古代にも熱中症はあったのか

 平成22年7月の梅雨明けからの猛暑はものすごい。連日の報道で猛暑と熱中症の言葉が出てこない日はない。国によっては異常気象となって現れていて、ロシアでは日本でいう真夏日が続いているそうだ。暑い夏の過ごし方を知らないのでウォッカを飲んで水の中に入り命を落とす人が跡を絶たない由。暑い夏になれている日本でも今年はことのほか熱中症で亡くなる人が多い。7月29日は全国的に雨となり、暑さも中休みというが、来月になるとまた猛暑がぶり返すそうだ。
 ところで、古事記や日本書紀を読んでいると暑さで命を落としたという話は見かけないが、いつも気になっていたのは神武天皇東征の際の以下のくだりである。
 時は神武天皇即位前紀戊午年六月(日本書紀)
 「時に神、毒気を吐きて、人物咸に瘁えぬ。是に由りて、皇軍復振ること能はず。・・・(中略)・・・時に武甕雷神、登ち高倉に謂りて曰く、「予が剣、号を韴霊と曰う。今当に汝が庫の裏に置かむ。取りて天孫に献れ」と曰う。高倉、・・即ち取りて進る。時に天皇、適く寝せり。忽然にして覚めて曰く、「吾、何ぞかく長眠しつるや」とのたまう。尋ぎて毒に中りし士卒、悉に復醒めて起く。・・・(略)・・・時に夜夢みらく、天照大神、天皇に訓へまつりて曰はく、「朕、今頭八咫烏を遣わす。以て郷導者としたまへ」と曰う。果たして、頭八咫烏ありて、空より翔びおりる。・・・」
 記紀ともに出てくる人は、天照大神、神武天皇、武甕雷神、高倉下であり、ほかに日本書紀では神となっているが古事記では大熊となっている。この遠征譚については、韴霊(ふつのみたま)は神武天皇の守護霊でそれを得て天皇の勢威は開けてきた。(アメリカ・インディアンの守護霊の話)とか八咫烏はトーテム信仰とか、難しいお説もあるが、ここでは日本風に解釈する説を紹介すると、上記遠征譚は熊野大社の縁起で天皇一行が熊野に来た時、山道が不案内だった一行を熊野の地理に通じていた地元の山人が道案内をした。八咫烏の話は後日譚で、熊野の神使いとして信じられたミサキガラスの信仰を牽強付会したものか。あるいは、現在、奈良県宇陀市榛原区高塚にある「八咫烏神社」の社伝では、祭神の賀茂建角身命は、この土地の豪族で、全身に黒い布をまとい、木から木へ飛び移って神武天皇を先導した。その姿があたかも八尺もある烏のようだったので八咫烏と言った。また、京都の鴨県主、賀茂県主は「車駕行幸供奉」とか「乗燭照路」を任務としていたので、それからこの物語ができた、など。
 私見は、この話は事実とはとうてい考えられないが、「時に神、毒気を吐きて、人物咸に瘁えぬ」というのは、今で言う「熱中症」に罹ったのではないか。六月の話と言うことになっているが、当時は四、五、六月が夏のようで、暑い夏の話が記紀の著者により取り上げられたのではないかと思う。炎天下の行軍は今では常識外の話だが、当時は何でも前へ、前へと進んだのではないか。水分補給のことなどは夢のまた夢で、唯々暑さ対策に見識のあった八咫烏(賀茂建角身命)だけがその対策として、今で言うフード付き、袖無し、簡易雨合羽のようなものを着て、暑さをしのいだのではないか。こういう防暑着のようなものは世界中いたるところで見受けられる。そのシルエットが烏のようだったので八咫烏と呼ばれたのではないか。とは言え、京都の豪族だった賀茂(鴨)氏がこんなところに出てくるのは合点がいかない。宇陀市の八咫烏神社の社伝のように賀茂建角身命は宇陀の人と言ってしまえばそれまでだが、果たして、それが本当か。以下、上記内容を箇条書きにしてみると、
 1.八咫烏こと賀茂建角身命は、熊野三山いずれかの大社の祭神であろう。
 2.賀茂建角身命は、言われているような今流に言う山岳ガイドなどではなく、
   後世の農業を行っていた。農業と言っても半農半漁で、防暑は、夏場、
   屋外で作業をする人の必須事項ではなかったか。
 3.従って、熊野三山のうち一山は農業神、食物神を祭っていた。
 4.賀茂建角身命は、京都はおろか奈良にも行っていない。
 5.京都の賀茂(鴨)氏の祖神や祖先は賀茂建角身命ではない。角身とは
   角のある人の意か。防暑着を着た人を言ったものか。防暑着のフード
   の部分を角と言ったか。日本書紀に八咫烏を頭八咫烏と表記している
   が、頭を八咫烏が「頭デッカチ」だったからと言う人もいるが、これもフード
   の部分を言ったものか。ことほど左様に、建角身命のデザインは当時とし
   ては斬新で、この一事を以て彼は神と崇め奉られたか。
 6.神武天皇の熊野から奈良へ入る話は紀伊熊野大社の縁起に加えられ
   たものである。
 7.そもそも記紀の神武天皇が熊野へ行く話は、記紀の著者が「魏志倭人
   伝」の狗奴国を意識したものではないか。狗奴をクマと解し、当時は無名
   であった熊襲・熊野を歴史の表舞台に引き上げたのではないか。一応、
   日本書紀では仲哀天皇の熊襲討伐や神功皇后を卑弥呼に比定するなど
   仲哀・神功紀でまとまっているが、古事記では熊野で大熊が出てくるなど
   「クマ」の意味を誤解している。創造力たくましいが真実ではない。
 8.熱中症の話も記紀編纂時に猛暑があり、倒れる人が続出し、それが投影
   されたものか。おそらく、当時の官僚は今の夏日や真夏日は「ウナギ」を
   食べて体力増強を図り、猛暑日は横になって休養したのだろう。神武天
   皇の「予何ぞ若此長眠しつるや」と言ったのも横になって寝入ってしまい、
   その後目が覚めた時の言葉だろう。古代の人もいたって合理的な生活を
   おくっていたのである。だから、神武天皇が大阪湾を南下し、紀伊半島を
   回って熊野より大和に入るなどという迂遠な方法をとるようなことは考えら
   れないのである。
以上は記紀の内容に従った神武東征があったということを前提に推論したものである。
結論めいたこと
 神武東征はあったのか
 記紀を見ていると初代から第九代までの天皇で事跡が延々と記載されているのは神武天皇だけでほかの八人の天皇とは比べものにならない。いくら巻頭を飾ると言っても極端で、やはり後世の追記や加筆等があったのではないか。最終的にまとめられたのは記紀の編纂時なのだろうが、魏志倭人伝の狗奴を「クマ」と勘違いした編纂者は熊野国造に国造家の資料を提出させては見たもののさしたるものはなく、編纂者の知識の寄せ集めで今の記紀に見る文章となったのではないか。もっとも、最初に神武紀に本格的に加筆したのは私見では大伴室屋と思われ、景行天皇の熊襲討伐を神武東征に重ね合わせ、摂津(但し、日本書紀では日向より帰還したとだけ書かれている)に上陸したのであろうが、景行天皇と同じ場所ではまずいと言い出す者がいて熊野上陸となったのではないか。従って、高倉下とか八咫烏とかはどこかほかの地方の話ではないか。
 八咫烏
 神武天皇が宇陀や吉野地方を平定する時に、井光(ゐひか)とか磐排別(いはおしわく)とか苞苴担(にへもつ)とか(ほかに兄猾、弟猾も出てくるがこれは地名由来の名前なので割愛)変わった名前の人が出てくるが、八咫烏も本来この列に加えられるべき人だったのではないか。即ち、八咫烏の起源は奈良県宇陀市榛原区高塚の八咫烏神社が本家本元か(但し、続日本紀には創祀は慶雲二年とある)。賀茂建角身命は後世の付会か。洛北の豪族が宇陀の豪族とそう簡単に結びつくものなのか。そもそも、建角身命の角(つの)は角(かど)とも読み、葛野を「角能」と書き、能の偏の書き方により「身」となったのではないか。即ち、建角身命は建角能命で元々葛野の豪族で奈良県の人である八咫烏とは何の関係もない。もっとも、古事記では「加豆怒(かづの)となっており、「カドノ」は和名抄の「加止乃」「加度乃」に由来するものである。一応、京都の人が書いた「和名抄」を正とした。また、奈良県御所市の高鴨神社や木津川市の岡田鴨神社との同一性を説く向きもあるが関係ないと思う。八咫烏も単に大型のカラスの意味(嘴太カラスの大、中、小の大の意味)で、大型のカラスがいた土地を意味するか。ちなみに、八咫烏とは人名であろう。それに、ヤタガラスを無批判に鳥類のカラスと解してよいかも疑問だ。地元では江戸時代中頃までは「をとごろす」と言われていたらしい。これを「やたがらす」と聞くのは至難の業ではないか。まあ、「ごろす」はカラスの鳴き声が「ころころ」→「からから」→「かあかあ」と変化したという説があり、「ごろ」は原始的な音「ころ」をうつしたと思われる。カラスはカラスの前は「コロス」と言われていたか。もっとも、常識的にはカラスを曖昧な発音でコロスとなったと考えるのが正解か。また、「をと」とはこれ如何にという感じだ。一般的には、「をと」は「をとめ」「をとこ」の「をと」と解し、結婚適齢を言うらしい。「をとごろす」とは成鳥のカラスのことか。あるいは、ウタ(ダ)(宇陀、宇多など)がウト(Wuto) となり、最後に「をと」(Woto)になったか。これなら本来はウタガラスが正解だったか。ちなみに、京都の葛野坐月読神社の鎮座地も歌荒樔田(うたあらすだ。うらからすだ、ともいうか。「タ」は田圃の「タ」で地名としてはウタアラスないしウタカラスであろう。余談になるが、日本書紀の顕宗三年二月の段は誠にけしからん話で、邪馬台国この方経済自立のできない壱岐県主は任那派遣団の阿閉臣事代にでたらめご託宣を並べ立て「民有地を月神に奉納せよ」と。しかも、奈良にまでまとわりついてきて、自分の出世の邪魔になると思った阿閉臣事代はご託宣を天皇に奏上し、天皇は葛野の民地を取り上げて壱岐県主の先祖押見宿禰に与えたという。迷惑きわまりないのは田畑を取り上げられた山背国葛野郡歌荒樔の庶民で、いつの世も食べるためや自己保身のためには詐欺、恐喝、強奪などの犯罪的行為を行うようだ。また、自活できない地方が中央を頼るのも何やら今の世と変わらないようだ★)と言ったという。「ウタ」も「ヤタ」も「湿地」を意味する同じ言葉と言う。カラスも鳥のカラスの漢字を当て遠大な神話を述べているが、カラには地形用語でいろいろな意味があるようで、ここでは平野部が終わった扇状地の上の意味らしい。宇陀郡には小盆地が点在するようでその小盆地を言ったものか。「ス」は州の意味という。従って、八咫烏は鳥類のカラスというのは一考を要する。なお、八咫烏と建角身命が関係づけられているのは、いずれの地(宇陀市、京都市)にも「カラス」という地名があったからと思うが、今は遺称地もなく不詳である。但し、京都市には「糺(只洲が本義という)の森」とか烏丸小路(現烏丸通)とか、「カラス」に結びつくかどうかは分からないが断片的な地名はある。
 ★京都府レッドデータブック「木津川の荒州」はその文章の趣から言って「アラス」=「カラス」を説くもののようで、その説くところによると「・・・洪水時の河川の作用によって形成された微高地は、自然堤防と呼ばれる。・・・洪水氾濫の繰り返しによって河道の位置が変化すると、その連続性が失われ低地の中に島状に点在することが多い。・・・」と。大型のものが、いわゆる、「中之島」とか「中州」とか「川中島」などと言われるものなのだろう。歌荒樔田とは「宇多・荒州・田」のことか。「宇多・産らす・田」を説く高名な学者もいるが、少し意味は違うが「宇多・新州・田」もあるか。当時の新田開発の難しさから言って顕宗天皇も未開墾の神田適地を与えたものか。宇多荒州の地名が残らなかったところから見て、土地は洪水に浸食されて徐々になくなってしまったものか。(遷座の理由として、社、近河辺、為水所囓、故移之)それに、歌荒樔田の地も現在の月読神社から見て桂川をはさんだ対岸の地にあったのではないか。但し、歌荒樔田の「歌」は葛野郡宇多村(葛野郡綿代郷宇多村のことか。現在の京都市中京区西ノ京馬代町あたりか)と言い、平安京のあったところと言う。仮に、古代宇多村を今の中京区全体としてその河辺とは西京極の名も残る、今の京都市右京区西京極の桂川沿いあたりか。河は両岸が同時に浸食されると言うことは余り聞かないことで、西京極の方が浸食されたので対岸の松尾大社の方へ移ったのではないか。歌(宇多、宇太)を多数説が平安京に比定しているのも桂川左岸とする有力論拠だ。地名も後世の命名ではあろうが、西京極郡附洲町とか西京極中島町とか西京極河原町(裏町)とか、「洲」の変遷を表す名前だ。砂の堆積や水の浸食が激しかったのだろう。祭神が違うのに松尾大社の神領に移るのは如何なものかとは思うが、名神大社とは言え月読神社の神領は狭小で山城国の諸所に散在するという田畑や松尾前河原田方五町余と言うのも松尾大社が月読神社に泣きつかれてその都度、ちびり、ちびり与えてきたものではないか。それに、月読神社の神官(遷座後は松室氏という)も壱岐県主の子孫ではなく、秦氏の一族という。(但し、松室氏の集まりという松室同族会は壱岐県主の子孫という)一種の縁故遷座か。
 高倉下
 此方も高倉下を祀っている神社が奈良県宇陀市ある。椋下神社(倉下神社)(宇陀市榛原区福地、祭神高倉下命)、高角神社(宇陀市大宇陀区守道、高角大神またの御名高椋下神)。ほかに、十津川村にもあるが、これは和歌山県の範疇に入れた方がいいだろう。但し、椋下神社(高倉下)と八咫烏神社(八咫烏)は神武東征の勲功により同時(705年、特に、後者は続日本紀・慶雲二年九月丙戌に創祀されたとある)に宇陀に祀られたと言う説がある。続日本紀は記録がはっきりしている時の史書なのでそれが正しいかとも思われるが、もう一方の高角神社は高倉山にあるので、あるいは、高倉下もこの地方の豪族ではなかったか。しかし、和歌山県には高倉神社と称する高倉下を祀る神社が新宮市に四社ある(特に、旧熊野川町に三社)。何か高倉信仰のごときがあるようであるが、いずれも由緒などは不詳のようである。
 以上より推測するならば、神武天皇は奈良県の人であり神武東征の段に出現した八咫烏、高倉下も、また、奈良県出身と解するのが自然ではないか。道臣命や大久米命のように論功行賞にあずかっていないところを見ると、当時も既に身分制があり、身分が低かったと言うことか。但し、八咫烏は「頭八咫烏、亦賞の例に入る」とある。ただ、記紀では八咫烏、高倉下はともに神武天皇の協力者となっているが、実際は磐余から宇陀、吉野平定に出かけた神武天皇、大久米命(場合によっては道臣命も加わるか)の被征服者の可能性が大だ。即ち、神武東征とは神武天皇が磐余にいてあちこちに出撃したと解釈する方が常識にかなうのではないか。
葛野県主と鴨県主
 山背国も県(あがた)が設置された初期の頃(景行天皇の頃か)は県も一カ所(今の京都市右京区西京極あたりか。江戸時代まで郡(ごおり)村があり、古代葛野郡の郡衙があったか。今は西京極郡××町という地名に名残がある。またそのものずばり、西京極葛野町という町名もある。葛野県)しかなく、その後人口の増加とともに人の集団も分散し鴨県とか栗隈県とかができたのではないか。山背は、また、渡来人も早くから居住したようで、特に、秦氏は治水、稲作、養蚕、織物等生活に必要な先進技術を抱え大挙して住みついたようである。その地は今の右京区太秦の地かとも言い、葛野県主は言葉も通じず、柄の悪いこの隣人(渡来人)には辟易したのではないか。加うるに、秦氏は太秦の地から桂川にそって伏見稲荷大社のある方角へ開拓を進めたようである。当然、秦氏と葛野県主は衝突となるのだが、力のある秦氏に葛野県主は押されっぱなしで、ついに同業者の鴨県主(今の上賀茂神社、下鴨神社あたり)のところへ逃げたのではないか。はた迷惑なのは鴨県主で、おそらく今の上賀茂神社か下鴨神社の地のいずれかを葛野県主に与えたものであろう。元々は葛野県主と鴨県主は関係のない家系とは思うが、葛野県主は婚姻を通じて鴨県主一族と葛野県主一族との渾然一体化をはかり、言わば、葛野鴨県主とも言うべき系譜を作出したのではないか。上賀茂神社と下鴨神社があるのも、元はいずれかを葛野県主が、他方を鴨県主が祀っていたものであろう。賀茂建角身命の賀茂は後代に付会したものであろう。建角身命と言うので本当は景行天皇の頃の人か。角身も角能の誤記か。建角身命は葛野県主の先祖であって、鴨県主とは直接関係はないのではないか。カラスの地名も今の西京極あたり言ったものか。カラス=涸洲か。
 しかし、「カラス」の定義につき一説には「盆地の平野部が終わり扇状地が広がり、その終わりの微高地」と説くものもあり、この説によれば京都盆地の平野部が終わり、扇状地(賀茂川と高野川に囲まれた地域のことか。但し、古代の高野川・賀茂川の水流は今とは違うという説もある)があり、その微高地(カラス)と言うことは上賀茂神社がある地のことか。賀茂建角身命は元々今の上賀茂神社あたりに住んでいたのか。それでは、下鴨神社は分家となり分家が祖神を祀るのは如何なものか。それに、一説によると、古く嵐山(あらしやま)は荒樔山(あらすやま)、桂川(かつらがわ)は 荒樔川(あらすがわ)と言われていたという。「アラス」は、また、「カラス」とも発音し、山背の「カラス」はやはり現在の桂川流域と見た方がよいのではないか。どうして烏山や烏川とならなかったのは検討(「アラス」と「カラス」は併存していたのではなく、「カラス」から「アラス」へと変化したのか。「カラス」の地名が散見するのは庶民は「カラス」派か)の余地もあるが、山背の「カラス」に住んでいた賀茂建角身命がカラスの一事を以て記紀で大和宇陀の八咫烏に関係づけられたことは間違いないと思う。即ち、八咫烏と鴨建角身命は何の関係もないのである。とにもかくにも、「クマ」と聞いて動物の熊を連想し、「カラス」と聞いて鳥の烏を連想するのは、かって一世を風靡したロールシャッハテストのできの悪い人を思い起こさせる。太安万侶とはそんな人だったのか。
広告
カテゴリー: 歴史 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中