上より判断するならば、当時の倭国は国家の体をなしていたことになる。それ故、
  魏の皇帝は属国と見なして「親魏倭王」としたものか。
★「邸閣」の意味については、中国では1.倉庫 2.邸宅 3.商店の意味があるようである。ここの意味につき「倉庫」と解するのが多数説のようである。租賦に続く建物は倉庫と考えるのが一般的かも知れないが、私見としては、邸(平屋建)、閣(二階建)と解して邸宅とした方がいいのではないか。神武天皇この方、大和の傘下に入った国の王は大和に集められ、纏向に邸宅を与えられたのではないか。仮に、卑弥呼が磐余に宮殿を構え、諸王が纏向に邸宅を構えていたとしたなら、纏向と磐余は街道で結ばれて、魏の使節一行もそこを通ったのではないか。とかく、三国志魏志東夷伝で倭国の住戸の数が多いのもその整然さに惑わされたものと思う。
 
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