大伴氏はどこで建国神話を採取したか

 以下の文章は、1.記紀に言う神武東征などはなく、2.従って、神武天皇は九州の人ではない、と言うことを前提に書いているものであり、いわゆる記紀の記載を正と考える記紀信奉者や神武東征を何らかの史実の反映と考える向きには考えがかみ合わないと思われる。一応、なぜそのような前提に立脚するのかを述べてみると、
 
 1.一般に、天孫降臨の地は古事記では日向高千穂久士布流多気、日本書紀
   では日向襲之高千穂峯とされ、今の霧島山系とされる。景行天皇の御代こ
   のかた南九州の異民族、熊襲ないし隼人は反乱ばかりを起こして大和朝廷
   に従わなかった。特に、記紀の編纂時には霧島山系が熊襲ないし隼人と
   大和朝廷の支配地の境だった。即ち、霧島山の麓に大和の対隼人前線基
   地があったのだろう。当時の服従者への懐柔策として、征服者と被征服者
   は同族である(記紀ではホデリ(紀ホノスソリ)-隼人阿多君の祖、ホヲリ
   (紀ヒコホホデミ)-天皇家の祖、は兄弟である)とし、征服者(勝者)は被征服
   者(敗者)の娘を妻とするのが常だった。(神武天皇の最初の皇后阿比良
   比売(あひらひめ)=阿多小椅君の妹は、ホデリの孫という説あり)以上より、
   天孫降臨の神話は記紀編纂時に大和の熊襲ないし隼人支配の正当性を
   神話で主張したものであり、神武東征の話は、現に天皇は大和(奈良県)で
   何百年にもわたって統治しているのに、九州にいたのではおかしいのは火
   を見るよりも明らかである。そこで、記紀の編纂者はいずれかの天皇を九州
   から大和へ移さなければならないのである。その手法には、奈良盆地の回り
   の山に天降る方法や陸路・海路を経て大和に入る方法があるが、記紀の
   編者は後者を選んだもののようである。要するに、日向神話も神武東征も
   根拠薄弱な作文だったか。少なくとも史実に基づいた話ではないと思う。
   彼方立てれば此方立たず、で、記紀の同祖偽装には、通常、欠史八代の
   天皇が利用されることが多いが、熊襲ないし隼人族は奈良時代でも異民族
   と見なされて、共通の祖先を神話の世界まで持っていかなければならなか
   ったのか。それも、大和を舞台にすると熊襲ないし隼人側に無理が生じ、熊襲
   を舞台にすると大和側に無理が生じたのであろう。その結果が神武東征とな
   るのである。それに、天孫降臨の時期であるが(神武天皇即位前179万年余
   り前)、いくら大洞を吹いて回りを驚かそうとしたかも知れないが、こんな誇大
   妄想狂(暇な奈良時代の宮庭官僚)の話なんかまともに取り上げる方がおか
   しいくらいだ。
 2.神武天皇は熊襲や隼人ではないこと。これもその御名からして明かで、和風
   諡号を神日本磐余彦尊と言い、諡号の本体は磐余彦尊であり、磐余は大和
   の地名であるという。おそらく神武天皇は大和で生まれ育ち、九州に何て行
   ったこともないだろう。当然、阿比良比売なんていう皇后も関係はなく、出雲
   国系の人が皇后だったと思う。
   ちなみに、神武天皇の御名を検討してみると、
  古事記
   若御毛沼命(わかみけぬのみこと)
   豊御毛沼命(とよみけぬのみこと)
   神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれひこのみこと)
  日本書紀
   始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)
   神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといはれひこほほでみのすめらみこと)
   狭野尊(さののみこと)
   神日本磐余彦尊(かむやまといはれひこのみこと)
  古事記の若御毛沼、豊御毛沼は「毛深い」という身体的特徴を言ったものか。
  日本書紀の火火出見とは活火山を言ったものか。火火は炎のことか。炎の見
  えるところ。
    勝手な私見では神武天皇は何やら大和の人と熊襲の人の混合型あるいは
   二人の人物の合作かとも思われるが、もう少し多数説にそった解釈をすると、
    若御毛沼、豊御毛沼の若、豊は形容詞で、御毛は神饌(みけ)で、神聖な
   食べ物即ち当時は米を言ったものか。沼は助詞の「の」か。あるいは沼で
   水田を表したものか。若は田植えの頃、豊は稲刈りの頃を言ったものか。
   なお、豊御毛沼命は伊勢神宮外宮の祭神「豊受媛神」と関連のある御名か。
    また、火火出見の火火を稲穂の穂と解する向きが多い。出見は神武天皇
   に近い存在として第三代安寧天皇の御名に師木津日子玉手見命(古事記)
   とあり、出見と手見は同じ言葉と思われるので、玉手見の玉は地形を表して
   いると思われる故、火火出見も何らかの地形を表したものか。出見、手見は
   接尾辞かと思われるが、強いて意味を付会すると、字義通り「・・・の見える
   ところ」の意味か。安寧天皇は紛れもなく大和の人なので神武天皇も御名
   の類似性から大和の人と思われる。なお、狭野尊から神武天皇の出身地
   や人となりを推測することは困難である。
 
神武王朝の藩屏となる人々
  神武天皇を支えた人々(一時的なものは除き、比較的長く支えた人々)を
 古事記と日本書紀から列挙すると、
   古事記
    槁根津日子(倭国造等の祖)
    八咫烏
    道臣命(大伴連等の祖)
    大久米命(久米直等の祖)
    迩芸速日命(物部連等の祖)
   特に、大久米命配下の人々が天皇軍の主力部隊だったようで(おそらく、この二人のコンビが畿内を征服したか。その関係は日本書紀にいう「大伴氏の遠祖日臣命、大来目を帥いて、元戎に督将として」というものであったのでは)、本来の話は神武天皇と大久米命の軍事行動を伝えたものか。さすれば、記紀に出てくる大伴氏の祖日臣命(道臣命)は怪しくなってくるのであるが、記紀には似た話がほかにある。いわゆる、出雲の国譲りの話で、古事記では建御雷神と天鳥船神が、日本書紀では武甕槌神と経津主神が国譲りの交渉役として出てくる。何やら出雲攻略を敢行した神武天皇に使わされた道臣命と大久米命(場合によっては、神武天皇と大久米命)が想起され、「出雲国風土記」では経津主神のみ派遣されたとある。この場合は、大久米命のことか。舞台が変われば出演者名も変わるということか。なお、ほかの人物も日本書紀と重複して出ているので排除はできないと思うが、槁根津日子や八咫烏はともに先導役を果たしている。八咫烏は後世に言う物見で、槁根津日子(さおねつひこ)は使番の役割を果たしていたのか。
   日本書紀
    珍彦(椎根津彦)(倭直等の祖、倭国造)
    天種子命(神武の侍臣、中臣氏の遠祖、菟狭津媛と結婚)
    頭八咫烏(葛野主殿県主の祖)
    日臣命(道臣命)(大伴氏の遠祖) 
    大来目(但し、命の称号なし)
    弟猾(猛田邑県主)
    弟磯城(磯城県主)
    櫛玉饒速日命(物部氏の遠祖)
    剣根(葛城国造)
   久米氏の役割が大きく後退し、大伴氏の配下として扱われている。天種子命と称する中臣氏の遠祖が登場するが後世の追記(追記者は中臣大島か)であろう。古事記とおおむね同じ人物たちであるが大伴氏の遠祖道臣命の活躍が多くなる。政治的意図があったのか。
   以上を推測すると、難波(摂津国)から奈良へ引っ越してきた(景行天皇の頃か)大伴氏は隣家が没落神武朝豪族の久米氏だった。遠い神武天皇の御代には神武天皇と大久米命は今の橿原市で隣家同士で神武天皇が主、大久米命が従の関係で奈良盆地の平定から全国制覇に向けて行動を共にしていた。天皇の軍隊は久米部が担っていたのだろう。大伴氏が出てくるのは大伴氏が久米氏から久米氏の伝承や天皇家の由来、奈良盆地の歴史などを聞き、それを記録に留めていたものであろう。その天皇家・久米氏の歴史の中に大伴氏のでたらめ話を加えたものだろう。そのほかに物語の中で重要な役割を果たした者として椎根津彦と頭八咫烏(日本書紀による)がいる。いずれも戦いには欠かせない「物見」と「使番」の役割を担っており、神武天皇軍が倭統一を成し遂げたのも、こういうところに一因があるのではないか。また、論功行賞でも奈良盆地をきちんと固めており、国造、県主(当時そのような役職名があったとは思われないが)を多数任命している。日本書紀で久米氏(大久米命を含めて)の地位が著しく低下しているのは、日本書紀編纂時は久米氏は中央豪族ではなかったからと思う。久米直の直はおおむね地方豪族のカバネである。久米氏は大和朝廷最初の宰相であったかも知れないが、最初に没落した豪族でもあった。但し、久米氏に関しては大久米命の黥面(顔の入れ墨)が気になるところだ。一般には、畿内には入れ墨の風習はないといわれる。しかし、魏志倭人伝には以下のくだりがある。「男子は大小となく、皆黥面文身す」「水人・・文身し、亦以て大魚・水禽を厭う」と。何か男子、漁師の専用にも聞こえるが、卑弥呼について「王と為りしより以来、見る有る者少なく」とある。これもいろいろ考えられるが、やはり卑弥呼女王は王となって特別の黥面をほどこし、人前に出られなくなったことを意味するのではないか。卑弥呼を大和の人と解するならば、同じ大和の人と思われる大久米命が当時の有力者として黥面をほどこしていたとしてもおかしくはないのではないか。
  それでは、神武天皇が大和の人として、神武東征の話はどのような経緯でできたものなのだろうか。日本史では古代統一王は三名いる。始馭天下之天皇の名がある神武天皇、御肇國天皇と称された崇神天皇、かかる称号はないが、実質、日本を統一した景行天皇である。おそらく崇神天皇か景行天皇の事跡が神武天皇の大和統一神話に紛れ込んだものだろう。ところで、崇神天皇には九州遠征の記録がないのに対し、景行天皇には九州遠征の伝承がある。従って、神武天皇の東征の話は景行天皇の九州遠征の話から切り取られたものであろう。但し、古事記は日本武尊の熊襲建兄弟討伐の話のみ。おそらく三天皇はその統一の範囲を異にし、神武天皇は今の畿内から九州北部まで、崇神天皇は神武版図に加えるに北陸、中部、関東もその傘下に収め、景行天皇の時に九州南部まで覇権が及んだのではないか。その九州南部制覇の話がなぜ神武東征になったのであろうか。景行天皇の西征の順路を見てみると、
景行12年 8月 天皇自ら西下。
              9月 周防国娑麼(さば、山口県防府市) → 豊前国長峡県(福岡県行橋市)
    10月 碩田国(大分県大分市) → 速見邑(大分県速見郡) → 直入県祢疑野(なほりのあがた、ねぎの)(大分県直入郡) → 来田見邑(大分県直入郡久住町) → 城原(きはら)(大分県竹田市木原) いずれの地でも土蜘蛛等を討ったという。
    11月 日向国にいたる。高屋宮に6年間逗留。
  13年5月 熊襲平定
  18年3月 都へ向け出立。熊県(熊本県球磨郡) → 葦北(同葦北郡) → 高来県(長崎県諫早市) → 阿蘇国(熊本県阿蘇郡) → 的邑(いくはむら)(福岡県浮羽郡)。 熊県、高来県玉杵名村では土蜘蛛を誅すと。
  19年9月 還御
  復路は一仕事を成し遂げた後の今で言う観光旅行をかねていたのだろうか、往路が行く先々で土蜘蛛を討ったと記してあるのに、復路はそれが少なくなっている。おそらく景行天皇一団は往路も復路も周防灘、豊予海峡、日向灘を通ったのではないか。当時の常として、戦果を赫々たるものにするため往路と復路は別々にしたらしい。遠征の目的が熊襲討伐なのであるが、この場合熊襲は熊襲でも主として今の宮崎県に在住していた倭種の熊襲をを平定したのでは。但し、襲国の軍を率いる厚鹿文(あつかや)・乍鹿文(さかや)の鹿文は今の鹿屋市のことかという。さすれば、景行天皇軍は日向のどこかに(古墳が多い宮崎県西都市というのが一般的)陣取って襲国(現在の大隅半島か)を平定したか。しかし、これを日本書紀で子細に観察してみると、日向国にいたり行宮である高屋宮を建てるまでは、今の竹田市を中心にした界隈をうろうろしており(権の宮屋を来田見邑に建てている)、今の地図から見ても行宮の高屋宮とは現在の高千穂町にあったのではないか。高屋と高千穂は関連性がないのか。但し、遺跡はない。また、熊襲の襲国の熊襲梟帥(くまそたける)を討った後、子湯県(西都市)丹裳小野(にものをの)に遊ぶ、と言うのも、熊襲梟帥は現在の西都市にいたと思われる。即ち、当時の襲国とは今の西都市以南を指し、大隅半島もその一部であったのでは。また、鹿文を鹿屋市と決めつけるのも一考を要する。あるいは、鹿文(表記はkhayaか。当時はカ行とハ行の発音が未分化だったようで、こういう現象は日本だけでなく、ハルツーム/カルツーム(アフリカ)からチンギスハン/チンギスカン(モンゴル)など、至る処に見られる)が訛って隼(はや)となり、隼人となったか。景行天皇一行はその後も夷守(ひなもり・小林市)、諸県(もろかた・小林市または都城市)、熊県(くまのあがた・人吉市)を通っており、今の鹿児島県まで行ったとは思われない。いささか気になるのは、厚鹿文、乍鹿文、市鹿文、市乾鹿文、取石鹿文と名前の下に同じ「鹿文」の文字があることである。それまでの日本ではあまりない例だ。あるいは、これらの人の先祖は大陸から来たのか。つらつら考えるに、満蒙語で、「カラ」は血縁集団を意味するという。この言葉は日本にも入ってきて「うから」「やから」「はらから」「続柄」「家柄」はては「あいつは柄が悪い」などと使われる。「カラ」の音が当時の襲国の人にはなじまず、「カヤ」となり、自分たちは同族だ、と言う意味で、それぞれの名の下につけたものか。似たような事例として、全く信ずるに足るものではないが、かなり後世の清朝皇帝はその姓を愛新覚羅(あいしんかくら)といい、一般には満州語アイシンギョロを漢字に置き換えたものと解されている。しかし、昔、これに異を唱えて覚羅は「かくら」ではなく「から」と読むと宣った人がいた。鹿文がカラのことと解すれば、××鹿文は愛新覚羅と同じ発想である。
   ところで、景行天皇遠征軍には有力な将軍の名前が出てこない。将軍を表すのに群臣(まへつきみたち)、群卿(まへつきみたち)と言うような抽象的な文字が多く、実名は多臣の祖・武諸木、国前臣の祖・菟名手、物部君の祖・夏花(いずれも九州の豪族と思われる)と言う現地の将軍である。これは、景行天皇が難波(摂津国)の小豪族であり、未だ中央では有力侍臣や支持してくれる豪族がいなかったからであろう。その数少ない中央豪族の中に姻戚筋に当たる大伴氏と物部氏、吉備氏がいたのではないか。勿論、景行遠征譚は事実ではないと言うのが有力で何とも言えないが、日本武尊の東征譚には吉備武彦と大伴武日が出てくる(武日は日本書紀のみ。古事記にはない)ので、景行西征にも武日命が参加したか。吉備氏や大伴氏が出てくるのは、やはり景行天皇の親疎を表す理ではないか。
   さて、豊前、豊後には築城(ついき)、杵築(きつき)、臼杵(うすき)と末尾に「き」のつく地名があり、その傾向は日向の臼杵郡で終わっている。無論、薩摩にも高城(たき)、市来(いちき, 但し、「いちく」と訓じているものもある)などの地名があるが、これは大和の植民後(比較的新しいの意)の地名か。この地名の末尾が「き」で終わる地名は西日本に多く、国名でも壱岐、安芸、伯耆、讃岐、隠岐などに見られ、おそらく大和朝廷の前線基地が置かれたのではないか。従って、景行天皇が周防灘、豊予海峡、日向灘と南下した際には、大和の支配の尽きるところとして、日向国臼杵郡(現在の地名では、延岡市、日向市など)で陣を張ったのではないか。当時の戦争は景行紀にもあるように、損害を少なくするため1.外交交渉2.調略3.肉弾戦の順で進めたようで、臼杵(具体的には現在の高千穂町か)に滞在している間に大伴氏(武日命か)は臼杵の住民の伝承や系図等を採取したのではないか。そうして、今の西都市に駒を進めた際、現地の倭種隼人族(倭人ではあるが大和朝廷に服属していない人)ともいうべき人にその採取した伝承を縷々話し、日向(襲国)の人と大和の人は同族だと言いくるめたのではないか。但し、日本書紀では今の西都市にいたと思われる熊襲梟帥をその娘に殺させて、襲国を征服している。記紀の筆者の想定した高千穂峰は紛れもなく鹿児島県霧島市の方ではあろうが、事実は宮崎県西臼杵郡高千穂町(高千穂は一般的には「高く積んだ穂」と解されているが、「高い(高)たくさんの(千)山(穂)」)のことであろう。高千穂町の場合は、祖母傾連山のことか。但し、地名としては和名抄では臼杵郡智保(ちほ)郷となっており、「たかちほ」は高知保神(高千穂神社)と出てくるだけである。五ヶ瀬川というのも何やら五瀬命を連想させるし、三貴子の一人である素戔嗚尊は九州北部の人と推定されるが、その伝承が届くのは臼杵郡が限界か。
   大伴氏が採取した高千穂の建国神話とはどのようなものだったのだろうか。記紀に書かれているような話だったのだろうか。そのいわゆる「日向神話」だけだったのだろうか。記紀にある「神代」の物語はあちこちの建国神話を継ぎ足した感じがあり、日本オリジナルなものはほとんどないのではないかと思われるほどだ。何か海幸山幸の話は、摂津の海にいた大伴氏が山の大和へ行って、やはり海の方がいいや、と言う嘆きの話に聞こえるが、この種の話は世界中にあるそうな。
   以上より、結論を出すなら、神武天皇はその御名、正妃、宰相から判断しても大和の人であり、神武東征の話も景行西征の話が神武天皇に付け加えられたものであろう。神武天皇に関して言うと肝腎の出雲征服や吉備攻撃が欠落しており、残念至極である。そもそも、神武東征の一番だめなところは、地図がない時代にあって地図にそって東征を行っていることである。金剛山にでも天降った話にすれば、もっと真実みがあった。
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大伴氏はどこで建国神話を採取したか への2件のフィードバック

  1. エルゼヴィア より:

    それは邦親神しか知りますまい。

    • tytsmed より:

      エルゼヴィアさん、こんにちは!

       浅学非才の小生のとっては、「邦親神」なんて言う言葉は初めて拝見いたしました。
      意味はよくわかりませんが、仰せの通りかと存じます。

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